イスラームと大学(読み)イスラームとだいがく

大学事典 「イスラームと大学」の解説

イスラームと大学
イスラームとだいがく

故郷の上エジプトで初等教育を終え,カイロのアズハル(アズハル-モスクに付属する教育機関)でターハー・フサイン,T.(1889-1973)が見たものは,暗記とマンネリズムに陥った教育だった。新生私立エジプト大学(現カイロ大学(エジプト)の起源)に期待を寄せて,著名なオリエンタリスト薫陶の下,過去の時代背景と文学とを対比した彼の研究は保守的な反発を招いた。イスラームの知的遺産に対する古代ギリシアの学問的影響を容認できないほど,アズハルの総意は実態から乖離していた。行きすぎた信仰の強調によって,科学的精神が歪曲される例は枚挙にいとまがない。西欧的学問とイスラームの知的遺産との間の,あたかも本質的にも見える隔たりは,歴史的過程から理解する必要がある。

 神の言葉「クルアーン(コーラン)」や預言者の言行ハディース」が伝承されるなかで,人対人の直接伝達(教育)が確立し,始原性と連続性をもつ情報の知的継承者として,ウラマー(宗教諸学の知識人)が誕生した。書物の普及で誤読や解釈の問題が表面化すると,師弟間の直接伝達の記録(イジャーザ)が新たに慣習化された。蓄積された情報は信者の内外に議論を喚起し,地中海世界東部のネストリウス派や単性論派が保持してきた古代ギリシア諸学(とくに論理学)を取り入れ,思弁神学や法学など方法論的学問が発展し,信仰や社会のあるべき姿が問われた。医学や数学なども現実的需要に応じて摂取され,ウラマーの担う知識の体系は飛躍的に拡大し,信仰に基づいた社会の発展を促す知的遺産が形成された。

 日々の生活の是々非々を宗教的観点から具体的に判断する法学の需要が増大すると,社会関係の宗教的深化に寄与はしたが,蓄積された情報を用いるだけの論理的思考は新たな知識体系を創出することはなかった。11世紀半ば,ニザーミーヤ学院(イスラーム)(マドラサの嚆矢)が,宗教的寄進による教育支援の範型を生み出した。社会の富で運営されるマドラサ(イスラーム)によって教師の経済的地位は安定し,学生も学業に専念できるようになった。ただし,敬虔な保護者としてウラマー自身に手放しで歓迎された実態が示すように,マドラサを積極的に援助した支配者たちにとっては,ウラマーを支配下の枠内に繫ぎ止めることが最重要課題だった。こうして既存の体制を必要条件とする学識階層化したウラマーは,なおさら知識体系の内側へと関心を向けた。アラブ固有の伝承的学問とギリシア由来の外来の学問を対置して,前者の宗教的学問が後者の理性的学問に優越するといった意識が高まっていった。信仰上の理想を追求するために,古代ギリシア由来の学問的手法を用いた過去の事実は忘れ去られていった。

 16世紀後半,オスマン帝国はマドラサを位階制として整備し,官僚的人材の登竜門として発展させた(イルミイェ)。ここでは自然科学系の学問も対象とされていたため,18世紀以降,後に新学校で西欧自然科学の教師を務めて,西欧列強に対抗する改革に腐心するウラマーの輩出に貢献した。その一方で,固有の知的遺産,つまり伝統的な宗教的学問だけに固執するウラマーも存在していた。

 十二イマーム・シーア派イランのゴムやマシュハドなどでは,マドラサに相当するホウゼ=イェ・ルミーイェ(イラン)が現在も存続している。これらに属しないウラマーによって,社会を立て直す教育改革が試行された。ミールザー・ハサン・ロシュディーイェ,M.H.(1851-1944)は,音声学的識字教育を創出したが,特定の書物を丸暗記するだけで,識字力が身につかない惨状がその背景にあった。ターハー・フサインを落胆させ,イスラーム再興に奔走したアブドゥ(1849-1905)にも改革を断念させたエジプトのアズハル(エジプト)とは,知的遺産の正しい記憶を失った,学識階層化したウラマーが集う伝統的高等教育施設の象徴だった。他方で,危機的な現状認識をもったウラマーたちは,正確な記憶に基づいた遺産の活用によって,イスラームと科学の両立による社会の発展に取り組んでいる。

 パキスタンのノーベル物理学賞受賞者(1979年)アブドゥッサラーム(1926-96)は,イスラームの宗教観によって自然科学が促進されることを自らの経験に基づいて説いている。トルコの思想家ギュレン(1941年頃-)の宗教的教えに基づいて,大学で人文・自然科学を身につけた「世俗」の民間エリートが,異文化交流や質の高い教育の提供を通じて,信仰に基づいた社会関係を拡大するヒズメット(ギュレン運動)は世界的に注目されている。インドネシアの国立イスラーム大学医学部(インドネシア)(ジャカルタ校)は,宗教省のサントリ奨学金プログラム(インドネシア)の一環として,「ムスリム・ドクター」制度を実施している。サントリ(マドラサに相当するプサントレン(インドネシア)で,宗教学を修めた学生)は,イスラームの慣習の根強い,貧しい医療過疎地の出身者が多い。医療需要に対応できる宗教的知識をもったウラマーを育成すべく,医学と宗教学を融合させるカリキュラム構築が開始され卒業生を輩出している。

 西欧的学問と伝統的な知的遺産の二項対立を超越しようとするこうした事例には,神の創造した世界を適切に管理すべきという宗教的義務観が通底している。宗教的義務であれば,西欧由来の物理学であろうと経済学であろうと学問的探求の対象とされ,同時にそれは宗教的貢献として意識される。サウジアラビアには,2009年時点で国立・私立の32大学487学部があり,留学生の派遣や受入れも活発となっている。教育方針の中核にはイスラームが据えられているが,信仰と科学を融和させるカリキュラム創出の如何を見守る必要がある。豊富な予算と充実した設備で教育が行われたとしても,伝統を喪失したテクノクラートは保守的な反発に直面する。宗教を形式的に組み込んだ「カリキュラムのイスラーム化」は,科学的精神を涵養せず,現実問題に対応できる技術や知識を修めた人材を生み出すことさえもできないだろう。
著者: 阿久津正幸

参考文献: 阿久津正幸「ファーラービー諸学通覧―知識のネットワーク化とムスリム社会」,柳橋博之編『イスラーム―知の遺産』東京大学出版会,2014.

出典 平凡社「大学事典」大学事典について 情報

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