イスラエル王国(読み)イスラエルおうこく

改訂新版 世界大百科事典 「イスラエル王国」の意味・わかりやすい解説

イスラエル王国 (イスラエルおうこく)

前1020年ころ,預言者サムエルの指導の下に,イスラエル諸部族がベニヤミン族出身のサウルを王に選び,近隣諸民族の王政にならって建てた王国。それまでの緩やかな部族連合では,海岸地帯から内陸に向かって勢力を拡大してきたフィリスティア人ペリシテ人)に対抗できないと悟ったからである。サウルは,治世初期に王国の防衛に成功したが,やがて宗教的指導者サムエルと衝突し,すぐれた武将ダビデを追放してみずからを弱めた。サウルがフィリスティア人と戦って敗死すると,軍の長アブネルAbnerは東ヨルダンに逃れ,サウルの子エシバアルEshbaalをイスラエル王に擁立して対抗した。まもなくアブネルとエシバアルが相次いで暗殺されると,イスラエル諸部族の長老はダビデと契約を結び,彼にイスラエルの王位を提供した。こうしてユダ王ダビデがイスラエル王を兼任した結果,ユダ・イスラエル複合王国が成立した。ただし,この複合王国を代表する名称はイスラエルであった。そこで,サウルとダビデ,ソロモンが支配したイスラエル王国を〈統一イスラエル王国〉,ソロモンの死後ダビデ家の支配を脱して南のユダ王国と対立したイスラエル王国を〈北イスラエル王国〉と呼んで,両者を区別する。

 前10世紀初頭に,ダビデは南方部族の中心都市ヘブロンから,南北複合王国の中間に位置するエルサレムに遷都し,そこへ王国成立前の部族同盟の象徴であった〈契約の箱〉を搬入して,イスラエルの神ヤハウェがエルサレムを選び,同時にダビデとその子孫を全イスラエルの支配者に選んだと主張した。これを〈ダビデ契約〉と呼ぶ。ダビデは,外に向かっては宿敵フィリスティア人を撃破したのち,東ヨルダンの諸民族とシリアのアラム人を征服して,南は紅海から北はユーフラテス川に達する大帝国を築き上げた。この帝国を継承したソロモンは,首都エルサレムにヤハウェの神殿を建て,〈ダビデ契約〉を確認した。ソロモンは行政組織を整え,国際通商路を支配して関税を徴収し,フェニキア人の協力を得て国際貿易に従事して莫大な収益をあげた。しかし,同時にエルサレムの神殿と宮殿の造営をはじめ,全国各地に要塞を築くため,北方諸部族に強制労働を課した。この政策に対する不満が直接の原因となって,ソロモンが死ぬと北方諸部族はダビデ家に背き,北イスラエル王国を建てた。

 前928年ころ北イスラエル王国初代の王に選ばれたエフライム族出身のヤラベアム1世は,ダビデ家が支配するエルサレムの神殿に対抗して,ベテルとダンに王国の神殿を建立した。彼がこの両神殿に置いた金の子牛は,本来ヤハウェの足台であったと考えられるが,エルサレム神殿の立場をとる聖書記者は,これを偶像礼拝であるときめつけて非難した。ヤラベアム家はわずか2代で滅ぼされ,新王朝を創立したバアシャBaashaも,南北からユダ王国とダマスクスのアラム人に攻められてその支配力が弱体化したため,2代しか続かなかった。このあと,王位をめぐって数年間内乱が続いたが,前878年オムリが王になった。オムリはサマリアに王都を定める一方,ユダ王国と平和条約,フェニキア人と通商条約を結んで,北王国に初めて安定した王朝を建てることに成功した。このため,アッシリア資料は,オムリ家が滅亡したのちも,北王国を〈フムリの家〉と呼ぶ。また,アッシリア資料によると,オムリの子アハブは,シリア・パレスティナ地方において,当時最大の兵車隊を持っていた。しかし,アハブの王妃であったフェニキア人イゼベルが,フェニキアの神バアルの礼拝を強制して,ヤハウェ一神教を弾圧したため,オムリ王朝に対する激しい抵抗運動が起こった。これを指導した預言者エリヤとエリシャの影響下に,〈ヤハウェ主義革命〉が起こり,前842年ころエヒウJehuがオムリ家を滅ぼして王位についた。

