インドネシア(英語表記)Indonesia

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精選版 日本国語大辞典 「インドネシア」の意味・読み・例文・類語

インドネシア

(Indonesia)
[一] 東南アジア、太平洋とインド洋との間にあるマレー諸島の総称。スマトラ、ジャワ、カリマンタン(ボルネオ)、スラウェシ(セレベス)、バリ、ロンボクなど大小一万数千の島々がある。
[二] 国名。(一)の大部分を占める旧オランダ領東インドが独立したもの。一九四五年、インドネシア共和国として独立を宣言。オランダとの抗争四年にして実質的な独立を獲得。首都はジャカルタ。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「インドネシア」の意味・わかりやすい解説

インドネシア
Indonesia

基本情報
正式名称=インドネシア共和国Republic of Indonesia 
面積=191万0931km2 
人口(2010)=2億3764万人 
首都=ジャカルタJakarta(日本との時差=-2時間) 
主要言語=インドネシア語,ジャワ語,スンダ語 
通貨=ルピアRupiah 

東南アジアの大国。赤道をはさんでその南北に広がる島嶼(とうしよ)国家である。国名は〈島嶼のインド〉の意で,その文化的影響を大きく受けた〈大陸のインド〉に対する意識から名付けられた。

インドネシアは赤道を中心に広がるマレー諸島の大部分を占める世界最大の群島であり,同時に地質的には世界で最も複雑な構造を示す地域でもある。すなわちここは古い時代の比較的安定した二つの地塊(東部のサフール海棚と西部のスンダ海棚)の間にはさまれた地盤のきわめて不安定な地域で,スンダ海棚はアジア大陸の延長部分であり,その上にカリマンタン(ボルネオ)島が現れている。これに対しサフール海棚はニューギニアとともにオーストラリア大陸と連接し,浅いアラフラ海を形成する。そしてこの二つの海棚間に第三紀の強い造山運動によってスンダ山系を生じ,スマトラ島から東へ連なる大小スンダ列島を生じた。これは遠くヒマラヤ造山帯に連なる山系で,激しい火山活動を伴い,世界的な火山地帯となっている。火山の数は130にも及ぶが,今なお活動を続けるものは78,その中ではスマトラ島のクリンチ,ジャワ島のメラピ,ブロモ,スメル,バリ島のアグンなどが名高い。スンバワ島のタンボラ,スンダ海峡中のクラカタウ火山のように世界的な大爆発の歴史を示したものもある。また群島東部には環太平洋火山帯が通り,スラウェシ(セレベス)島,モルッカ諸島方面に多くの火山がそびえる。したがってインドネシアは全体として地震が多い。これらの火山活動は,一方では肥沃な火山性土壌を形成して生活に好条件を与える。スマトラ西岸やジャワの稠密な人口集中もこれと無関係ではない。火山地域から外れたボルネオの希薄な人口とは対照的である。

 気候的には赤道直下の雨林気候とその南北に広がるモンスーン気候の二つに区分されるが,一般に常時高温で,全地域が年平均25~27℃の範囲内にある。雨量はモンスーン気候の地域では雨季と乾季により著しい差があり,西部ジャワの山地では雨季に4000mmに達する所もあるが,スンダ列島の東部に向かうほど乾季が長く,雨量は少なくなる。また乾・雨両季の中間に赤道前線の接近の程度により干害を受けることもある。しかし全体的には熱帯多雨の特質が明らかで,密林に覆われる所が多い。〈赤道にかけられたエメラルドの首飾〉という形容句は群島の常緑景観をよく示したものといえよう。高い火山地形が多いため,標高による気温の変化も著しく,イリアン・ジャヤの4000~5000m級の高山では氷河や万年雪が見られ,ジャワでも3000mの高さになれば冷涼で高山植物も見られる。ブロモ火山の標高2200m付近では年平均気温は16℃,700mのバンドン高原では22℃となる。これらは近代において低地の暑熱を避けての高原休養都市の発達や,気温の垂直差を利用しての各種農作物の栽培に有利な条件ともなった。

 こうした植物分布の豊かさはインドネシアの自然の一大特色で,それはこの地域本来のものにアジア系,オーストラリア系のものが混在することによっていっそう著しくなる。被子植物だけでも2万5000種あり,ヤシの種類も1000以上にのぼる。花の多様性,ことに蘭の種類の多いことも特色といえよう。森林の5分の1はまだ原生林のままで,イリアン・ジャヤ,ボルネオの森林率は80%にも及ぶが,ジャワでは23%ほどに低下している。しかし高山地域を除けば,焼畑農業の行われた所では原生林が失われてアラン・アラン草(イネ科の多年草チガヤ)の茂る草原に変わったり,さらにそこに第二次林が茂った所が多い。

 動物分布は地理的位置によってアジア,オーストラリア両系のものを含む。西部の島々ではアジア系のものと同じく,象や虎もいるが,マカッサル海峡とロンボク海峡をつなぐいわゆるウォーレス線を境に東部ではオーストラリア系のものが著しくなり,有袋類などがみられる。さらにスラウェシ東岸とティモール島東端とを結ぶウェーバー線によっても若干の動物(鹿の類)の分布の境界線が設定されている。そのほかインドネシアは各種の特殊動物の存在でも知られ,オランウータン,バンテン(野生の牛),野生の小型の馬,コモドオオトカゲなどは有名で,保護区が設けられている。貴重な鳥類も多い。
執筆者:

インドネシアの住民は200とも350ともいわれる民族集団に分かれ,互いに言語,社会構造,生活様式を異にしている。インドネシア共和国は各民族集団別の人口統計作成を意識的に避けているので,正確な数字は得られないが,ジャワ島中・東部を本拠とするジャワ族(約6000万。1982推計。以下同),同島西部のスンダ族(2000万弱)のごとき巨大な集団から,イリアン・ジャヤに見いだされるような数百人規模の諸集団まで,それぞれの規模はきわめて多様である。なお数百万人規模に達する著名な民族集団としては,スマトラ島北端のアチェ族,中北部のバタク族,西部のミナンカバウ族,東岸一帯のマレー人,マドゥラ島およびジャワ島東端部のマドゥラ族バリ島のバリ族,スラウェシ島南部のブギス族などがある。またおもに17世紀以降大量に来住しインドネシア全域の都市部に住む華人(中国)系住民は300万~400万人と数えられる(1971推計)。華人系,インド系などの後来者を除くインドネシアの諸民族集団は,東端部のイリアン・ジャヤ,ハルマヘラ島北部のパプア諸語系集団を例外として,言語的にはすべてアウストロネシア語族のインドネシア語派に属する。彼らは元来中国西南部に居住し,前2500-前1500年ころ南下して現在のインドネシアの地に広がったと考えられる。インドネシア語派の諸言語は,またマレーシアとフィリピンの全域,タイ南部(マレー人),ベトナムやカンボジアの一部(チャム系諸集団),台湾山地,さらに遠くマダガスカル島全域にまで分布し,これらの住民はすべて言語系統を一にし,基層文化上の類似を示す。その後インドネシアの地には,新たな他民族の大規模な来住や侵入,定着は見られなかった。17世紀以降この地をしだいに植民地化していったオランダ人も,ラテン・アメリカのスペイン人のごとく大規模な通婚により民族構成を変化させることはしなかった。オランダ植民地時代以降に来住した華人やインド人,アラブも今日まで周縁的で弱い少数派集団の地位にとどまっている。したがってインドネシアの民族構成は表層において著しく多様でありながら,基層においては同質的である。

 インドネシア全域の政治的統一は,19世紀から20世紀初頭にかけてオランダの手により初めて実現されたのであり,それ以前は上記の200~350の諸民族集団ごとに,ほぼ独立した社会生活が営まれていた。その多くは身分制と首長制を伴う社会であったが,ジャワ族,バリ族,アチェ族のように王権観念と王国組織を高度に発達させた例を除く他の多くの社会は,親族的・村落的結合を基盤にした小規模なものであり,王は存在したとしても現実的統治力の弱い象徴的存在であった。生業の面では,スマトラ島南東部のクブ族,カリマンタン山地部のプナン族など若干の移動的採集狩猟民を除き,ほぼすべての民族集団が農業を主としてきた。その伝統的類型は大きく3種に区分できる。第1は,ジャワ族,スンダ族,マドゥラ族,バリ族,ミナンカバウ族,ロンボク島のササク族など,灌漑水稲耕作を行うもの,第2は,他の大半の民族集団の例であって,陸稲などの焼畑耕作を行うもの,第3は,東ヌサ・トンガラ州,マルク州,イリアン・ジャヤ州など東端地域に見られる類型で,焼畑とならんでサゴヤシ,バナナなどに大きく依存する。現在では灌漑水稲耕作が上記第1類型の諸集団以外にも急速に広まっている。一方,東南アジア各地,インド,中国などと結ぶ海洋交易も古くから盛んであり,こうした商業活動の伝統も農業と並んで重要である。

 インドネシア住民の宗教生活の基層には,土地,家屋,泉,樹木,岩,山,海などあらゆる場に存在する諸精霊,秀でた人物や物体に宿る超越的力,神格化した死者霊などへの信仰が見いだされる。歴史史料が現れ始める5~8世紀ころのスマトラ,ジャワでは,すでにインドから渡来したヒンドゥー教,仏教が受容されていた。とくに8~14世紀にはジャワ島中・東部の諸王国において,いわゆるヒンドゥー・ジャワ文化が頂点をきわめた。13世紀末にスマトラ北西端に伝わったイスラムは,その後海洋交易路を通じてインドネシアの各地域に広まり,16世紀にはジャワ人もほとんどがイスラム化する。ただバリ島にはイスラム化の波が及ばず,バリ化されたヒンドゥー的信仰と文化が今日まで保たれている。海洋交易路から外れた周辺地域や大島嶼内奥部の住民もまたイスラム化の波を受けることなく伝統的な固有信仰を保っていたが,ここでは19~20世紀にヨーロッパ人宣教師が活動し,キリスト教化した地域も多い。スマトラのバタク族,スラウェシ北端のミナハサ族などがプロテスタントの中心であり,また東ヌサ・トンガラ州のティモール島,フロレス島などではカトリックの力が強い。

 今日一般にインドネシア国民の90%がイスラム教徒だといわれる。だが多くの場合その信仰はアラブ的厳格さと隔たった自由で混交的なものである。この傾向はとくにジャワ族に強く,土着的・ヒンドゥー的要素を含めたジャワ的伝統をコーランの教えに優越させる立場が多数を占める。一方,スンダ族,アチェ族,ミナンカバウ族,ブギス族などの間では,国内の多数派であるジャワ族との対抗関係もあって,よりコーランに忠実で厳格な信仰を守ろうとする傾向が強い。インドネシア人の宗教生活は,土着的基層の上にまずインド的宗教が接木され,さらにイスラム,キリスト教が接木されたものであり,日常の民俗的次元では諸宗教の違いを超えた大きな共通性が見られる。
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近年の目ざましい工業化,都市化の進展にもかかわらず,インドネシア人口の3分の2(1995)は,依然として農村社会に生活している。世界有数の島嶼国家であるインドネシアでは,農村社会のありさまも地域によって多様であるが,一方その基層にはある程度の共通性も認められる。例えば農村内の社会階層制度に関していえば,村の先住民の子孫が通常社会的に高い地位を享受している。冠婚葬祭,農作業,災厄などにおけるゴトン・ロヨン(相互扶助)活動は,村人の生活において重要な機能を果たす。また女性の社会的地位も一般に高い。このような特徴は,オランダ植民地支配の進展や貨幣経済の浸透に伴い,ジャワ農村社会などにおいて特に19世紀以降一部変容したが,概してインドネシアの農村社会に今でも広く見ることができる。

 村内の土地利用や人間関係を律する上において,国の法律とは異なるアダット(慣習法)の影響が依然として認められることも,インドネシアの農村社会に共通の現象である。しかしアダットの内容自体はインドネシアの諸地域によってさまざまであり,村人たちはテレビ,ラジオなどを通じて都市文化の影響を受けつつも,一方でいまだにその地方固有のアダットの中で生活しているといってよい。アダットがいかに多様であるかは,基本的な人間関係を律する親族構造に如実に表れている。同じスマトラという一つの島をとっても,ガヨ族,ニアス族,バタク族は父系制の社会で,出自および財産相続も父方を通して行われる。しかし中央スマトラのミナンカバウ族やスメンド族は母系制の社会であり,東スマトラ沿岸のマレー人は双系制の社会である。ちなみに他の主要なインドネシア諸種族のうち,バリ族は父系制,ジャワ族,スンダ族は双系制,中部カリマンタンのダヤク族の一部は父方・母方のいずれを通じても出自をたどれる選系制の社会である。

 農村に対比される都市の発展は,1945年の独立以降とくに顕著である。オランダ植民地時代以前では,古くはパレンバンやジャワ島北岸の港市のような商業都市が栄え,内陸部ではマタラム・イスラム王国のスラカルタやジョクジャカルタのような宮廷都市が発達した。オランダ植民地支配の完成期である19世紀になると,バタビア(現,ジャカルタ),バンドン,スラバヤのような大都市が拡大,発達し,さらに行政・教育あるいは商業中心地としての地方都市も発展するにいたった。しかし商業作物栽培,プランテーション経営を中心とする重商主義的従属主義の植民地政策のもとでは,都市の発展にもおのずと限界があった。インドネシア独立後の都市の発達は著しく,人口100万以上の都市は,ジャカルタ(916万。1996。以下同),スラバヤ(270万),バンドン(237万),メダン(191万),パレンバン(135万),スマラン(135万),ウジュン・パンダン(109万)の7都市がある。

 都市はあらゆる意味で多様なインドネシア社会の縮図である。都市住民の大多数は地方からの流入者で,さらに中国人,インド人,アラブなども,インドネシア国籍取得者・非取得者の別なく都市に多く居住している。都市居住民の生活には,インドネシア語の日常的使用,核家族結合の優位,消費文化の浸透といった相似通った生活様式がみられる。貧富の格差も農村に比べると激しい。

 都市居住がもたらす生活様式の一様化への傾向にもかかわらず,都市居住者はおのおのの出身地域のアダットと無縁の生活を送っているわけではない。例えばジャカルタ在住のミナンカバウ族,バタク族,メナド族などは,出身地域,ときには出身村別の同郷組織をつくっており,同郷人としての親睦を深めるとともに,冠婚葬祭に伴うアダット儀礼の都市での遂行,相互扶助,インフォーマルな婚姻の規制,出身村との関係の緊密化をはかっている。出身地別のある程度の職業分化や都市内居住地域の分化も見られる。このような傾向は地方出身者だけでなく,ジャカルタのバタウィ族のように都市そのものを出身地とする人々の間にも見られる。都市化の進行は,インドネシア社会の多様性を必ずしも払拭するものではない。

 オランダ植民地時代,インドネシア社会の多様性に対する行政側の対応は,多様性を分割統治のための道具として利用する一方,他方では多様性の一元化を目指すものでもあった。アダットからまず刑法に関するものが分離され,オランダ司法機関の管轄下に置かれた。他の法領域の一元化をはかる前提として,アダットの体系的編纂も企てられたが,オランダ法学者の反対もあり果たされなかった。近年の同様の趣旨の試みとしては,スハルト政権下における婚姻法の制定や,村落行政機構の一元化への動きがあげられる。けだし国是〈多様性の中の統一〉は,インドネシアの社会が直面する現実と理想を象徴している。
執筆者:

