ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
アントワープ
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… これに比べてポルトガルのインド航路の開拓とスペインの新大陸発見は従来の貿易構造に対してはるかに大きな影響を与えた。大量のコショウがポルトガル船によってリスボンへ,さらにアントワープへと運ばれた。こうして16世紀前半にアントワープは西ヨーロッパの大市場に成長した。…
…スペイン,ポルトガルの王室は厳重な国家管理によってこの貿易から最大の利益をあげようとしたが,それにくいこんで成功したのはむしろドイツ,オランダ,イタリアなどの外国商人であった。一方,北方ではアントワープが大きく発展していた。その商業取引所は1485年に開設され,16世紀にはヨーロッパ中の商人が集まるようになった。…
…インド航路やアメリカの発見によってヨーロッパの海運は大きく発展したが,北海と地中海を結ぶ伝統的な交易網もなおその重要性を失わなかった。【清水 広一郎】
[近世・近代の海運]
16世紀における北西ヨーロッパ最大の中継貿易港アントワープが,オランダ独立戦争の渦中で1585年スペイン軍に占領され港の入口がオランダ側に閉鎖されると,中継貿易の中心はオランダのアムステルダムに移った。17世紀前半オランダの海運と貿易は驚異的発展を遂げ,その商船隊はバルト海,北海から南の地中海,レバント,さらにアフリカ西海岸,カリブ海域,北アメリカ,東アジアにまで進出し,オランダはまさにヨーロッパの海運業者になった。…
… アジアにおけるポルトガルの活動はアルブケルケ以後は国家財政の悪化もあってしだいに低調になっていったが,48年になって大きな転機を迎えた。この年国王ジョアン3世はベルギーのアントワープにあった商館を閉鎖し,王室財政の悪化が明白になった。またインドではこの年に積極的な軍事政策をとっていた副王ドン・ジョアン・デ・カストロがゴアで没し,これ以後インドにおけるポルトガル人はゴアを中心として,イスラム商人との間に貿易を行うだけになった。…
※「アントワープ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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