 エヒウ家の支配は約1世紀続いた。最初,過激な粛清を行ったため国力が衰え,アラム人の侵攻を受けて苦しんだが,前8世紀中葉になると,ヤラベアム2世は,南ユダ王国のウジヤUzziahと協力して近隣諸民族を征服し,ダビデ・ソロモン時代に匹敵する版図を回復した。当時の経済的繁栄とその結果起こった社会層の分裂を,預言者アモスが伝える。ヤラベアムが死ぬと王国は解体しはじめ,続く25年間に4回の王位奪が起こり,6人の王が交代した。しかも,時を同じくして大征服戦争を開始したアッシリアの侵略を受け,王国の領土はサマリアのあるエフライムの山地を残すだけになった。そのため,当時のイスラエル王国は,サマリア,あるいはエフライムという別名で呼ばれる。前722年にアッシリア人がサマリアを占領し,人々を捕囚してアッシリア帝国各地に散らした。代わって帝国各地から捕囚されてきた雑多な諸民族がサマリアに植民させられ,北イスラエル王国は滅亡した。
ユダ王国
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「イスラエル王国」の意味・わかりやすい解説

イスラエル王国
いすらえるおうこく

紀元前11世紀にイスラエル人がカナーン(シリア、パレスチナ)の地に樹立した王国。カナーンの地に定着し、唯一神ヤーウェ信仰を中心に国家的集団を形成するに至ったイスラエル諸部族は、前11世紀の終わりに、海の民ペリシテ(フィリスティア)人の侵入に促されて、カナーンの地に初めて王国を樹立した。ベニヤミン人の名望家の子として生まれた貴族的氏族出身のサウルが、宗教的権威者であり預言者であったサムエルから油注ぎを受けて聖別され、初代の王に選ばれた(在位前1020~前1004)。武将ダビデとの悲劇的な争いののち、ペリシテ人との戦いに敗れて3人の息子とともに陣没した。サウル王権は、後のダビデ、ソロモンのそれに比べれば、部族制社会に基礎を置く地方政権にすぎなかった。その後ダビデが王位を継いだ(在位前1004~前967)。ペリシテの属王とみなされていたダビデは、ペリシテ人に反旗を翻し、優れた軍事力と政治力とをもってペリシテ人の支配から脱し、南北いずれの部族にも属さないエブス人の町エルサレムを攻略し、南北両王国を同君複合の形で統治した。エルサレムを首都と定め、同地を政治、軍事、宗教上の一大拠点として、近隣諸国を征服し、さらにシリアのアラム人をも破って、南は紅海から北はユーフラテス川に達するイスラエル史上最大の支配領域を築き上げ、それを嗣子(しし)ソロモンに残した。ダビデ王国は、兵制のうえからは傭兵(ようへい)制度的王国であった。ソロモンの即位は、イスラエル王国のカリスマ的理念を打ち破った王位世襲制の第一歩であった。ソロモン(在位前965~前928)は、官僚国家の諸制度を確立し、人民に重税を課する一方、エルサレムに宮殿や神殿を建造し、黄金時代を築いた。とりわけ、活発な対外交易活動を通じて経済的発展を図り、軍備を強化して、万一の場合に備えた。広大な領土を防備するために、要害の地に高度な技術を投入して要塞(ようさい)諸都市(ハツォル、メギッド、ゲゼル、アラド)を築き、強大な軍備を整えた。メギッドからは数百の厩舎(きゅうしゃ)が発掘されている。

 ソロモンの酷政とその子レハベアムの暗愚とにより、王国は、南のユダ人とベニヤミン人とを含む南王国(初代の王レハベアム)と、北の10部族からなる北王国(初代の王ヤラベアム1世)との独立王国に分裂した(前928)。北王国はサマリアをおもな拠点としてイスラエル王国の名を継承し、南王国はエルサレムを基盤としてユダ王国となった。北王国は、南王国よりも経済的、文化的に富んでいたが、宗教的には異教化の危険にさらされ、200年の間に8回もの革命を重ねたのち、前721年アッシリア王サルゴン2世によって滅ぼされた。一方、南王国は北王国滅亡後も存続し、アッシリア、エジプト両勢力の間に立たされて内政、外交ともに振るわず、前586年新バビロニア王ネブカドネザル2世によって滅ぼされ、すべての役人たちと上流階級が捕らえられバビロニアへ移された(バビロン捕囚)。