赤道を中心として,東西約5100km,南北約1900kmに及ぶ広大な境域に点在する大小約1万3700の島々からなるインドネシアは,世界最大の群島国家である。インドネシアは面積で東南アジア全体の約43%,人口で東南アジア総人口の約40%を占めているから,東南アジアの超大国でもある。この国家が現在のような形で成立するに至る過程はきわめて複雑であるが,その歴史は次の四つの時期に大別することができる。第1期はヒンドゥー・ジャワ王国が興亡を繰り返す15世紀末ころまでの時期,第2期はイスラム王国が成立する16世紀からオランダによる植民地支配が今日のインドネシア全域に及ぶ19世紀末までの時期,第3期はインドネシア民族主義運動が開始され独立宣言が発せられる20世紀前半までの時期,第4期はインドネシアが独立国家として成立してから今日に至るまでの時期である。以下に各時期の歴史の主要な流れを概観してみよう。

インドネシア語で祖国のことをタナ・アイルという。タナは土を意味しアイルは水を意味するから,字義通りには祖国とは〈土と水〉のことである。これはインドネシアが海(水)の世界と野(土)の世界という二つの世界から構成されていることを示していると考えることができる。海の世界とはスマトラ島のマラッカ海峡沿岸やジャワ海沿岸に代表される地域で,ここは海上交通によって古くから互いに往来が行われていただけでなく,海上交易によってインドネシア以外の地域とも結びついていた。ここは水路と海路で結ばれてきた世界である。これに対して野の世界はジャワ島内陸部の平地に代表される地域で,ここは古くから稲作農耕民が定着してきた人口支持力の高い世界である。インドネシアの歴史はこのうち海の世界を窓口として外来の文物,文化,制度を受け入れ,それが野の世界に根づいて開花するという形で進展してきたということができる。

 現在の住民の祖先は,前2500年ころから前1500年ころにかけて中国雲南地方からインドシナ半島を数次にかけて南下し,この地に渡来したといわれている。後1世紀ころからインド文化の影響を受け,ヒンドゥー教,サンスクリット文化,ヒンドゥー的統治制度がもたらされ,後には仏教も伝来した。そしてこの時期以降さまざまな王国が興亡を繰り返した。4世紀末ころのクタイ(東カリマンタン)の碑文,5世紀半ばころのタルマ国(西ジャワ)碑文などの発見により,これらの場所に王国が存在したことが想定されている。その後7世紀半ばにパレンバン付近を王都として成立したスリウィジャヤ王国はマラッカ海峡を押さえ中国,インドとも交流し盛衰の波を繰り返しながら14世紀まで存在した。スリウィジャヤは仏教国で,仏教布教の一中心地を形成していた。また8世紀以降ジャワ島中部には仏教国シャイレンドラとヒンドゥー王国マタラムが興り,ボロブドゥール石仏寺院やプランバナン寺院群など多くの石造の宗教建築が建立された。その後王国の興亡の中心はジャワ島中部からジャワ島東部へ移行するとともに,王国の性格もヒンドゥー的性格とジャワ古来の諸要素が混交する傾向が強まっていった。東部ジャワでは10世紀初めにクディリ朝が興り,13世紀初めまで存続した。その後マラン平原にシンガサリ王国が興ってマドゥラ島やバリ島にまで勢力を伸ばした。この王国の末期に元軍のジャワ侵攻が行われたが,これを撃退しモジョケルトを王都として1293年に成立したマジャパイト王国は,その後2世紀半にわたって威勢を誇った。ことに14世紀半ば第4代王ハヤム・ウルクと宰相ガジャ・マダの時に全盛期を迎え,インドネシア各地に勢力圏を広げた。マジャパイト王国の時代は,一方でジャワ商人,マレー商人が中国・インド商人と混じって活発な貿易活動を行った時代であり,また,中東部ジャワの平地部で稲作を基礎とする農業社会が発展した時代でもあったから,この王国は先の海の世界と野の世界を包括する大帝国であった。また,この時代までに,ジャワ古来の稲作文化とヒンドゥー・仏教文化が混交してヒンドゥー・ジャワ文化と呼ばれる今日のインドネシア文化の基層が成立し,王宮(クラトン)を宇宙の中心とする王国理念が成立し,影絵劇(ワヤン)に代表される独自の伝統芸能が確立した。

インドネシアのイスラム化は13世紀ころから始まるとされるが,15世紀半ばころからはジャワ北岸の交易都市の有力者の中にしだいにイスラム教を信奉する者が現れ,マジャパイトと対立するようになった。こうしてしだいに盛時の威勢を失いつつあったマジャパイト王国は1520年ころにはまったく滅び去った。ジャワ北岸から始まったデマック,ジャパラ,ジャパン,パジャンなどのイスラム王国は徐々にジャワ内陸へ向かって浸透してソロ平原を押さえ,1582年にはセナパティマタラム・イスラム王国を建てて王都をソロ(スラカルタ)付近においた。これがジャワにおける本格的なイスラム時代の始まりである。

 イスラム王国の成立に踵を接するようにして,16世紀以降,モルッカ諸島の香料を求めてこの地域にやってきたポルトガル,スペイン,オランダ,イギリスの諸国はインドネシア海域で激しい勢力争いを演じた。この中で勝利を収めたのはオランダである。オランダは1596年にジャワ海に現れ,1602年には交戦能力を備えた貿易独占会社であるオランダ東インド会社を成立させ,19年にはバタビア(ジャカルタ)をインドネシア海域における貿易活動の根拠地と定め,その後相次いでモルッカ海の要衝の地を攻略して要塞を築いていく一方,この海域の制海権を握った。こうしてオランダは香料貿易を独占することとなったが,それは,航路と港湾を制する〈海域支配〉を実現していくことを意味した。

 1628年と29年にマタラム王スルタン・アグンはバタビアのオランダ軍を攻撃したが敗退し,逆にそれ以降オランダの支配権はジャワ内陸へ向かって拡大していった。1749年,オランダはマタラム王国の後継者争いに介入し,これをソロ(スラカルタ)とジョクジャカルタに分裂させた。この両国は19世紀初めまでにそれぞれがさらに2王家に分裂して,マタラムの領地は削減されその統一的な力は失われた。99年にオランダ東インド会社は経理乱脈の果てに倒産し,19世紀に入るとともに植民地経営は直接オランダ政府の手にゆだねられた。19世紀の前半はナポレオン戦争の影響で一時親フランス派のダーンデルスが総督に,次いでイギリス人ラッフルズが植民地の支配者となった。東南アジア地域の英蘭の勢力分野はその後1824年の英蘭協約により確定され,オランダはマレー半島を放棄する一方,スマトラ全域の支配権を掌握した。オランダは30年以降ファン・デン・ボス総督のもとで〈強制栽培制度〉を施行し,ジャワの土地と農民支配を本格的に開始した。圧制の典型として後世に伝えられるこの制度のもとで,農民は小説《マックス・ハーフェラール》(ムルタトゥーリ作。1860)中に描かれるような責め苦にあえいだが,オランダ本国はことにコーヒー栽培を通じて莫大な富を獲得した。またこの制度を通じてジャワでは熱帯商品農産物の生産が本格的に行われるようになり,70年には〈土地二法〉(〈農業法〉)が制定されて土地の全面的調達が保障されるとともに,オランダ産業資本が農園企業に向けて大量に投下されるようになった。

 19世紀のインドネシアは強制栽培制度に集約されるオランダの収奪体制がジャワにおいて完成する時期であるとともに,先の英蘭協約によって保障された支配圏に実効支配を樹立するためにジャワ以外の諸地域において一連の征服戦争が行われた時期であった。パドリ戦争バリ戦争アチェ戦争などがそれであり,オランダは20世紀初頭までに今日のインドネシアの全域を平定してオランダ領東インドという一大植民地を出現させた。このことは先の〈海域支配〉の完成の後に陸地の全域を支配下におく〈領域支配〉が実現したことを意味した。これは支配下の領土と領民(面積と人口)がある特定の数量で明示されることを条件とする支配であり,今日のインドネシアが領域国家として成立するための外縁が設定されたことを意味していた。このオランダ領東インドという領域の内部では,バタビアを中心とする軍事・行政・産業・交通・通信・教育などのネットワークが樹立され,人種差別に基づく植民地的二重性に貫かれた〈秩序と安寧〉が維持されることになった。

20世紀に入るとオランダは〈白人の責務〉(イギリスの作家キップリング)という観念のオランダ的表現である〈倫理政策〉とよばれる植民地政策を採用した。このなかで,農園と官庁における原住民下層書記官・官吏層の創出はとくに重視され,このためオランダ語の教育と法学・医学をはじめとする専門教育が必要とされた。とりわけ教育の対象とされたのはジャワの貴族階層(プリヤイ)の子弟であった。彼らは植民地官僚制の担い手であるとともに,著名なイスラム学者ヒュルフローニェの思想にみられるような,19世紀末までに達成した軍事制圧の基礎の上にオランダ語と西欧文化の流入を通じて本国と植民地民衆の強固な精神的一体化をめざすパクス・ネーエルランディカパクス・ブリタニカに拮抗する〈オランダの平和〉と〈オランダ的秩序と安寧〉)を実現するための,原住民側の相手方として役割づけられたのである。

 しかしそれとは逆にこの倫理政策を通じて住民の間にはオランダ領東インドという領土をインドネシアという一体的な領域としてとらえなおし,オランダ領東インドを支配している植民地的秩序を解体してこの同じ境域に新しい独立国家を樹立しようとする自覚がめばえ始めた。この独立国家はインドネシアとして想定され,この境域内の住民はインドネシア民族であると想定された。また独立国家を担う政体の正統性は従来の王国のように王や王統に基づくのではなく,〈人民の意思〉に基づくべきものであると想定された。さらにマジャパイトに象徴されるかつての王国の栄光やディポネゴロ戦争,アチェ戦争などの武力抵抗の歴史が想起された。これらはすべてインドネシアという未来の共同体を創出するための営為であり,それがインドネシア民族主義であった。しかしその歩みは苦難にみちていた。

 1908年には最初の民族的な組織としてブディ・ウトモがバタビア医学校の生徒を中心に結成された。11年以来ジャワ各地で組織され12年ソロでイスラム同盟として結束したイスラム商人を中心とする民族組織は,チョクロアミノトの指導下に10年代を通じて同盟員200万人に達したといわれ,イスラムをシンボルとする民族的団結と農園労働の待遇改善を要求して植民地政府に深刻な脅威を与えた。一方,オランダ人社会主義者スネーフリートのもとに,14年以来東インド社会民主主義同盟として組織されていた左派人士は,イスラム同盟内で支持者を拡大して20年にインドネシア共産党を結成し,以後20年代を通じてイスラム同盟をしのぐ最大の反政庁勢力となった。26年末から27年にかけてその共産党指導下で西スマトラ,西・東部ジャワの民衆は蜂起した。これは全国的規模をもち植民地全体の解放をめざす民族蜂起であった。政庁はかねてからセマウンタン・マラカムソらの共産党指導者を逮捕・追放していたが,蜂起とともにさらに弾圧を加え2000名に及ぶ共産党と人民同盟(共産党傘下の大衆組織)の指導者を,西イリアンの湿地帯タナ・メラに政治犯抑留キャンプを設置して追放した。こうして共産党が壊滅した後に民族運動の表舞台に登場するのは,オランダから帰国した留学生を中心とする知的エリート層である。彼らは27年にスカルノを党首とするインドネシア国民党を結成し〈ムルデカ(独立)〉の合言葉に象徴される民族主義を鼓吹した。民族主義精神の高揚は翌28年10月に〈青年の誓い〉が採択されて,インドネシアというただ一つの祖国・民族・言語が高らかに宣言されたことにもよく示されていた。しかし国民党も29年末には指導者が逮捕され,31年には解散を余儀なくされた。30年代に入ると植民地政府の民族主義に対する対応はいっそう強圧的になり,国民党の後身であるパルティンドと民族教育協会をはじめとする独立を主張する非協力政党の活動は,指導者の相次ぐ逮捕や集会制限・禁止などの措置によって次々と封じ込まれていった。民族主義は全体として協調主義に移行していき,39年にはタムリンらの指導下でこれらの諸組織の合同体としてガピ(インドネシア政治連合)が結成された。とはいえ,民族主義のエネルギーは分散され,強力な反植民地運動が組織されることはなかった。

 そのようななかで時代は突如として日本軍政に入っていった。42年蘭印(オランダ領東インド)軍を降伏させた日本軍は3年半にわたって軍政をしき,〈大東亜戦争〉完遂のために,短期間のうちに大量の各種資源,農産物などの戦争用物資と戦時労働力の調達を図る一方,兵補・義勇軍のような軍事組織,隣組・警防団のような民間組織を通じて軍事技術と闘争精神の注入を図った。また,軍政下で組織されたプートラ(民族総力結集運動。1943年3月より開始),ジャワ奉公会(プートラに代わって1944年3月に組織)のような大衆運動,イスラム教徒の組織化(マシュミ,ミヤイなど)は,官製のものであったが,民族独立の希求を広く社会の全般にわたって高めていくことになった。さらに戦況の変化と独立希求の高まりにより,45年3月には独立準備調査会が設置された。こうして日本が降伏した2日後の45年8月17日,スカルノが独立宣言を読み上げ,独立インドネシアの誕生が告げられたのである。

1945年以降のインドネシア政治史は,45-49年の独立戦争期,50-59年の憲政期,59-65年のナサコム体制期,66年以降の〈新体制〉期の4期に分けることができる。

 独立戦争期は,再植民地化をもくろむオランダに対してインドネシアが武力抗争を展開した時期である。この間,軍政期に成立の基礎をおくインドネシア国軍はスディルマン将軍のもと,45年11月のスラバヤの戦をはじめとして各地で不屈のゲリラ戦を展開した。国際世論もインドネシアを支持し,49年12月のハーグ協定によりインドネシアは名実ともに独立を獲得した。

 50年に政党政治に基礎をおく50年憲法が発布され,以後58年末まで各種政党内閣が国政を担当した。55年には最初の総選挙が実施され,国民党,マシュミ党ナフダトゥル・ウラマ党,共産党の4政党が主要な政党として国民の支持を集めた。またこの年,中国,インドをはじめとする史上初のアジア・アフリカ会議が29ヵ国出席のもとにバンドンで開かれ,自由独立・平等互恵の〈バンドン精神〉(バンドン会議)が新興諸国間で広く承認された。

 しかし50年代において政党政治は不安定であり,経済建設をはじめとする課題を解決しえないことが露呈されていった。その中でスカルノ大統領は軍と共産党の支持のもとに59年,〈1945年憲法〉への復帰を宣言して独裁権を強め,これ以後大統領内閣が組織された。スカルノは民族主義と宗教と共産主義を打って一丸とする挙国体制(ナサコム)のもとに,反マレーシア闘争(1963以後),国連脱退(1965年1月)など一連の反帝闘争を強化する一方,中国への接近を強めて北京-プノンペン-ジャカルタ枢軸といわれる外交路線を敷いた。60年代に入ると〈ナサコム〉という標語にもかかわらず,インドネシアの政治動向を決定する勢力はスカルノと国軍(ことに陸軍)と最大最強の大衆組織である共産党の三つである,という様相はますます強まった。とくにスカルノの健康がうんぬんされるにつれ,それ以降の権力掌握をめぐる軍と共産党の対立,イスラム系をはじめとする諸政党と共産党の対立は緊張の度を強めた。一方,たび重なる政治闘争は膨大な対外債務,全般的な生産の停滞,急激なインフレーションの進行をもたらして国内経済を疲弊の極に追いやっていた。

