百科事典マイペディアの解説
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1935.11.14 -
ヨルダン国籍。
ヨルダン国王。
別名フセイン1世,Amir Abdullah Hussein I.。
英国に留学後、1953年国王に即位。’58年2月アラブ連邦を結成するが、同年8月イラク革命で連邦解消し、アラブ世界で孤立。’67年アラブ連合と共同防衛条約に調印、中東戦争に突入する。’70年軍事政権を樹立し、パレスチナ・ゲリラとの対立で内戦状態となる。その後’78年PLOと和解、’80年のイラン・イラク戦争の際にはイラクを支持。’82年アル・ファタハの在ヨルダン事務所の閉鎖を発表し、PLOとの協調関係が破綻。同年9月パレスチナ問題解決のためPLOとの連合国家構想を提唱した。
出典 日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」(1995年刊)20世紀西洋人名事典について 情報
…この後,アリー支持のクーファの民がウマイヤ朝に反対した。アリーの子フサインはクーファの民の誘いに応じてクーファに向かうところをウマイヤ朝の軍に包囲されてカルバラーで戦死し,受難の英雄となった。685年ムフタールが,アリーの子ムハンマド・ブン・アルハナフィーヤをイマームおよびマフディーとして奉じ,ウマイヤ朝に対する反乱(ムフタールの乱)を起こした(カイサーンKaysān派と呼ばれる)。…
…
[政治]
現在のヨルダン・ハーシム王国は第1次世界大戦によって誕生の契機を与えられた国の一つである(それ以前の歴史については〈シリア〉の項目を参照されたい)。1916年6月イスラムの聖都メッカのシャリーフであったハーシム家のフサインはオスマン帝国に対抗して〈アラブ反乱〉を起こし,アカバを占領,トランス・ヨルダン,シリアへ向かう足がかりを確保した。18年10月フサインの息子ファイサル1世に率いられたアラブ軍はイギリス軍とともにダマスクスに入城し,シリア(大シリア)は400年にわたるオスマン帝国の支配から解放された。…
※「フサイン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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