[高橋正男]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「イスラエル王国」の意味・わかりやすい解説

イスラエル王国
イスラエルおうこく
Kingdom of Israel

ソロモンの死後,ヘブライ人の統一王国が2つに分裂してできた王国の一つ (前 937/22~722/1) 。北部にあったので北王国ともいう。すでに統一時代から南北の対立がみられたが,ソロモンの子レハベアムの専制的態度が直接の原因となって,サマリア地方の総督でエジプトに亡命していたヤラベアムがそむいて,前 937年頃あるいは前 922年頃エルサレムの北わずか数 kmの地点以北を独立した国家とした。イスラエル王国はカナン的都市文化圏にあり,農耕生活が中心で,最初ティルザを首都としたが,前 884年に登位したオムリ王がサマリアに遷都し,そこにカナン風の宮廷をおいた。しかし,ユダ王国やダマスカスを中心とするアラム人,砂漠のモアブ人,アッシリア帝国の西方進出などの慢性的危険のなかで王朝は常にゆらいでおり,前 841年頃にはエフのクーデターが起った。結局,アッシリア王ティグラト=ピレゼル3世やシャルマネゼル5世らの攻撃を受け,前 722/1年にサルゴン2世がサマリアを陥落させ,住民2万 7200人を強制移住させた。そのかわりに,サマリア周辺に入植させられた他民族とユダヤ人が混血し,サマリタン人 (あるいはサマリア人) と呼ばれる独自の風習をもった集団が生れた。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「イスラエル王国」の解説

イスラエル王国(イスラエルおうこく)
Israel

ヘブライ人が古代に樹立した王国。神ヤハウェに仕える宗教連合イスラエルの伝統にもとづき,ペリシテ人との戦いなどの外的要因に促されて,前1020年頃(諸説あり),サウルが初代の王に選ばれた。彼の戦死後ダヴィデが位を継ぎ,都を新たに攻略したイェルサレムに定め,四隣を従えて国力を増大した。その子ソロモンは官僚国家の体制を整え,通商貿易をおこしたが,宮殿,神殿の建築などのため人民に重税,夫役を課した。その子レハブアムの代(前931年?)に北の諸族が彼にそむき,国土はヤロブアム1世を王とするイスラエル王国と,依然レハブアムをいただくユダ王国に分裂した。イスラエル王国はユダ王国より富強であったが異教化の傾向も著しく,預言者の警告も空しく,ヤロブアム2世の全盛期後しだいに衰え,前722年ないし前721年アッシリアに滅ぼされた。

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百科事典マイペディア 「イスラエル王国」の意味・わかりやすい解説

イスラエル王国【イスラエルおうこく】

前11世紀,イスラエル諸部族がカナンの地に樹立した王国。前1020年ころフィリスティア人(ペリシテ人)の外圧に促されてサウルが初代の王となる。ダビデソロモンの治下に黄金時代を築いたが,前928年ころ南北に分裂,北王国がこの名称を継承し,南王国はユダ王国となる。したがって,分裂以前の〈統一イスラエル王国〉と以後の〈北イスラエル王国〉は区別されなければならない。イスラエル王国は経済的・文化的に富強であったが,宗教的には異教化の危機にさらされ,前722年アッシリアに滅ぼされた。
→関連項目パレスティナ

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旺文社世界史事典 三訂版 「イスラエル王国」の解説

イスラエル王国
イスラエルおうこく
Israel

ソロモン王の死後,南北に分裂したヘブライ王国の北半分
成立は前930年前後と考えられる。16代の諸王が続いたのち,前722年アッシリアの攻撃を受けて滅亡した。

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世界大百科事典(旧版)内のイスラエル王国の言及

【エルサレム】より

…前1000年ころ,ダビデ王が,エブス人が支配していたエルサレム南東の丘の要害シオンを征服して新しく〈ダビデの町〉と名づけた。エルサレムは統一されたばかりのイスラエル王国の首都となった。ダビデの死後王位についたソロモンは,〈ダビデの町〉の北側に延びるモリヤの丘に,フェニキアから輸入した高価なレバノン杉や南方オフィルの地から運んできた金銀をぜいたくに使用した王宮やヤハウェ神殿を20年の歳月をかけて建てた。…

※「イスラエル王国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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