 政治勢力間の対決は65年9月ついに爆発した。九月三〇日事件を契機にこの事件の背後にあるとされた共産党勢力はスハルト少将を先頭とする陸軍により徹底的に鎮圧された。スハルトは67年にスカルノ退陣を迫る軍内強硬派,学生行動戦線(カミ)らに推されて大統領代行となり,翌68年3月には正式に第2代共和国大統領に就任した。スハルト政権は〈開発〉を国家目標とする〈新体制(オルデ・バル)〉を掲げ,外国援助・外資導入をてことする経済開発政策と西側諸国との関係を修復する外交政策を推進した。スハルトを中核とする軍勢力は71年以降,98年1月まですべての総選挙に圧勝してきた。
執筆者:しかし,97年夏以降のルピア下落,IMF緊急融資など経済危機のなかで,98年5月に公共料金値上げ反対のデモや暴動が頻発,治安部隊出動により犠牲者も出るに至り,5月21日ついにスハルトは大統領を辞任,副大統領ハビビB.J.Habibie(1936- )が後を継いだ。
執筆者:

インドネシア共和国は,強力な大統領と軍部と中央集権的な官僚制に支えられた権威主義官僚制国家ということができる。しかし,1990年代に入って,市場経済化,情報のグローバル化の進展の中で,民主化の流れが必然のものとなり,権威主義体制に揺らぎが生じはじめているのも事実である。

 インドネシア共和国の国章であるガルーダ(神鷲)の絵模様は国是を象徴している。鷲の翼,尾翼,胸,足の羽根の数は,独立した1945年8月17日の数字に合わせてそれぞれ19,45,8,17枚描かれている。胸の中の五つのシンボルは国是であるパンチャ・シラ(建国五原則)を表している。唯一絶対神への信仰(星),公平で文化的な人道主義(鎖),インドネシアの統一(榕樹),協議と代議制を通じ英知に導かれた民主主義(野牛),全人民に対しての社会正義(稲と綿)。鷲のつかむリボンには〈ビンネカ・トゥンガル・イカ(多様性の中の一体)〉という標語が書かれている。政治は,時の統治者による解釈に違いがあるにせよ,基本的には1945年に定められたパンチャシラと憲法(1945年憲法)によって営まれている。

 憲法上インドネシア共和国の最高の国権機関は国民協議会(MPR)である。MPRは憲法,国策大綱を制定し,大統領・副大統領を任命する。このMPRは国会議員500名と,選挙によらない大統領任命議員500名とからなる。原則として5年に1回行われる総選挙は国会議員,州議会議員および県議会議員を選出する。国会議員500名のうち,1997年の選挙では425名が選挙で選出され,残り75名が大統領に任命された国軍出身者であった。この大統領任命議員は以前は140名にも達したが,漸次削減されてきている。現在,立法府である国会に立候補できるのは,法で定められた3会派だけである。つまり,ずっと与党でありつづけているゴルカル(職能グループ,公務員主体の組織),イスラム系の開発統一党(PPP),民族主義派とキリスト教との統一党であるインドネシア民主党(PDI)の3会派である。任命議員の多いこと,政党の制限などから民主主義的でないとの批判も根強くある。現スハルト大統領は1968年に就任,72,78,83,88,93年と過去6回のMPRで大統領に選出され,98年には無投票で7選,任期30年をこえる長期政権になる。

 こうしたスハルト長期政権に対しては過去さまざまな批判があったが,政権を覆すような大きな動きとはなっていない。人々の声を国政に反映させることのできる政治的回路の未成熟と,それを成立させない権威主義体制による抑圧とが指摘されている。しかし96年,インドネシア民主党のメガワティ総裁(スカルノ前大統領の娘)の権力的解任と民主党本部襲撃事件は,民主派を勢いづかせ,各地で未曾有の暴動事件を生み出し,スハルト長期政権に暗雲を立ちこめさせている。

 国軍(陸・海・空・警察の4軍)は二重機能論に基づき,いまだに国民の政治・経済・社会生活に深く関与し,高級官僚(閣僚,地方政府など)にも就任している。しばらくはインドネシア政治にとっての国軍の役割を無視することはできないだろう。司法機関には普通裁判所,宗教裁判所,軍事裁判所,国家行政裁判所,そしてそれに対応する検察庁がある。裁判においても政治への従属を嘆く声が聞かれる。またマスメディアをはじめとした言論統制も厳しく行われ,政府に批判的な記事を書くと出版許可証が取り消されることもしばしばある。このようにインドネシア政治は民主主義とは相容れない状況が濃厚にあるが,環境運動,人権運動などに関わるNGOも成長しつつあり,また経済のグローバル化も進展しつつあり,21世紀には大きな変動期に入っていくものと思われる。

インドネシアはこれまで一貫して〈自主的で積極的な外交〉および〈非同盟外交〉をスローガンに外交を展開してきた。しかし,スカルノの時代と,現スハルトの時代では外交姿勢が非常に異なっている。スカルノは自ら非同盟外交を成功させ(1955年のバンドン会議,61年に成立した非同盟諸国会議への参加など),その勢いで反西側の容共外交を展開した。スハルトは自主的・積極的・非同盟外交を継承したとはいえ,反共外交に転じたのである。経済開発を優先し,西側の債権国会議(IGGI,現在はCGI)に依拠し,世銀・IMF体制化で巨額の援助を取り込み,外資を積極的に取り入れることによって開発の成果を生み出すことに専心した。また一方で,地域の大国を意識し東南アジア諸国連合(ASEAN)の強化をめざし,事務局をジャカルタに置く,ベトナムやビルマ(現,ミャンマー)の加盟に積極的に動くなど,地域的なヘゲモニー確保にも顕著な働きをしてきた。アメリカ,日本とはとりわけ緊密な政治経済関係を取り結び,アメリカからは武器を購入し,軍事教育訓練も受けている。非同盟外交も健在で,1992年には自ら議長としてジャカルタで非同盟諸国会議を開催している。また,94年にはアジア太平洋経済協力会議(APEC)をボゴールで実現させ,地域の大国としての存在をアピールした。しかしながら,東ティモールの武力併合と最近までも頻発する住民虐殺・抑圧の事実は,いまだに国際社会から反発を招いており,インドネシア外交の最大の弱点となっている。強権的な,また腐敗した政権に対しては国内外で反発の声が高く,インドネシア外交も21世紀にはやはり転換期を迎えることになるだろう。
執筆者:

人口2億人,面積日本の5倍のインドネシアは,石油,天然ガス,ニッケル,銅,木材などに恵まれた潜在的な経済大国といえる。スハルト政権は1960年代末から,外国資本に依存しつつ強力な開発政策によってインドネシア経済のパイの拡大,工業化に向けての産業構造変革を図ってきた。紆余曲折はあるものの,経済は順調に拡大し,工業化もかなり進展してきた。しかし97年,タイの通貨危機はインドネシアにも及び,膨大な対外債務,非効率的な大規模開発プロジェクト,スハルト・ファミリーの経済のあらゆる部門への参与などが問題化し,IMFによる監視下のもと経済再編を迫られている。

 独立後のインドネシア経済は,主要産業部門である石油など鉱業部門,およびプランテーション部門をオランダ,アメリカなど外資に抑えられた植民地経済構造の状況におかれていた。スカルノは〈反新植民地主義・反帝国主義(NEKOLIM)〉の標語のもと,国有化・外資接収の政策を実施した。しかしながら強引な社会主義的経済政策はことごとく失敗し,インドネシア経済は,スカルノ失脚の原因になった1965年の九月三〇日事件当時には破局的状態にあった。スハルト新体制は経済建直しのため,欧米帰りの経済テクノクラートを閣僚に迎え,IMF・世界銀行,アメリカ,日本を中心にした西側陣営の援助,資本を積極的に取り入れ経済再建に乗り出した。具体的には,67年に発足したインドネシア援助国会議(IGGI,1992年からインドネシア援助協議グループCGIと名称を代えた)からの公的援助,および同年より発効した外国投資法にのっとり,外資企業の投資を積極的に受け入れることによる経済の活性化,開発の推進である。1968年から第1次五ヵ年開発計画を実施し,当初は基礎物資の確保,食糧増産を目標にしたが,しだいに石油,ガスに依存しない製造工業の強化,産業の高度化をめざす計画へと姿を変え,25年後の1993年には工業国へのテイク・オフをめざしたが,それにはまだ時間を要すると思われる。

 たしかに経済のパイは大きく拡大し,1965年当時100ドル内外だった1人当たりGNPは95年には980ドルにまでなった。東南アジアではシンガポール,ブルネイ,マレーシア,タイ,フィリピンに次ぐ位置にある。産業構造も大きく変化し,国内総生産に占める製造工業の割合は1970年8.9%,80年13.6%,90年20.5%,96年24.6%と大きく拡大した。輸出品目を見るとよりドラスティックな変化が見てとれる。1976年,全輸出額85億ドルのうち原油・LNG・石油製品が70.2%を占め,これに木材,天然ゴム,コーヒーを加えると87.4%にもなっていた。工業製品輸出比は数%しかなかった。96年には全輸出額498億ドル,原油・LNG・石油製品の比率は23.5%にまで低下し,工業製品輸出比率が64.5%に達している。すでに工業国といえるような水準である。主要工業製品は繊維製品,木材加工品(主に合板),電子電機製品,皮革製品(靴など),鉄鋼・機械などである。

 このような経済活動の拡大と産業構造の変化は,巨額の外国援助(特に世界銀行と日本)による経済インフラストラクチャー(ダム,道路,港湾など)の建設と民間外国資本の投下によるところが大きい。国内的には政府による開発投資,民間企業による投資の拡大もあった。特に,大統領やそのファミリー,政府高官と結びついた華人財閥の成長と投資を見逃すことはできない。しかしながら,外資依存体質,華人偏重体質はインドネシア経済の姿を歪め,社会的な不満を招いている。対外公的債務は95年までに1071億ドル(長期公的債務654億ドル,長期民間債務201億ドルなど)に達し,輸出総額に占める債務返済額・利子支払額の比率は42.4%にも達し,かなり危険な水準になっている。

 70年代以降,外国資本に支えられつつ,強力な開発政策によって,インドネシア経済は大きく拡大し,工業化を達成してきた。近年は,航空機生産,国産自動車生産も手がけてきているが,解決されるべき問題も多々ある。所得の階層間格差,地域格差は以前よりも広がり,大量失業の問題も解決されていない。また米の自給を一時は達成したものの,米価の低価格維持により農民の米離れ傾向を招き,近年,再び輸入国に転じた。ジャワ島の過剰人口を解決するために行われている国策移住政策(トランスミグラシ)は,移住地の住民とのトラブルを起こし,また森林の乱開発にもつながっている。市場経済化の進展は商業作物の重視を促し,アブラヤシ農園などの大規模開発につながり,それが森林火災の原因にもなっている。多くのインドネシア住民にとって,真に望まれているのは住民本位の環境との調和を図った経済づくりであろう。
執筆者:

現代の教育制度は,6・3・3制の上に5年制の大学と種々の短大があり,小学校と中学校の計9年間は義務教育化されている。1960年代後半以降,〈開発の時代〉の進展に伴って,教育政策が重視され,また教育への関心が社会全般に高まってきた。これを小学校の学校数,教員数,生徒数で示すと,1960年にそれぞれ,3万7673校,23万0633人,895万5098人であったのが,92年にはそれぞれ14万8257校,127万6217人,2959万8790人と著増している。また初等教育の就学率も,1950年の39%,61年の59%から77年には81%,94年には94%と増加してきている。こうして1995年には識字率(15歳以上)も83.8%に上昇し,教育水準は徐々に向上してきている。とはいえ,大学への進学率はまだ10%(1992)である。

 1960年代後半からは,カセットラジオ,テープレコーダー,テレビを中心とする視聴覚消費財および,新聞・雑誌などの出版市場が一気に拡大し,ジャカルタを中心とする新しいファッション,歌謡曲,芸術活動,小説と詩などが全国の各地に浸透した。しかしこの結果,各地方の伝統的文化がただちに衰退するのではなく,逆に新しい表現の様式をえて,より全国的に受容されていくという傾向を示した。この意味で現在の文化は,地方とセンターの,また伝統と現代の諸要素が相互に作用し合う状況にある。
執筆者:

ここにインドネシア文学と呼ぶのは,独立インドネシアが憲法で国語と定めているインドネシア語による文学である。

 インドネシアには,ジャワ語をはじめとして200を超す地方語(種族語)があるといわれる。それらの言語による文学は,地方語文学またはヌサンタラ文学と呼んで,インドネシア文学とは区別している。最も古く最も豊かな文学遺産をもつ地方語文学といえば,10世紀にさかのぼる歴史を誇るジャワ語文学である。なおヌサンタラ文学という名称には,インドネシア文学とマレーシア文学をまとめて指す用法もある。

 インドネシア語の前身は,古くからこの島嶼世界において共通語としての役割を果たし,オランダ領時代には準公用語として用いられたマレー語であった。今日のインドネシア語は,この共通語としてのマレー語が,20世紀初頭に始まるオランダ領植民地下の民族的覚醒の中で,〈わが祖国インドネシア〉の言語,〈インドネシア語〉と呼ばれ,〈インドネシア民族〉の自己表現を担う言語として発展してきたものにほかならない。そのようなインドネシア語による文学としてのインドネシア文学の開始も,この若きインドネシア民族の民族的自覚の歴史の中に求められることになる。具体的にはG.フランシスの《現地妻ダシマ》(1896),F.D.J.パンゲマナンの《野盗チョナット物語》(1900)など,世間の語り草となった事件を当時の植民地社会の共通語であったごく通俗的なマレー語で描いた,19世紀末から20世紀初頭にかけての小説をいわばその誕生前夜の文学としながら,インドネシア文学は1920年代に成立したと考えられる。アブドゥル・ムイスAbdul Muisの《サラー・アスハン(西洋かぶれ)》(1928)はこの期の代表的作品である。この小説の中で,民族主義者でもあった作者は,主人公と欧亜混血女性コリーとの結婚をテーマにして,村を捨て去りながら結局オランダ人社会にも入れられず破滅する西洋かぶれの青年官吏の悲劇を描いている。この作品は,健全な良書を供給することを任務とした政府機関バライ・プスタカ(図書局)から出版されたが,同局はコリーの描き方に手直しを求めて出版したという。

 本格的な文学運動が始まったのは,新しいインドネシア統一文化の創造を目指す文学雑誌《プジャンガ・バル(新詩人)》(1933-42)の創刊によってであった。同誌を舞台に,主宰者の一人アリシャバナが西欧合理精神の旗手として,土着伝統派との間に闘わせた論争は,文化論争の名で有名である。彼の《ラヤル・トゥルクンバン(帆を上げて)》(1936),アルミン・パネの《桎梏(しつこく)》(1940),アミル・ハムザの詩集《孤独の歌》(1935)などが,この《プジャンガ・バル》の代表的作品である。バライ・プスタカは,主人公の医師とその妻と愛人の三角関係を描いた《桎梏》を,不道徳な読み物であるという理由で出版を拒否し,同作品は《プジャンガ・バル》に発表された。

 1942年からの日本軍政,続く45-49年の独立戦争という激動する時代の中から,〈45年世代〉と呼ばれる作家たちが生まれた。20年代作家,《プジャンガ・バル》作家が理想主義的,啓蒙主義的な作品を書いたのに対し,彼らは普遍的人間主義を基調に苛烈な現実の中に生きる民衆の姿を簡潔な文体で描いた。この時代の代表的作品には,インドネシア最大の作家と称されるプラムディア・アナンタ・トゥルの《ゲリラの家族》(1950),《ブロラ物語》(1952),主として短編を書いたイドルスの《地下の記録》(1948),インドネシア革命の渦中で苦悩する知識人を描いたモフタル・ルビスの《果てしなき道》(1952),そして国民的詩人ハイリル・アンワルの詩集《埃の中の轟き》(1949)などがある。1950年代後半から60年代前半にかけての〈ポスト45年世代〉とでもいうべき時代には,〈民衆のための芸術〉〈芸術のための芸術〉を巡って両派の対立が激しく,短編小説を多く生み出したにすぎない。

 スカルノ体制下の政治イデオロギー優先の時代が65年の九月三〇日事件により突如幕を閉じた後,現代文学では新旧両世代のさまざまな傾向の作家の活躍が見られる。前述のプラムディア・アナンタ・トゥル,モフタル・ルビス,アリシャバナら長老が長編小説の発表によって健在ぶりを示す一方,イワン・シマトパン,女流のディニ,バリ島出身のプトゥ・ウィジャヤ,最も新しい世代のユディスティラ,詩人で演劇界のリーダーのレンドラ,評論のグナワン・モハマッド,アイップ・ロシディ,スバギオ・サストロワルドヨらが活躍している。現代人の疎外をテーマにしたもの,不条理主義的手法を取り入れたものなどが新しい流れである。回想録,伝記,大衆小説も多く出版されている。
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インドネシアは多島国家であるが,歴史的に美術を考える上では,ジャワ島が中心となり,さらにスマトラ島とバリ島が従として取り上げられてきた。美術史上の時代区分は大きく2期に分けられ,いわゆる〈中部ジャワ期〉(8~10世紀)と〈東部ジャワ期〉(10~15世紀)とである。前者は仏教美術が主体で,きわめてインド的な性格が濃い。それに対し,後者はヒンドゥー教の美術が主で,インドネシア独自の土着的な性格が顕著となる。この両時代を一般に〈古代インドネシア美術〉と称し,それ以降の美術はあまり注目されない。それは16世紀以降,イスラムが浸透したため,造形活動が弱まり,古代インドネシアの伝統美術がまったく衰退したからである。

 インドネシアの美術は,一般にチャンディと称する遺構に伴って残存している。チャンディとは祖先の霊をまつる霊廟にあたるが,火山岩の切石を積み上げて建てた寺院建築である。この寺院に安置された石彫の神々(ヒンドゥー教)や仏像が,古代インドネシア美術のほとんどをなしている。その他,青銅製の品々も出土しているが,それらのほとんどは青銅像をはじめとし,祭儀用の器具・容器などである。先の石造の彫像は遺跡の内部に,あるいはジャカルタ国立博物館を中心に見ることができる。さらに青銅製の品々も,同じ博物館もしくはジョクジャカルタのソノブドヨ国立博物館に展示されている。

 先述のように,インドネシアの美術はおもにヒンドゥー教と仏教に奉仕したもので,そのためそれら両宗教の発祥地であるインドから,美術も多くの恩恵をえている。とくにこのインド的な性格の濃い時代は,8世紀より10世紀ころまで続いた。この時代の美術(中部ジャワ期)の中心はジャワ島中部にあり,この地域には8~9世紀にかけてシャイレンドラ王国が栄え,大乗仏教(密教)のチャンディ建築が多く建てられた。これらの遺構はジョクジャカルタ北方にあり,ボロブドゥール遺構群やプランバナン遺構群は,当時の仏教美術を知る上での重要な遺跡となっている。当時の美術のインド的な性格は,例えば,彫刻における一貫して穏やかな丸味のある肉付けをもった表現に見られる。また仏教の図像は,北東インドのパーラ朝との関係が従来推定されてきたが,最近ではむしろ,西インドのデカン高原の石窟寺院(エローラなど)にその類似性が認められてきている。一方,同時期のヒンドゥー教の彫像としては,チャンディ・バノン出土の三主神(シバ,ビシュヌ,ブラフマー)像の傑作(ジャカルタ国立博物館)が代表的で,これらのヒンドゥー教彫像はおもに南インド美術からの影響を感じさせる。当時のヒンドゥー遺跡としては,ディエン高地の遺跡があげられ,さらにマタラム王国の霊廟寺院,チャンディ・ロロジョングランは,インドネシアのヒンドゥー教建築として第一の聖殿である。

 シャイレンドラ王国を中心とする中部ジャワの美術時代は,政治の中心が10世紀以降,ジャワ島東部へ移るとともに幕を閉じる。そして15世紀まで,東部ジャワに栄えたクディリ朝,シンガサリ王国,マジャパイト王国のもとで,美術は再び花を開くことになる。この東部ジャワの時代の美術(東部ジャワ期)も,チャンディ建築に伴って見られ,宗教はヒンドゥー教と仏教が共存し,さらに両者の混合(時輪教)がなされた。遺跡はスラバヤの南西一帯,ブランタス川の流域に散在し,チャンディ・パナタラン(14世紀建立)は,この時代の代表的な遺構として注目される。石造彫刻は,以前の作品とはまったくその作風を一新し,もはやインド美術の模倣から脱して,ジャワ独自の土着的な性格の強い作風へと変わる。その作風は形式的になり,とくに浮彫は影絵人形を思わせるような平面的なつくりとなる(例えば,チャンディ・スラワナの基壇浮彫)。またこの基壇を飾る浮彫には,古代インドの叙事詩《マハーバーラタ》の翻案,《アルジュナ・ウィワハ》(1030)や《バラタユッダ》(1157)の物語文学が表されるようになる。したがって東部ジャワ美術は作風が土着的で,文学的色調がきわめて濃い点が特徴といえる。

 16世紀以降のジャワ島では,イスラムの浸透によって,これまでのインド伝来の宗教に奉仕した美術の時代は終わる。しかし,バリ島はそのイスラムの浸透から免れえたために,今日までヒンドゥー教が現存し,美術もヒンドゥー的色彩にみちている。また,スマトラ島の美術は,従来スリウィジャヤ王国の美術として,その王国に関係づけて論じられてきている。ムアラ・タクスの遺跡がその代表で,中部ジャワの美術と同様,インド的な性格の濃い仏像やヒンドゥー教の神像が発見されている。イスラム美術としては,建物の入口の門などに見られる石彫の装飾意匠が注目される。例えば,ジャワ島東部のバジャネガラにあるセンダンドゥウール寺の入口の石彫浮彫(16世紀)や,マドゥラ島にあるアイル・マタのラツ・イブの墳墓(17世紀)などがあげられる。東部ジャワ期美術の伝統を踏襲し,緻密に刻みこんだ装飾美術である。
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この国の地理的条件および幾種類もの外来文化の影響の複雑な混交が芸能の上にも反映され,インドネシアの音楽,舞踊は多様性に富んでいる。その中から一般的特徴をあげると,(1)音楽と舞踊が政治や宗教儀礼の重要な機能をもち,そこから発展した芸能が多い。(2)歴史,社会慣習,思想などの伝達手段の一つとして,宗教的,哲学的な語り物があり,それが舞踊や他の芸術と結びついて,仮面舞踊劇,舞踊劇,影絵芝居,人形劇などの総合芸術を生み出している。(3)2,4拍子が基本的リズムであるが,複数の声や楽器が複雑にからみ合って一種のポリリズム効果を生み出す。この独得のリズム感覚と,集団で音楽を作り上げる傾向が,アジアの他の地域にくらべて合奏音楽をより盛んにしている。その代表的な形態がガムランである。(4)ジャワとバリを中心とした地域の音楽は5音音階圏に入る。その種々の5音音階の中でペロッグ音階は日本の沖縄音階と,スレンドロ音階は律・民謡音階と,マドゥンダ音階は都節音階とよく似ており,なんらかのつながりを推察させる。しかし,スマトラなど西アジア音楽文化の影響の強い地域の音楽は,7音音階的旋法が優勢で,5音音階圏から外れているといえる。次に地域別にその特徴を見ることにする。

一般に13世紀以降の西アジア音楽文化の影響が顕著で,器楽より声楽の方が優位にあるといえる。マレー語の韻文による年代記ヒカヤットや散文詩パントゥンが,サルアン(笛)やルバーブ(弦楽器)の伴奏で舞踊を伴って歌い語られる。詩の朗唱はイスラム社会において,大きな精神的影響,ときには政治的な影響をももつ。楽器には,東南アジアに共通な竹製の打楽器やゴング類のほかは,ルバナ(片面枠型太鼓),スルナイ,ガンブス(ウード)などがあげられる。ルバナとスルナイを核とする合奏によって伴奏される男性の踊りは,闘技から発達したものといわれるが,恍惚状態にいたる激しいもので,民俗芸能の重要なジャンルをなし,スマトラ以外の地域にも多く見られる。内陸部に住むバタク族はカチャピやタタカナン(音高の異なる複数の太鼓からなる楽器)を用いる。

14世紀を頂点とするヒンドゥー・ジャワ文化の伝統を受け継ぐこの地域は,バリ以外ほとんどイスラム化されたにもかかわらず,音楽的にはその影響がほとんどない。ヒンドゥー教の儀礼においては音楽,舞踊の果たす役割は大きく,10世紀以降の文献には宗教的な芸能として,仮面舞踊劇トペン,舞踊劇ガンブ,影絵芝居ワヤン・クリ(ワヤン)などの記述が見られる。金属製の旋律打楽器を中心とする大編成の器楽合奏ガムランが,この地域では最も特徴的である。この種のガムランは音の大きなゴング類や太鼓類を中心とする楽器群(戦闘や宗教儀礼用)と,グンデル,ガンバンなどやわらかい音色の鍵盤楽器群(祖霊供養儀礼用)とを結びつけて,17,18世紀の頃,ジャワとバリの王宮でそれぞれ完成されたものである。声楽に関してはジャワ語の定型詩を一定の朗吟旋律にのせて歌うことが盛んである。この歌の節回しはきわめて洗練されたもので,さまざまな様式で歌われる。

 俗にスンダと呼ばれる西部ジャワでは声楽が盛んで,カチャピとスリン,またはカチャピとルバーブの伴奏による独唱トゥンバンが多く見られる。一方,中部ジャワでは,女性独唱と男性斉唱が加わりガムランが器楽と声楽の大合奏として特異な様式に発展した。ガムランは誕生日,結婚式,祝日,記念日などに演奏され,舞踊や他の芸能と結びついて総合芸術を生み出している。なかでもワヤン・クリは重要である。

 イスラム化を拒絶したバリはヒンドゥー・ジャワ文化の伝統を直接受け継ぎ,音楽と舞踊は宗教儀礼のなかで重要な一部を担い続けている。とくにその種類は豊かで,高い芸術性を示している。

内陸部のダヤク族の間では,サペ(撥弦楽器)と,その伴奏によるアニミスティックな色合いをもった男踊りと女踊りが知られている。さらに他の島々とも共通な竹の打楽器と,クレディ(笙の一種)が見られる。歌はあまり重要ではないといわれる。海岸部の部族間では,ゴングと太鼓と竹の打楽器による踊りが知られている。北部ではクリンタン合奏,南部ではジャワのガムランに似た合奏が行われる。

英雄伝説や年代記などの弾き語り歌や,宗教的内容の歌が重要である。伴奏楽器にはルンバン(長大な竹の竪笛)とケセケセ(二弦の擦弦楽器)が用いられる。南スラウェシのケセケセの伴奏による弾き語りシンリリ,中部スラウェシのトラジャ族のルンバンの伴奏によって歌われるママラカはよく知られている。ルンバンは歌の伴奏のほか,自然の物音や動物の鳴き声などを吹きまねる。パカレナは女性の群舞であるが,ゴングと太鼓と竹の打楽器とわら製のチャルメラの伴奏で踊られ,スラウェシの踊りのなかで最も伝統的で洗練されている。

モルッカ諸島はキリスト教会音楽の影響により古来のものはあまり残っていないが,南東部にはタン・ラインまたはカパタと呼ばれる歴史や慣習を伝承していくための歌がある。また多声部の合唱が知られている。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「インドネシア」の意味・わかりやすい解説

インドネシア
いんどねしあ
Indonesia

東南アジア南部、マレー諸島を中心とする共和国。世界最大の群島国で、ジャワ島、スマトラ島、カリマンタン(ボルネオ島)、スラウェシ島(セレベス島)などの大スンダ列島、バリ島から東方に連なる小スンダ列島、同列島東端、チモール島のほぼ西半分、モルッカ諸島など大小1万7000にも及ぶ島々とニューギニア島西半部(パプア州)からなる。領域は、南北は赤道を挟んで北緯6度から南緯11度まで延長1600キロメートル、東西は東経92度から141度まで延長4800キロメートルに及び、全領域の空間の広がりはほぼアメリカ合衆国のそれと等しい。アジア、オーストラリアの2大陸、インド洋と太平洋の2大洋を結ぶ有利な地理的位置を占めるため、政治的、戦略的意義も大きく、しかも熱帯的資源に富む地域である。インドネシアとは「島のインド」の意味であり、歴史的にその文化的母国でもあったインドとの関係を物語っている。広大な地域のため自然、民族、社会ともに複雑を極め、いわゆる「多様性」を強く示すが、同時におのずから共通な性質も存在して「統一性」も現れる。この「多様性のなかの統一性」ビネカ・トンガル・イカBinneka tunggal Ikaが建国の一つのモットーでもあり、有利な地理的条件を生かして世界政治のなかで重要な役割を演じようというのが国策となっている。面積190万4569平方キロメートル、人口2億3162万7000(2007推定)で、人口は世界第4位にあたる。首都はジャカルタ。

 国旗は横に二筋の赤と白で、これはもとヒンドゥー教の神ビシュヌの特性で勇気と純潔を象徴し、中世のマジャパヒト王国時代から用いられたといわれる。国章もヒンドゥー教の神鳥であるガルーダが翼を広げた姿を示し、その足元には「多様性のなかの統一」のモットーを記述してある。国歌は「インドネシア・ラヤ」(大インドネシア)でスプラトマンの作詩・作曲。1928年の民族青年の集会で初めて歌われた。平和と民族統一の願いが込められている。

[別技篤彦・賀陽美智子]

自然

地形

インドネシアは地形的にも世界でもっとも複雑な構造を示す地域の一つである。それぞれアジア、オーストラリア両大陸の延長部にあたる浅いスンダ棚(ほう)、サフール棚の両海棚(かいほう)の間に挟まれているが、北西からはヒマラヤ山系の延長であるテチス構造線が延び、スマトラ島、ジャワ島をはじめ小スンダ列島の島々を形成し、同時に激しい火山活動を伴う。また東部ではフィリピンからニューギニア島方面を貫く環太平洋構造線が通って、モルッカ諸島、スラウェシ島北部などに火山活動を引き起こす。インドネシアの火山数は130に及び、活火山は78もあり、そのなかにはスマトラのクリンチ火山、ジャワのメラピ火山、ブロモ火山、スメル火山、バリのアグン火山などの火山が知られる。またスンダ海峡のクラカタウ火山、スンバワ島のタンボラ火山のように、かつて世界的規模の爆発をおこしたものもある。1815年のタンボラ火山の噴火は1883年のクラカタウ火山のそれをしのぎ、有史以来最大規模の爆発の一つとされる。こうした状態のため地盤も大部分は不安定で、地震も頻発し、海底地形も複雑で、諸所に深い海溝を含む。しかし一方では、これら火山は肥沃(ひよく)な土壌を生むもととなって、人間の生活に有利な条件を与えてきたことも忘れてはならない。

 島嶼(とうしょ)的地形と火山の連なるインドネシアでは、一般に大陸部のような大河やそのデルタは存在しない。むしろこの地域でまず人間の居住地として選ばれたのは、低地より丘陵地、山間の高原や盆地であった。そこが歴史的にも開拓の中心となった例はスマトラ島、ジャワ島など各地に多い。熱帯的気候もそこでは若干和らげられるうえに、流水灌漑(かんがい)による水田開発にも有利だったからであろう。スマトラ島東岸やカリマンタン南岸には比較的大きな川が乱流しているが、若干の河港都市などの存在を除けば、まだ人口希薄で開発程度は低い。

[別技篤彦・賀陽美智子]

気候

インドネシアの気候は、赤道直下の雨林型(熱帯雨林気候)と、その南北に広がる熱帯モンスーン型(熱帯季節風気候)とに大別される。気温は全域が常時高温で年平均25~27℃、年間の較差もきわめて小さい。しかし高い火山が多いので垂直的に気温差が著しくなる。パプア州(イリアン・ジャヤ)の4000~5000メートル級の高山では氷河や万年雪がみられるが、ジャワ島でも2200メートルのブロモ火山付近では年平均16℃、700メートルのバンドン高原でも22℃となる。これらは、近代に海岸低地の大都市の住民のため高地に多くの休養地を発達させたり、あるいは垂直差を利用して各種の気温に適する農作物を栽培させるのに有利な条件となった。降水量は赤道直下の地域では常時降雨型で年平均4000ミリメートルにも及ぶが、モンスーン型の地域では雨期と乾期の差異が明瞭(めいりょう)である。この二つの季節はそれぞれ4月、11月を交代期としている。インド洋からの南西風をまともに受けるスマトラ島南西岸、ジャワ島西部では、雨期の降水量が多く、低地ではしばしば氾濫(はんらん)するが、東部の小スンダ列島ではしだいに降水量は少なくなる。また小スンダ列島方面は乾期の南東風が強いので乾燥度も高くなる。しかし一般的には島国なので、アジア大陸の熱帯部分に比べるとしのぎやすい特色があげられる。

[別技篤彦・賀陽美智子]

生物相

高温多湿のインドネシアの気候は、その植物分布にもよく反映している。全群島は緑の植物に覆われ、このため「赤道にかけられたエメラルドの首飾り」というような形容詞さえ生まれた。しかし先に記したような気温の垂直差に応じて、その植物相も海岸低地のマングローブ樹林、常緑雨林から、3000~4000メートルの山地の高冷地的植物に至るまで複雑である。ジャワ島の高山地域ではアルプスにみられるようなエーデルワイスの花さえみられる。一般に植物の種類も莫大(ばくだい)で、被子植物のみで2万5000種もあり、ヤシの木だけでも100余種に上る。直径1メートルにも及ぶ世界最大の花ラフレシアもインドネシア特有のものである。森林被覆の割合はパプア(イリアン・ジャヤ)、カリマンタンなどでは全面積の80%にも及ぶ。しかしその他の島では開拓の進展に伴ってしだいに原生林は少なくなり、第二次林に覆われる所が多くなった。

 インドネシアの動物分布は、地理的位置のうえから、アジア、オーストラリア両系のものにまたがる。西部諸島ではアジア系のものが多いが、マカッサル海峡からロンボク海峡を連ねるいわゆるワラス線(ウォーレス線)を境に、東部諸島ではオーストラリア系の特質が著しくなり、有袋類も現れてくる。さらにスラウェシ島東岸とチモール島東端(東チモール領)を結ぶ線はウェーバー線とよばれ、若干の動物、たとえばシカの分布の境界とされている。インドネシアには各種の特殊な生物が存在するが、類人猿(オランウータン)、バンテン(野牛)、ジャワサイ、野生の小ウマ、あるいはコモドオオトカゲ(コモド島などにみられる)などは著名。インドネシアの民話も、これら豊富な動物が登場するのが特色である。ジャワ島西端部やコモド島は野生動物の保護地区に指定されている。またニューギニア島方面のゴクラクチョウ、カリマンタンのサイチョウなどをはじめとする貴重な鳥類や、昆虫類も多い。

[別技篤彦・賀陽美智子]

地誌

ジャワ島

ジャワ島はあらゆる意味でインドネシアの中心である。面積は全国土の7%ほどにすぎないが、手ごろの大きさの島であるうえに東西の歴史的交通路にも近く、火山脈が島を縦走して土地は肥沃(ひよく)で生産物に富み、その豊饒(ほうじょう)さは、すでに2000年前プトレマイオスの世界地図にも、「ヤバディウ」の島として記されていたほどである。したがって今日も全国人口の60%近くがここに集中し、人口密度は1平方キロメートル当り974人(2001推計値より)である。主として農業に生きる島としては世界最大の稠密(ちゅうみつ)性を示すが、その農業的土地利用度はすでに限界に達している。ジャワ島では、第二次(続成)マレー人(新マレー人)に属する3民族が、島の各部を占拠して居住する。中部から東部にかけては、ジャワ島でもっとも古くから開けた所で、ジャワ人が住むが、彼らは現在のインドネシアの指導的民族で、ジャワ島人口の60%を占める。早くからインド文化を吸収して多くの王国が栄え、独自の文化、芸術を発展させてきた。これに対し西部のプリアンガン山地帯はスンダ人の居住地で、その人口はジャワ島の約20%を占め、歴史的にジャワ人と対立してきた。宗教的には今日ジャワ人より熱心なイスラム教徒である。さらに、属島のマドゥラ島からジャワ島東部にかけてはマドゥラ人が居住する。彼らは勤勉な労働者で、歴史的にはジャワ人と融和する程度が強かった。そしてこれら3民族はそれぞれの民族語を使用し、性格や習俗でもかなりの差異がある。このほかジャカルタ、スラバヤのような海岸都市は、ジャワ島各地、群島各地からの民族の集合からなっており、住民の性格にも特殊なものがある。

[別技篤彦・賀陽美智子]

スマトラ島

スマトラ島は世界第五の大島であるが、テチス構造線が通って高い山系や火山が連続する西海岸と、スンダ棚の一部をなして広大な低湿地の連なる東海岸とに大別される。この低湿地にはバタン・ハリ川、ムシ川、インドラギリ川などの大河が流れるが、マラッカ海峡に面するため、その河口には早くから外来文化が流入し、パレンバンなどの河港都市の発達もあった。スマトラ島の民族分布は、地域的にはむしろジャワ島より複雑である。北端部にはアチェー人が居住し、ここはインドネシアでもっとも早くイスラム化された所で、民族性も勇敢であり、20世紀初めまでオランダ支配に抵抗した地方として知られる。トバ湖を中心としてはプロト・マレー人(古マレー人)のバタック人の居住地であり、彼らは久しく孤立的な社会を形成してきたが、近代にキリスト教と教育が普及し、いまは商人や医師など近代的職業で活動する者が増えた。西海岸中部の高原を中心としてはミナンカバウ人が住む。彼らはスマトラ最大の民族集団で母系社会の遺制を残し、特有の家屋をつくるが、現在はジャワ人と並んでインドネシアの指導者を多く出している。さらに東海岸一帯には狭義のマレー人が分布し、かつてはいくつかの小王国を形成した。マラッカ海峡を隔てたマレー半島方面のマレー人と同一系統である。このほか北部山地にはガヨ人、アラス人、南部地方にはランポン人などが居住している。

 スマトラ島はかつては密林に覆われる所が多かったが、20世紀になってから欧米資本の進出により、北東部のメダンを中心にタバコ、ゴムの大農園が開かれ、また東海岸低地の油田開発によって状況は大きく変わってきた。この状況は若干の変動はあったものの第二次世界大戦後も変わらず、戦時中800万にすぎなかった人口は4000万を超え、「第二のジャワ」として大きな発展を遂げつつある。

[別技篤彦・賀陽美智子]

スラウェシ島

スラウェシ島(セレベス島)の特異な形状は、テチス、環太平洋の二大構造線の活動の結果生じたものであるが、地域的にはマカッサル(1971~1999年はウジュン・パンダン)を中心とした南西部半島と、メナドを中心とした北東部半島の2地域だけがよく開けた所となっている。南西部にはブギス人、マカッサル人などの諸集団が居住し、古くから船乗りや商人として東南アジア各地に活躍し、郷土では水田農業を発展させていた。北東部には種族的にこれとやや異なるミナハサ人が住み、これも農・漁業に従うが、近代以後はほとんどキリスト教徒となってヒンドゥー的、イスラム的なインドネシア他地域とは異なった地域文化の性格をみせている。これらに対し、スラウェシ島中央部の山地地帯はプロト・マレー系のトラジャ人の居住地で、特有の文化を残している。ここにはまだ十分な開拓は及んでいない。

[別技篤彦・賀陽美智子]

カリマンタン

カリマンタン(ボルネオ島)はスマトラ島をしのぐ世界第三の大島であるが、インドネシア領となっているのはその70%である。北部のマレーシア領との境には分水嶺(ぶんすいれい)をなす高い山脈が連なるが、海岸に向かっては低地が広がり、ことに南部は一大湿原を形成する。これら低地の間をカプアス川、バリト川、マハカム川などの大河が流下するが、こうした巨大な地形、赤道直下の雨林型気候、さらに火山性の肥沃な土壌を欠くことなどのため、開拓は十分に進まず、人口も希薄である。海岸近くには外来のマレー人、ジャワ人、中国人などが居住するが、カリマンタン本来の先住民はプロト・マレー系のダヤク人で、奥地で多数の部族に分かれて住み、狩猟や焼畑農耕に従事する者が多い。カリマンタンは大部分が密林に覆われて自然力が優越する地域であるが、1960年以降は東部の一部でみられるように、油田、森林資源の開発や南部海岸地域でのゴム栽培などで、部分的に開けた地域が増えつつある。

[別技篤彦・賀陽美智子]

小スンダ列島・モルッカ諸島

小スンダ列島、モルッカ諸島は、また特殊な地域を構成する。バリ島から東に進むにしたがって自然的には乾燥度が強くなり、サバナ的景観を示す所もある。バリ人はジャワ人に類似し、優れた水田農耕民であるが、現在インドネシアで純粋なヒンドゥー教信仰を残す唯一の民族であり、このため島は習俗や文化できわめて特殊なものに富むことで知られる。これから東方の諸島の住民は種族的にプロト・マレー系、メラネシア系の要素が強まり、焼畑耕作などが支配的となっている。さらにモルッカ諸島は古来各種香料の独占的生産地として著名であり、この点では他の小スンダの島々と異なって早くから外来文化と接触した。現在モルッカ諸島の中心はアンボン島にあるが、ここに住むアンボン人はオランダ統治下にキリスト教徒となったことで知られる。

[別技篤彦・賀陽美智子]

西イリアン

西イリアンは世界第二の大島ニューギニア島の西半部をさし、行政上はパプア州(旧イリアン・ジャヤ州)を成す。自然的には複雑で、ことにその脊梁(せきりょう)山脈には4000~5000メートル級の高山が並び、その南斜面は広大なディグル川流域の大湿原が展開、しかも全島の大部分が赤道雨林に覆われ、「緑の砂漠」とさえいわれる。ネグロイド系のパプア人が先住民であるが、点在する開拓地を除けばまだ人口はきわめて希薄である。しかし1960年以降は西端のチェンドラワシ半島を中心に油田の採掘も始まった。さらに1990年代に入ると、資源開発や水産業、海運業の振興にも力を入れている。

[別技篤彦・賀陽美智子]

歴史

インドネシアは太古からその優れた環境のため、人類の居住、発展地となってきた。いわゆるジャワ原人(ピテカントロプス・エレクトゥス)をはじめ、モジョケルト人、ソロ人など原始人類の遺物が、ジャワ島を中心に発見されているのはその証拠である。

[別技篤彦・賀陽美智子]

ヒンドゥー系諸王国の興隆

現在のインドネシア住民の大部分は種族的にはマレー民族系であるが、これにはプロト・マレー人、第二次(続成)マレー人の2大別がある。その差異のもっとも大きな要素は外来文化の受容度にあるといえよう。インドネシアでもとくにその西部のジャワ島、スマトラ島には西暦紀元前後からインド商人の東進に伴い、ヒンドゥー教、仏教を中心とするインド文化が流入してきた。水稲栽培の技術をはじめ、サンスクリット系の文字、文学も伝えられ、従来の原始文化のうえに新しい民族文化が開花することになったのである。やがて政治的にも多くのヒンドゥー系、仏教系の国々が興った。5世紀にはタルマ王国(西ジャワ)、6世紀にはカリンガ国(中部ジャワ)が現れ、また同じころスマトラ島のパレンバンでは仏教系のシュリービジャヤ王国が栄えた。その勢力は8世紀には中部ジャワに及んでシャイレーンドラ王国の興隆をきたし、壮大なボロブドゥールの仏跡もそのもとで建設された。またボロブドゥールと並ぶ壮麗なヒンドゥー教遺跡のプランバナン寺院群も9世紀につくられ、中部ジャワはまさに当時の東南アジアの文化の一大中心となった。しかしその後、文化の中心は中部ジャワから東部ジャワへと移り、11世紀以来エルランガ、シンゴサリ、ケディリなどヒンドゥー教系諸王国の発展をみた。またモルッカ諸島の特産物であるニクズク、チョウジなどの香料も古くから外国人商人を引き付けてきたが、ジャワ島はその貿易の中継地としても栄えていた。13世紀の末、元(げん)のフビライはこの南海の富裕な島をねらってジャワ島に大遠征軍を派遣したが、戦いに敗れて逃げ帰った。ジャワ島ではこの勝利によって強大なヒンドゥー教のマジャパヒト王国の興隆をみるに至る。この王国は名宰相ガジャ・マダの指導下に、ほぼ現在の東南アジア島嶼(とうしょ)部の全域を支配し、インドネシア史の黄金時代を出現させた。

[別技篤彦・賀陽美智子]

オランダの植民地時代

しかし当時は西からイスラム勢力も東進しつつあり、彼らはスマトラ島北端のアチェー(現ナングロ・アチェー・ダルサラム)、マラッカ海峡を制するマラッカ、カリマンタン北岸のブルネイなどに基地を獲得しつつ15世紀中ごろにはモルッカ諸島に到達し、一方、ジャワ島の沿岸都市にも勢力を拡大してきた。マジャパヒト王国はこの攻勢によって滅び(1527)、ジャワ島には新たにデマク(のちマタラム)およびバンテンの二つのイスラム王国が興った。このころポルトガル、イギリス、オランダの西欧諸国が相次いでインドネシア地域に進出し、香料貿易の独占と植民地獲得を目ざして互いに激しい競争を展開した。しかし結局この地域ではオランダの全面的勝利に終わった。

 オランダは西ジャワのジャカトラ港に新たにバタビア城を建設し、東インド会社の中心的基地とした(1602)。会社は初めは香料など特産品の独占を目的としたが、しだいに領土的支配に乗り出し、以後3世紀半に及ぶ植民地支配体制を確立した。19世紀の初めにはヨーロッパ情勢の変動によって一時イギリスに占領されたが(1811~1816)、ウィーン会議でふたたびオランダ領として返還された。オランダの植民地となったインドネシアは「オランダ領東インド」とよばれた(名実ともに全域を支配したのは1915年以後とされる)。

 ふたたび自国の植民地としたオランダは、強制栽培法を施行して先住民からの搾取を強行した。これは、中心地であるジャワ島で、先住民の水田にサトウキビ、コーヒー、あるいはアイ(藍)などの特産物を強制的に栽培させ、ほとんど無償同様にこれを取り上げて輸出したものである。ヨーロッパの小国オランダはこうしてインドネシアを「熱帯の宝庫」と化し、その巨大な利潤により国内の近代化を完遂して富裕な国となりえたが、先住民は貧困と飢餓に打ちのめされた。その傷跡はいまなお十分にはいやされていない。また19世紀後半からはスマトラ島、ジャワ島を中心に大農園や油田開発が行われ、これまたオランダに莫大な富をもたらした。しかもこの間、先住民社会は依然として貧困のままに放置され、教育もほとんど与えられなかった。もちろんこうした植民地政策の強化に対してはしばしば抵抗運動が起こり、1825~1830年のジャワ戦争、19世紀末~20世紀初めまでのスマトラ島のアチェー戦争など大規模なものがあったが、いずれもオランダにより武力で鎮圧された。オランダ領東インドは、1942年の日本軍のインドネシア進攻まで続いた。

[別技篤彦・賀陽美智子]

独立運動の高揚

こうしたなかで、インドネシア人の民族主義的運動も20世紀に入るとしだいに活発となった。その原動力となったのはジャワ貴族の娘カルティニであった。彼女の思想に刺激されて組織的な政治運動も始まり、オランダ側の弾圧に屈せず、植民地体制からの離脱に向かって努力が続けられた。第二次世界大戦による日本のインドネシア占領、オランダ政権の崩壊は、民族独立の希望に絶好の機会を与えた。さまざまの経過はあったが、日本降伏後の1945年8月17日、国民党の指導者スカルノはインドネシア共和国の独立を宣言した。続いて植民地再支配を目ざすオランダ軍との長い激しい戦いを経て、1949年末、オランダから正式に主権の返還をかちとった。オランダはなお西イリアン(現在のパプア州)については執着を示したが、これも1969年の国民投票でインドネシア領となり、さらに1976年にはポルトガル領として残っていたチモール島北東部(現在の東チモール)をも自国領としたが、国連はこれを認めず、その後にいわゆる「東チモール問題」が残されることになった。東チモールは2002年独立。インドネシアは西欧勢力の侵略以来国土を回復するまでに370年余を費やしたことになる。

[別技篤彦・賀陽美智子]

スカルノ、スハルト体制

独立達成後のインドネシアの政治は、初代大統領スカルノの指導下に、パンチャ・シラ(建国五原則)に基づいて強いナショナリズムを背景として進められた。しかし広大な領土と多数で複雑な民族をもつこの国の統一は容易なものではなかった。アジア・アフリカ会議の開催、マレーシアとの対決政策、西イリアンの奪回など、国民の目を外に向けさせる対外的活動では華々しいものがあったが、それと対照的に国内経済の建設は十分でなく、インフレによる民衆の生活苦も増大した。またスカルノが利用した国内の共産党勢力はしだいに大きくなり、これが1965年の「九月三〇日事件」の勃発(ぼっぱつ)となって彼の失脚を招くことになった。彼にかわって大統領となったスハルトは、国内経済の安定と発展を第一の目標とし、外資導入に努め、また共産党勢力を徹底的に排除した。そして強力な軍隊を背景として32年間にわたり政権を維持した。しかし、1997年7月に起きたタイの通貨バーツ急落の影響を受けてインドネシア・ルピアが大幅下落、国内経済が急激に悪化したことをきっかけに、スハルトの長期政権に対する市民・学生などの反発が激化、1998年5月、ついにスハルトは大統領を辞任、長期政権に幕を下ろした。

[別技篤彦・賀陽美智子]

ポスト・スハルト

スハルトのあとを引き継いだのは、スハルト政権のもとで20年間閣僚を務め、スハルト退任当時に副大統領であったバハルディン・J・ハビビである。ハビビはスハルト一族や側近を排除した新内閣を結成、経済面での立て直しをはじめ、報道や集会の自由を認めるなど次々に改革に着手したが、1999年10月の大統領選挙には不出馬を表明、短命政権に終わった。大統領選挙は、国民協議会第一党の闘争民主党党首で初代大統領スカルノの長女メガワティ・スカルノプトリと、イスラム団体「ナフダトゥル・ウラマ」の議長、アブドゥルラフマン・ワヒドAbdurrahman Wahid(1940―2009)の対決となった。ハビビが不出馬を表明したため、イスラム勢力に加えてスハルト政権与党のゴルカル(GOLKAR、職能代表団体の略)がワヒドを支持したことにより、ワヒド政権が発足した。メガワティは副大統領となった。しかし2001年に入り、ワヒドの不正資金疑惑などが起こり、ワヒドと議会の関係が悪化。7月特別国民協議会において弾劾審議にかかることになったがワヒドは出席を拒否、一時は非常事態宣言を発令するなど抵抗をみせたが、本会議により罷免された。憲法により副大統領メガワティが第5代大統領に就任、副大統領は開発統一党(開発党)党首ハムザ・ハスHamzah Haz(1940― )となった。メガワティは大統領直接選挙制などの内容を入れた憲法改正を実行したほか、各種改革に取り組み民主化が進められたが、物価上昇や未解決の汚職問題等で国民の信頼を失っていった。2004年の大統領選ではワヒド、メガワティ両政権下で閣僚を務めたスシロ・バンバン・ユドヨノが当選、第6代大統領に就任した。

 1999年8月には、東チモールの独立をめぐる住民投票が実施され、78.5%の支持で独立が決定した。投票後、反対派の暴動が起き混乱があったが、10月には国連東チモール暫定統治機構(UNTAET)が設置され、インドネシア国民協議会は、10月20日の本会議で東チモール併合を無効とすることを決めた。その後、2002年5月に東チモールは正式に独立した。アチェー特別地域でも独立の動きがあり、住民投票の実施を求める大規模な集会が同年11月に開かれた。アチェーは1945年インドネシア独立後、インドネシアからの分離、独立を主張。1976年独立を目ざすゲリラ組織、自由アチェー運動(GAM)が独立を宣言。ゲリラ戦を中心とする武装闘争が続いていた。2000年6月GAMとワヒド政権は期限つきで停戦に合意。2001年1月まで延長されたが、その後崩壊状態となった。同年7月インドネシアはアチェーに広範な自治権を認める法律を可決、2002年1月州名をナングロ・アチェー・ダルサラムと改称。同年12月、政府とGAMはジュネーブで和平協定に調印した。しかし、これもまた崩壊状態となった。2003年5月、東京において再度和平協議が行われたが交渉は決裂し、インドネシア政府はGAM掃討作戦を実施、多数の死傷者が出た。2004年12月に起きたスマトラ島沖地震・津波により当地域が甚大な被害を受け、世界から注目されたことがきっかけとなり、2005年1月よりヘルシンキで和平協議が再開、同年8月和平文書調印が行われた。なお、インドネシアではその後も大規模地震が発生しており、なかでも2006年5月のジャワ島中部地震では多くの被害者が出ている。

 一方で、近年テロ事件が頻発しており、とくに2002年10月バリ島クタ地区において発生した、東南アジアを中心に活動するテロ組織「ジェマー・イスラミア」(JI)の犯行とされる爆弾テロ事件では、180人以上の死者が出た。政府はテロ対策の施策を強化しているがその後も2003年、2004年とジャカルタで大規模な爆弾テロが発生している。

[別技篤彦・賀陽美智子]

政治・防衛・外交

政治体制

インドネシアは大統領を国家元首とする単一国家である。2002年の憲法改正によって、大統領直接選挙制が導入された。2004年7月に新制度による大統領選挙が行われ、ユドヨノが勝利、同年10月に大統領に就任した。任期は5年で3選は禁止となっている。国会は議席数550で、議員の任期は5年。2002年の憲法改正前は任命により国軍や警察に議席が割り振られていたが、任命議席は廃止され、全員が国民の投票により選ばれる民選議員となった。2004年4月に総選挙が行われている。また、2002年の憲法改正で地方代表議会が新設された。議席数は128で、議員は国会の総選挙にあわせて各州から直接選挙で4人ずつ選出される。立法権はないが、国会に法案を提出することはできる。一方、国の基本政策を定め、憲法改正前は大統領を選出する責任をもつなど大きな権限があった国民協議会はその権限を失い、大統領選挙の結果や国会の決定を承認するなど、国会議員と地方代表議会議員の合同会議として存続することになった。

 地方行政も、2001年に新しい地方自治制度が導入され、州知事、県知事、市長などの行政の長もすべて国民(有権者)の直接投票による選挙で選ばれることになった。2005年6月に初めての直接投票による地方選挙が実施された。

[別技篤彦・賀陽美智子]

防衛

スカルノ時代以来、政権を維持するために軍隊(国軍)を使って監視、抑圧が行われ、軍人(国軍将兵)の政治やビジネスへの関与が頻繁に行われてきた。2004年9月、国会はその弊害を除くために軍人の政治、ビジネスへの関与を禁止し、地方行政レベルまで監視要員を配置する領域管理システムを廃止する国軍法案を可決した。現在、陸軍は兵力約28万5000(2006)、海軍は兵力約6万5000(2006、海兵隊を含む)、空軍は兵力約4万(2006)で、イギリス、オーストラリア、アメリカなどから供与された航空機を主としている。このほか、予備役として40万の兵力がある。

[別技篤彦・賀陽美智子]

外交

外交面ではスカルノ時代と異なってスハルトはむしろ柔軟な対外政策をとり、各国の経済的援助を取り付けようとした。中国とは「九月三〇日事件」以来関係が凍結していたが1990年8月国交回復。ロシアとも外交関係は結んでいる。共産主義についてはきわめて警戒的である。一方、近隣諸国とはASEAN(アセアン)(東南アジア諸国連合)を形成しており、しだいにその中心的存在としての地位を確立しつつある。

 外交の基本方針は、ASEANと連帯し、非同盟・積極自主外交である。西側諸国との協力関係も重視している。主要援助国は、日本が54.4%と突出しており、次いでオーストラリア、オランダ、ドイツ、アメリカとなっている(2005)。

[別技篤彦・賀陽美智子]

経済・産業

住民の大多数はなお農村居住であり、自給的農業が経済生活の基盤をなしている。これには二つの基本的なパターンの差がある。一つは、ジャワ島、バリ島、スマトラ島の一部、その他第二次(続成)マレー人の居住地を中心とする水田(サワー)耕作で、他はおもに前記以外の地域のプロト・マレー人の居住地を中心とする焼畑(ラダン)耕作である。米は国民の常食としてもっとも重要な地位を占めるが、その収穫面積からいえば水田と焼畑の割合はほぼ7対1にあたる。人口の激増に伴い、その増産には大きな努力が払われ、1960年代から1970年代にかけて政府は農業生産向上のために病虫害の撲滅方法などを指導する制度であるビマス計画、インマス計画を実施し、これによって1970年代末には米の年産額は2000万トンを超えた(その60%まではジャワ島の生産による)。第二次世界大戦前の平均600万トンに比べると著しい増産である。1997年には5110万トン、2006年には5445万トンとなったが、なお十分でなく、かなりの量を輸入に頼っている(45万6000トン。2006推計)。しかしインドネシアでは米の代用食としてトウモロコシ、キャッサバ、いも類などが、以前から畑地あるいは水田の裏作としてつくられ、地域的に重要な自給食糧となってきた。そのほか各種の果実、豆類もつくられ、これらの食糧が、巨大な人口を飢餓にさらすことなくいちおう維持させる要因となっている。

 オランダ植民地時代には特有の熱帯的自然条件、あるいは大量低廉な労働力を利用するプランテーションが各地で発達し、ジャワ島のサトウキビ、茶、コーヒー、スマトラ島のゴム、タバコ、東部諸島のココヤシなどはインドネシアの経済的繁栄の象徴でもあった。しかしすでに製糖業は、第二次世界大戦前において世界経済の影響を受けて大きな打撃を被っていたし、その他のプランテーション産物も戦後は激しい民族主義の攻勢のもとに不振の状態に陥った。従来の外国人所有の大農園は接収され国有化されたが、軍人が多く管理者とされたこともあって、科学的発展や経営法で以前ほどの能率をあげえず、また大農園の占めていた土地は自給食糧の生産地と変えられたりした。現在、プランテーションの面積は全耕地の3%強にすぎない。さらにゴム栽培にしてもむしろ農民の小規模栽培によるものが多くなった。それでもインドネシア経済のなかでは、農園生産物は外貨獲得上重要な一つの源となっている。天然ゴム(世界の24%、第2位)、ココア豆(世界の14%、第3位)、コーヒー(世界の8%、第4位)、茶(世界の5%、第6位。以上いずれも2006年の統計)、ほかにやし油などが主要な輸出用農産物であり、政府も農業多角化の一つとしてこれら農産物の増産に努めている。森林資源もまた豊富で、木材製品は重要輸出品である。

 地質状態の複雑なインドネシアでは地下資源の分布も多様で、とくに近代では石油、錫(すず)、ボーキサイトなどの大規模な採掘が始まって、世界有数の鉱業生産国となった。しかしその生産はやはり植民地体制と結合し、現地経済の自主的独立性あるいは工業化に寄与するものではなかった。この意味では石油が現在のインドネシアでもっとも重要な資源の一つである。石油資源はスマトラ島がもっとも豊富で、ナングロ・アチェー・ダルサラム、ジャンビ、パレンバン各州を中心に良質の油田があり、ついでカリマンタン東部のバリクパパン、タラカン地区の油田がある。ジャワ島では東部地方の油田が知られている。これら各油田は第二次世界大戦前からオランダ、アメリカ系の石油会社の手で盛んに開発が進められていたが、1960年以後は国家企業に移され、プルタミナ社を中心に経営されている。インドネシアの石油増産は、アジアでは中国に次いで多く、採掘区域は海底にも及び、1998年には年産7481万キロリットルを記録したが、以後減産し、2007年(推定)では4863万キロリットルとなっている。原油、天然ガスなどの輸出は全輸出額の19%になっている。また石油会社の納める税金は国家活動の大きな支えとなっている。このほか地域的にはスラウェシ島東岸、西イリアンなどにも豊富な石油の埋蔵があるという。

 錫はバンカ島、ビリトゥン島、シンケプ島などのいわゆる「錫群島」を中心に18世紀初頭から採掘されてきたが、産額が減少する傾向にある。しかし低品位の砂錫(すなすず)の利用が開発され、主要鉱業の位置を保っている。このほか、ボーキサイトはビンタン島で採掘され、鉄鉱も西ジャワ、カリマンタン南東部、スマトラ島南部などで新しい埋蔵が発見されている。

 水産業は古くからジャワ島、スマトラ島の沿岸を中心に行われてきた。ここでは鮮魚は高温のため腐りやすいので、塩干魚につくるのが一般的であり、これとも結び付いてマドゥラ島、ジャワ島東岸では製塩業も盛んである。近海にはマグロをはじめ好漁場が多い。アンボン、メナドなどはその中心基地となっている。これに加えてインドネシアでは養魚池を利用する海岸・内陸漁業も盛んで、食生活での貴重な動物性タンパク質の供給源となっている。漁獲高の総量は558万トン(2005)に達している。

 工業化は、現在のインドネシア政府が国の近代化のためもっとも力を注いでいる政策の一つである。オランダ植民地時代は、ジャワ島を中心に小規模の軽工業が成立していたにすぎなかった。独立後は各種工業の育成に着手したが、それらはなお繊維、食品、たばこなどの消費物資の生産が主で、経営規模もさほど大きくはなかった。しかし工業の基礎としての大規模な水力発電は、西ジャワのジャティルフール川、東ジャワのブランタス川、スマトラのアサハン川などで実現している。そしてスハルト政権成立後は、いわゆるペリタ計画(五か年計画)が1969年から始まって、外国資本の積極的導入により、工業生産はかなり活発となった。これによって建設された工場はいずれもインドネシア側との合弁の形をとっているが、造船、紡織、金属、製材、肥料、薬品、紙類、ガラス、電気機械、セメント、自動車、タイヤなどの各部門にわたっている。工場の3分の1近くはジャカルタ周辺に集まっている。しかしなお工業部門での生産高は全国総生産の10%に達せず、その就業人口も全人口の10%ほどにすぎない。こうしたなかで、スマトラのアサハン川総合開発による工業の発展は注目される。これは、アサハン・アルミ・プロジェクト(アサハン計画)といい、インドネシアと日本との共同プロジェクトである。アサハン川上流に最大出力51万3000キロワットの発電所を建設、この電力で年産22万5000トンのアルミニウム精錬工場を建設するものである。1975年に両国が「マスターアグリーメント」に調印して計画が確定、1982年生産開始となった。2003年末までの22年間に400万トンのアルミ地金が生産され、そのうち250万トンが日本に輸入されている。

 1997年7月のタイ・バーツの急落に連動したインドネシア・ルピアの大幅下落によって、完全変動相場制へ移行。同年10月および1998年4月に経済改革問題で国際通貨基金(IMF)と合意、経済構造の改革に取り組んだ。

 貿易は経済の復興と発展に伴い、著しく伸びてきた。輸出高は総額1140億ドル(2007)に上り、その主要品は原油を筆頭に液化天然ガス、木材、石油製品、生ゴム、コーヒー豆、錫などである。輸入高は総額744億ドルで、機械類、原油、鉄鋼、自動車、石油製品、米、薬品などがおもなものである。2006年の貿易の相手国では、輸出で日本(22%)、EU(12%)、アメリカ(11%)など、輸入でシンガポール(16%)、中国(11%)、EU(10%)などが中心である。こうした最近の経済的発展は国内総生産(GDP)にもよく反映しており、1人当りのGDPは2002年の930ドルから2007年には1947ドルに上昇した。これは石油など資源価格の高騰も寄与している。

[別技篤彦・賀陽美智子]

交通

インドネシアは植民地時代から東南アジアではもっとも交通の発達した地域であったが、交通網はやはりジャワ島に集中している。ジャワ島では至る所道路網が整っており、スマトラ島にも及ぶ。北のナングロ・アチェー・ダルサラムと南のランポンを結ぶ縦貫国道もある。国内の自動車(4輪以上)保有台数は2300万台(2002)、乗用車、トラック、バスのほか、おびただしい数の小車両がある。鉄道は延長約7900キロメートル、ジャワではよく発達しているが、現在はその改修などが急務とされている。海上交通では多数の良港があり、島嶼(とうしょ)間の交通は国営のペルニ社が経営する。さらに広大な領域の結合には航空も重要な役割を果たしており、国営のガルーダ・インドネシア航空をはじめ国内線のムルパティ・ヌサンタラ航空などの各社がこれに従事している。ジャカルタのスカルノ・ハッタ国際空港には世界各地から航空機が乗り入れており、スマトラのメダン国際空港やバリのデンパサル国際空港などとあわせて空からの重要な門戸となっている。このほか各種通信機関についても近代化が進められている。

[別技篤彦・賀陽美智子]

社会

インドネシア社会は多民族からなり、各方面で多様性を示すが、その就業人口の割合をみると、15歳以上の就業人口9517万7000人(2006)のうち、農林業や狩猟、漁業に従事しているものが4232万3000人と、全体の44.5%を占め、なお圧倒的に農民層が多く、そこにインドネシア社会に共通な特質をみることができる。外来の諸宗教の浸透にもかかわらず、信仰や思惟(しい)形式の基盤としてのアニミズムの強さ、村落社会を中心とする共同体的相互扶助制(たとえばゴトン・ロヨンなど)の存在、そこでの住民の日常生活を規制する特有の慣習(アダト)の存在などはその例である。またとくにジャワ社会においては、伝統的に王族・貴族の血統を引く者(ンダラ)、インテリ・識字層(ウォン・ティリ)、それ以外の一般庶民層(アバンガン)の3階層の区別があり、それぞれに世襲の伝統的職業に従ってきた。都市もその数は少なかったものの、農村社会に対しては別個のものとして存在し、その構成員も貴族、識字層に加えて商人層および外国人層が強い要素をなした。現在ではこうした封建的な階層の差異はとくに都市やその周辺では減少しつつあるものの、先に記したように新たに経済的所得の差異に基づく階層差が著しくなってきた。植民地時代のオランダ人支配層にかわって、いまやインドネシア人の官僚と軍人、さらに中国系外国人などが上層部を形成し、これに対して大都市の裏通りにあるスラムは、絶えず周辺から流入する不法占拠者などによって拡大し、社会不安の温床となりがちである。

 宗教は憲法上は自由が認められ、国教は存在しない。そして国民の87%はイスラム教とされているが、その実践には古くからのアニミズム、ヒンドゥー教などの強い影響を受けている。そしてイスラムの信仰度にも地域により差異が大きいし、熱心な信者(サントリ)と形式的な信者(アバンガン)との違いも著しい。一般的には海港都市にサントリが多く、農村部はほとんどアバンガンで占められ、後者はいわば冠婚葬祭にあたってイスラムを利用するにとどまるものが多い。熱心なイスラム信者の多い地域としては、スマトラ島北部のナングロ・アチェー・ダルサラム、西部ジャワのスンダ地方などがあげられる。キリスト教徒は全国で約1800万人といわれるが、これも地域差が著しく、その分布の多い所は、中部から東部ジャワ、スラウェシ島北部、スマトラ島のバタック地方、アンボン島などである。いずれにしても民族としてのインドネシア人には、多種の外来宗教を受容する寛容性があるように思われる。

[別技篤彦・賀陽美智子]

文化

インドネシア文化はその歴史が示すように重層文化であり、基盤をなすマレー民族文化のうえに、インド、中国、イスラム、ヨーロッパなど各種の外来要素が累積した。これらのうちあるものは表面的に文化の上部を覆うにすぎないが、とくにインド的なものは深く先住民文化と融合し、その文化的発達に大きな影響を与えた。特有のワヤン劇(影絵芝居)、ガムラン音楽、舞踊をはじめ、古典文学もみなその影響下に発展してきたものである。これらの多くは精霊崇拝、祖霊崇拝などの神秘主義と結び付いて、インド文化流入以前からインドネシア地域に存在したものであるが、インド文化はその内容や表現の方法をいっそう豊かにし、完全なものとした。ことに『ラーマーヤナ』『マハーバーラタ』などの物語は現在も広くインドネシア文化の各層にわたって浸透している。バティック(ジャワ更紗(さらさ))織の文様や金銀細工、クリス(短刀)、木彫りなどの工芸品の発達もまた同様である。さらに感受性の豊かな民族として歌謡曲なども多くの優れたものを生んだ。そのメロディはハワイ音楽のそれに類似して、マライ・ポリネシア民族としての潜在的な等質性を物語っている。一般に神秘主義はインドネシアの文化を通しての大きな特色の一つであり、それはいまなお多くの伝説、民間信仰、呪術(じゅじゅつ)の存在などに伝えられる。日常生活でも呪術師(ドゥクン)の占いなどに依存する程度はなお強い。しかし一方では、ヨーロッパ的なものとの結合で新しい文化が生み出されつつある。

 言語は種族によって異なり、日常生活ではそれぞれのことばが用いられているが、相互の交渉などのためにはマレー語が使われることが多かった。独立後これを改良したものがインドネシア語として正式の国語に定められ、その使用の強化によって国民的統一を図っている。学校の教科書も、地域を問わずすべてインドネシア語で書かれたものが使われる。

 教育は植民地時代には十分でなく、ことにオランダが故意に愚民政策をとったこともあって、識字者の数は第二次世界大戦前には国民のわずか6%にすぎなかったが、現在は教育の体系が整えられ、政府は非識字者の一掃に努めており、識字率は男性94%、女性87%(2004)である。学校制度は六・三・三・四制で、小学校6年間と中学校3年間は義務教育。その上に高等学校、専門学校、高等専門学校、大学がある。大学は国民教育省所管のものが2003年現在で国立78校、私立1846校ある。国立大学のなかではインドネシア大学、ガジャマダ大学(ジョクジャカルタ)、エルランガ大学(スラバヤおよびマラン)、パジャジャラン大学(バンドン)、工科大学(バンドン)などが有名である。なお職業能力開発のための公共の訓練センターも226校ある(2007)。

[別技篤彦・賀陽美智子]

日本との関係

インドネシアは文化的にも地理的距離の近い日本とは、かなり共通したアジア的な基盤をもっている。また民族学的立場からも、日本の伝統文化の原型のいくつかはここにみられて、親近感が深い。そのうえ、歴史的にも江戸初期にはすでにジャカルタ(いわゆるジャガタラ)に多くの日本人が居住し、また長崎来航のオランダ船はすべてジャガタラを基地として往復したので、現地の事情は比較的よく伝わっていた。第二次世界大戦ではインドネシア全域が日本の占領するところとなり、その占領政策には多くの問題を残したが、民族が待望した独立の実現への契機を与えたことは確かである。第二次世界大戦後はいち早く通商協定が成立(1950)、また賠償によって新しい国づくりへ多くの寄与がなされた。正式の国交樹立は1958年(昭和33)である。当時の大統領スカルノとは日本の占領時代から深い関係があったが、とくにスハルト政権成立後、国内経済再建のため外国からの援助が多く求められると、日本は率先して、政府、民間ベースを通じて資本や技術を供与した。すでに1982年の段階で民間投資総額のみで69億ドル余りに及んでおり、各種工場の建設、治水工事などに生かされている。その後も、日本のインドネシアに対する経済協力は突出している。2003年の政府開発援助(ODA)実績では、インドネシアに対する二国間ODA支出純額の約74%を日本が占めている。2006年のODA実績は約1384億円、累積では有償資金協力4兆1659億円(1966~2006)、無償資金協力2525億円(1968~2006)、2006年度までの技術協力実績2830億円である。貿易も年々増大しており、資源に乏しい日本としてはインドネシアの豊かな原料に期待することが大きいとともに、その稠密(ちゅうみつ)な人口は市場としても大きな可能性を示している。2007年の日本への輸出は総額236億3000万ドルで主要品目としては石油、天然ガス、機械機器、合板、金属原料、魚介類などである。日本からの輸入は総額65億3000万ドルで、内訳としては機械類、電気機器、金属製品、化学製品、鉄鋼、輸送用機器などである。貿易尻(じり)は大幅なインドネシア側の出超となっており、日本は最大の貿易相手国である。

 こうした経済建設、貿易の発展に伴い、在留日本人も増え、現在1万1000人を超える(2007)が、その多くがジャカルタに集まっている。しかしまだ日本人全体としては、インドネシアの民族性、慣習、文化、歴史などについての知識に乏しく、これが現地人の対日感情にしばしばマイナスの条件となって作用していることは否定できない。これからはこの方面でのいっそうの交流が必要となろう。またインドネシアは観光地としても優れた多くの場所をもっているので、この点でもしだいに日本人に認識され、中部ジャワ、バリ島、スマトラ北東部などを訪れる人々が多くなっている。

[別技篤彦・賀陽美智子]

『永積昭・間苧谷栄著『東南アジアの価値体系2』(1970・現代アジア出版会)』『渡辺光編『世界地理3 東南アジア』(1971・朝倉書店)』『別技篤彦著『モンスーンアジアの風土と人間』(1972・泰流社)』『外務省情報文化局編『海外生活の手引 東南アジア篇Ⅰ』(1980・世界の動き社)』『安中章夫・三平則夫編『現代インドネシアの政治と経済』(1995・アジア経済研究所)』『D・R・ハリス編『インドネシア労働レポート――経済成長と労働者』(1996・日本評論社)』『ジェトロ・ジャカルタ・センター編著『インドネシア――NIES化への挑戦』(1996・日本貿易振興会)』『白石隆著『インドネシア』(1996・NTT出版)』『白石隆著『スカルノとスハルト』(1997・岩波書店)』『小池誠著『インドネシア――島々に織りこまれた歴史と文化』(1998・三修社)』『村井吉敬・佐伯奈津子著『インドネシア――スハルト以後』(1998・岩波ブックレット)』『ノーマン・ルイス、野崎嘉信著『東方の帝国――悲しみのインドネシア』(1999・法政大学出版局)』『高橋宗生編著『変動するインドネシア(2001―2005)』(2006・アジア経済研究所)』『水本達也著『インドネシア 多民族国家という宿命』(2006・中央公論社)』『小林寧子著『インドネシア 展開するイスラーム』(2008・名古屋大学出版会)』


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百科事典マイペディア 「インドネシア」の意味・わかりやすい解説

インドネシア

◎正式名称−インドネシア共和国Republik Indonesia/Republic of Indonesia。◎面積−191万931km2。◎人口−2億3764万人(2010)。◎首都−ジャカルタJakarta(961万人,2010)。◎住民−ジャワ人40%,スンダ人13%,アチェ人,バタク人など数百の民族。ほかに華人系300万〜400万人など。◎宗教−イスラム87.1%,キリスト教8.8%,ヒンドゥー教(バリ島)2.0%など。◎言語−インドネシア語(公用語)以外に,ジャワ語,スンダ語など多数の民族の言語。◎通貨−ルピアRupiah。◎元首−大統領,ジョコJoko Widodo(2014年10月就任,任期5年)。2004年より,国民による直接選挙を実施。◎憲法−1959年7月,1945年憲法が復活。◎国会−国民協議会(少なくとも5年に1回開催,実質的な立法権をもつ国会を包含する。560は任期5年の国会議員,132は地方代表議会議員)(2015)。◎GDP−8794億ドル(2012)。◎1人当りGDP−3563ドル(2012)。◎農林・漁業就業者比率−46.3%(2003)。◎平均寿命−男68.8歳,女72.9歳(2013)。◎乳児死亡率−27‰(2010)。◎識字率−92.2%(2008)。    *    *東南アジアの共和国。〔自然・住民〕 ジャワスマトラスラウェシ(セレベス),ボルネオ(カリマンタン)などの大島をはじめ,小スンダ列島,モルッカ諸島などの島々およびニューギニア西半(イリアン・ジャヤ)からなる。多数の火山が噴出,また地震も頻発(ひんぱつ)する。気候は赤道直下の熱帯雨林気候と熱帯モンスーン的気候に区別され,高温多湿で植物の生育が盛ん。住民の構成はきわめて複雑で,島や地域により民族,言語の差が著しい。無数の地方語があるが,共通語としては戦後インドネシア語が普及。人口の90%がイスラム教徒であるが,西アジアのイスラム教徒とは生活態度などで差異がみられる。〔歴史〕 ジャワはピテカントロプスの化石骨発見地であり,ソロ川流域では,より現生人類に近い人骨化石が発見されている。現在のインドネシア人の主体は,中国大陸から南下し,全島に広がったものである。紀元前後からインド人が多数移住,16世紀初めまでスリウィジャヤマジャパイト朝などのヒンドゥー系王国,ボロブドゥールの仏教遺跡を残したシャイレンドラ王国などの興亡をみた。イスラムは13世紀末以来浸透し,ヒンドゥー王国に代わって各地にスルタン王国を形成した。16世紀にはいってポルトガル人が来航,1602年オランダ東インド会社が設立され,ジャワを中心に勢力を拡大し,やがて全諸島がオランダの植民地となった。20世紀初頭から民族独立運動が活発となり,第2次大戦中の日本軍占領とオランダ政権崩壊をへて,1945年8月独立を宣言した。さらに再支配をめざすオランダとの戦争の後,1949年連邦共和国として正式に独立が承認された。1956年オランダとの連合協定を廃棄,1960年外交関係を断絶し,イリアン・ジャヤ問題を起こした。第2次大戦後スカルノの強力な指導のもとに,アジア・アフリカの非同盟諸国の一中心として国際政治での発言権を強めたが,国内の経済開発は十分でなく,国内政治は不安定な状態が続いた。スカルノ失脚後,スハルト長期政権下では〈新秩序〉をスローガンに経済開発が最重点政策にされ,〈開発独裁〉型の政治が続いてきた。近年は,政権の安定とともに経済改革が進んで,安定した経済成長を続けており,東南アジアの中心国となりつつある。2004年12月のスマトラ沖地震に伴う津波で,甚大な被害を受け(死者約12万8000人,行方不明者約3万7000人),2006年5月にもジャワ島中部地震に見舞われた。〔産業〕 農業は植民地時代は米,キャッサバ,トウモロコシを主とする自給農業と,輸出用作物のプランテーション農業の二本立てであったが,戦後はオランダ人追放などでプランテーション農業は衰退。一方,人口の増加,農業技術の後進性などのため食糧不足が著しい。鉱産資源はスマトラ,ボルネオの石油が戦前から開発され,林産資源にも富む。開拓の進んだ島と未開拓の島とは極端な対照をなし,ジャワが全国人口の約60%を占め,開拓され尽くしているのに対し,他の島々は人口希薄で,政府は国内移民政策(トランスミグラシ)を実施して開発を図っている。地域による文化の程度の差が著しいが,一般に共同体的農村(デサ)が中心となり,相互扶助などの伝統的生活が支配的である。〔政治・経済〕 1945年憲法によると国家権力の最高機関は人民代表会議(国民協議会)で,大統領の選出,国の基本方針の決定を行う。大統領は内閣を組織し,行政,立法の大きな権限をもつ。国会は一院制で実質的な立法権をもつ。1963年スカルノが終身大統領となったが,1965年の九月三〇日事件の後,1967年に解任され,1968年スハルトが正式に大統領に就任した。スハルトは,1998年7選。人民代表会議では職能グループ・ゴルカル(GOLKAR)の優位が続いたが,1990年代後半から野党・インドネシア民主党(1973年発足)支持の勢力が増大した。しかし経済危機のなかで1998年5月反政府デモが高揚し,大統領は辞任,32年に及ぶスハルト体制は終わり,ハビビ政権をへて,1999年秋にイスラム団体ナフダトゥル・ウラマ(NU)の指導者ワヒド(グス・ドゥル)が大統領となった。2001年7月,同大統領の解任後は,1999年総選挙で第一党となった闘争民主党の党首メガワティ(スカルノ初代大統領の娘)が大統領に就任した。なお1976年,インドネシアは東ティモール(旧ポルトガル領)を強制併合したが,1999年の住民投票で独立賛成派が多数を占め,2002年,東ティモールは独立した。また,アチェ地方,アンボン,イリアン・ジャヤなどでスハルト体制崩壊以後,分離主義の運動が高揚している。2002年8月に採択された憲法改正により,2004年7月から9月,直接選挙制による初めての大統領選挙が実施され(正副大統領をペアで選出),ユドヨノ(前政治・治安担当調整大臣)が当選(得票率60.6%。副大統領ユスフ)。2009年5月の総選挙でユドヨノ大統領の率いる民主党が148議席を獲得して第一党(得票率20.85%)となり,同年7月の大統領選挙でユドヨノがメガワティを破って再選を果たした。2期目のユドヨノ政権は,民主主義の確立,国民福祉の向上,正義の実践をかかげ,競争力のある経済発展と天然資源の活用及び人的資源の向上を政権の最優先課題としている。2009年は世界金融危機の影響を受けたが,経済成長は4.6%と堅調で,2011年は6.5%,2012年は6.2%と比較的高い発展を達成。2010年には一人当たり名目GDPも3000ドルを突破した。2011年にはユドヨノ政権は〈経済開発加速・拡大マスタープラン〉を発表,インドネシアを構成する各島にインフラ網で連結した経済回廊を構築するプランを提示,2025年までに名目GDPを2010年比で6倍に増加させ,世界の10経済大国入りを目指すとしている。貿易は輸出入とも中国・日本が1位2位を争っているが,あきらかに発展期に入ったインドネシアの経済動向は,東南アジアのみならず世界的に注目されている。しかし2期10年のユドヨノ政権末期には憲法裁判所長官が収賄容疑で逮捕され民主党前党首なども汚職容疑で逮捕されるなど汚職事件が相次ぎ,与党民主党の支持率は一桁台に落ち込んだ。2014年4月の総選挙では野党闘争民主党が第一党となり,ゴルカル党が第二党,グリンドラ党,民主党が続いた。闘争民主党が第一党になるのは2004年総選挙で敗れて以来である。7月の大統領選でも闘争民主党のジョコが勝利し大統領に就任した。
→関連項目オランダ領東インド経済連携協定シャフリルジョコ東南アジアワヒド

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旺文社世界史事典 三訂版 「インドネシア」の解説

インドネシア
Indonesia

東南アジアの赤道をはさんで南北に広がる約1万3000以上の島々からなる共和国。首都ジャカルタ
【前近代の略史】1世紀ころジャワにインド文化の影響が伝わる。中国史書では,2世紀に葉調国(ジャワ?)が朝貢との記述があり,3世紀には葉調国を中心とする交易国家が形成された。その後ジャワ島では4世紀以降,スマトラ島では7世紀以降,仏教やヒンドゥー教の影響を受けた諸王朝が興亡。ジャワでは,5世紀に西部でタールマーと呼ばれる小王国が,8〜9世紀にはボロブドゥールの仏教遺跡で知られるシャイレーンドラ朝が,10〜13世紀前半にはワヤンと呼ばれる影絵芝居を生んだクディリ朝が興亡した。スマトラでは,7〜14世紀にシュリーヴィジャヤ王国が存在し,海上貿易で繁栄して10世紀に全盛期を現出した。13世紀末,モンゴル軍のジャワ遠征でシンガサーリ王国が滅亡したが,その直後,元軍を撃退した勢力によってマジャパヒト王国が成立した。この王国は,衰退したシュリーヴィジャヤ王国に代わって,14世紀半ばにこの地域最後のヒンドゥー教国として繁栄した。15世紀後半から,この地域でイスラームの布教が広まり,ジャワ東部では16世紀後半にイスラーム王朝のマタラム王国(1582〜1755)が,西部でもバンテン王国(1527 (ごろ) 〜1813)が生まれた。
【オランダ植民地時代】16世紀前半,香辛料を求めてポルトガルがモルッカ(マルク)諸島に進出したが,ポルトガル本国の王統断絶後,16世紀末オランダ商船が来航,1602年に東インド会社を設立,19年バタヴィア(現ジャカルタ)に拠点を築き,1755年にマタラム王国を滅ぼし,77年ジャワ東端を直轄領にすると,ジャワ全土に支配権を確立した。オランダの植民地支配が拡大する中,1821年からスマトラ西部で厳格派イスラームのパドリ派による抵抗戦争(パドリ戦争,〜1845)が開始された。1825年からはジャワでも民族的反乱(ジャワ戦争,〜1830)が起こり,反乱鎮圧後,オランダ政府は財政難を打開するため強制栽培制度を導入した。その後,1873年からスマトラ北西部のイスラーム国家アチェー王国(16世紀初〜20世紀初)の抵抗戦争(アチェー戦争,〜1912)が始まり,その後,1904年にオランダ領東インドが形成された。また19世紀末から,オランダ支配に抵抗し,原始共産社会への回帰を求めるサミン運動が起こった。20世紀にはいると本格的な民族運動が始まった。1908年知識人を中心にブディ−ウトモが,11年ジャワの商人を中心にサレカット−イスラーム(イスラーム同盟)が結成された。第一次世界大戦後,民族運動はサレカット−イスラームと1920年結成のインドネシア共産党によって推進され,26〜27年の蜂起と弾圧で再編され,27年にはスカルノの指導でインドネシア国民党が結成された。第二次世界大戦中は,日本の占領下に置かれた。
【独立とその後の動向】第二次世界大戦中の1942年から,日本軍と相互に利用しつつ独立運動を推進してきたスカルノは,日本降伏後,45年8月に独立を宣言した。しかし,再支配を画策するオランダが独立を認めず,4年間にわたる独立戦争となり,1949年のハーグ協定でインドネシア連邦共和国として独立を達成した。翌年,国名をインドネシア共和国と改称し,スカルノ大統領の指導のもと,1955年にはバンドンでアジア−アフリカ会議が開かれ,非同盟主義が推進された。またスカルノは,1960年ころから挙国一致のナサコム体制を進めた。1965年,領土問題で対立していたマレーシアが国連安全保障理事会の非常任理事国に当選すると国連を脱退し,反米・親中国路線をとった。こうしたスカルノ体制に対して,1965年9月軍部右派がクーデタ(九・三○事件)を起こし,以後,共産党の解散・大弾圧,親共勢力の一掃を断行した。1966年スカルノはスハルト陸相に全権を委譲して失脚した。この軍事政権のもと,1966年9月国連に復帰するいっぽう,翌67年から中国と国交断絶状態になった。1968年大統領に就任したスハルトは,親米路線を採用し,西側諸国からの経済援助によって開発独裁を進めた。この体制下で経済は成長したが,スハルト一族の利権が拡大するいっぽう,国民の貧富の差が拡大した。1998年3月に開かれた国民協議会でスハルト大統領は7選されたが,5月の経済危機に端を発して反スハルト暴動が発生。スハルトは辞任し,副大統領ハビビが後継大統領に就任した。その後,1974年にインドネシアが併合した東ティモールの分離独立運動が高揚し,99年1月閣議で東ティモールの独立が承認され,住民は8月の投票で圧倒的賛成で独立を選択した。また2000年にはいると,アチェー特別州の分離独立問題が浮上してきた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「インドネシア」の意味・わかりやすい解説

インドネシア
Indonesia

正式名称 インドネシア共和国 Republik Indonesia。
面積 191万6907km2
人口 2億6980万4000(2021推計)。
首都 ジャカルタ

アジア大陸とオーストラリア大陸との間にある島々からなる国(→東南アジア)。おもな島はジャワ島スマトラ島ボルネオ島(カリマンタン島),スラウェシ島(セレベス島)で,ほかにニューギニア島(イリアン島。東部はパプアニューギニア),小スンダ列島マルク諸島(モルッカ諸島)など,1万3000以上の島がある。南部はアルプスヒマラヤ造山帯,東部は環太平洋造山帯に属し,火山が多い。熱帯雨林気候と熱帯サバナ気候に分かれ,モンスーン(→季節風)により雨季乾季がある。オランダの植民地であったが,1945年独立を宣言し,4年間の独立戦争を経て 1949年に独立を達成した。国家スローガン「多様性のなかの統一」が示すように,住民は文化社会生活,言語,宗教などを異にする多様な民族集団から構成される。おもなものは,ジャワ島のジャワ人,スンダ人,スマトラ島のアチェ人,ミナンカバウ人,バリ島バリ人,スラウェシ島のブギス人などで,マレー系,中国系も多い。住民の 80%近くがイスラム教徒(→イスラム教)であるが,イスラム教は国教ではなく,キリスト教カトリック,プロテスタント,ヒンドゥー教,仏教を加えた五つが国家公認宗教とされる。公用語は,古くからの共通語であったマレー語を基礎とするインドネシア語。人口の半分以上が農村部に居住し,農林漁業を営む。主食は米であるが,芋類,トウモロコシを常食する地域もある。独立以後,ゴムやコーヒー,砂糖,コショウ,チャ(茶)などの 1次産品から,工業原料・燃料輸出へと産業構造の転換がはかられてきた。さらに産業のジャワ島集中から外島中心へと転換が推進されている。貿易収支は,石油輸出が拡大し始めた 1970年代から黒字に転じた。行政的には,ジャカルタ首都特別州ジョクジャカルタ特別州を含む 34州に分かれる(2014現在)。東南アジア諸国連合 ASEAN原加盟国。(→インドネシア史

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「インドネシア」の解説

インドネシア
Indonesia

赤道を挟んでスマトラ島,ジャワ島,カリマンタンバリ島スラウェシ島,イリアン・ジャヤなど大小1万3000余の島々よりなるインドネシア共和国の地域。古来より東西海洋交通の要衝となるとともに,熱帯産の香辛料や農産物の供給地となる。シュリーヴィジャヤマジャパヒト王国サムドラ・パサイアチェ王国バンテン王国マカッサル王国テルナテ王国ティドーレ王国マタラム王国などは,そうした産物の交易で栄えた国々である。やがてバタヴィア(ジャカルタ)を根拠地として勢力を拡大したオランダの植民地支配を受け,20世紀初めには今日のインドネシアの領域の原型となるオランダ領東インドが形成された。インドネシア(「東インドの島々」の意)は,1850年にイギリス人ローガンが使用し始めた語であるが,やがて学問的用語として普及。20世紀には東インド出身の民族主義者に採用され,国名へと発展する。1945年8月17日に独立を宣言し,49年12月のハーグ協定にてオランダより主権が委譲される。当初インドネシア連邦共和国であったが,50年にインドネシア共和国となる。300前後の言語の異なる民族集団を抱え,「多様性のなかの統一」をモットーに掲げて国民統合を進展させている。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「インドネシア」の解説

インドネシア

東南アジアで,太平洋とインド洋が接する地域にある群島国家。ジャワ,スマトラ,スラウェシ,カリマンタンなど約1万3700の島々からなる。イスラム文化を主とする小国群が成立していたが,17世紀からしだいにオランダが進出。バタビアを拠点に東インド会社が貿易と植民地化を進めた。第2次大戦中は日本の軍政下におかれ,日本敗戦の1945年8月独立を宣言し,オランダ軍と戦って49年完全独立。58年日本とも平和条約・賠償協定を締結した。今日ではASEANの盟主的存在。正式国名はインドネシア共和国。首都ジャカルタ。

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世界大百科事典(旧版)内のインドネシアの言及

【オランダ】より

…19世紀中葉まで改革派教会が公認の宗教として国教会に近い地位を占めたが,カトリックの信徒が迫害されたことはなく,19世紀後半に誕生したプロテスタント系とカトリック系の両政党は常に友好関係を保ってきた。かつてユダヤ人のほかフランスのユグノーなど多くの亡命者の避難港であったオランダが,戦後多くのインドネシア人,スリナム人や移住労働者を受け入れたのも,寛容とヒューマニズムに由来する民族的偏見のなさゆえである。1979年,ベトナムのボート難民の報がひとたび伝わると,政府は3000人の受入れをいち早く決定し,救済資金の寄付金が30億円に達したことも特筆してよいだろう。…

【オランダ領東インド】より

…オランダがその植民地としていた現在のインドネシア共和国全域(旧ポルトガル領チモールを除く)に与えていた名称(オランダ語ではNederlandsch‐Indiëと書き,多くの場合〈東〉という語は入れない)。すでに18世紀ごろから,オランダ東インド会社の公式文書にこの名称が用いられているが,名実ともにインドネシア全体を含むに至ったのは1915年以後とされる。…

※「インドネシア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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