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パキスタン パキスタン Pakistan

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

パキスタン
パキスタン
Pakistan

正式名称 パキスタンイスラム共和国 Islāmī Jamhūrīya-e Pākistān。面積 88万1889km2アザドカシミール准州を含む)。人口 1億8734万3000(2011推計。

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朝日新聞掲載「キーワード」の解説

パキスタン

人口約1億6千万で、イスラム教徒は97%。建国当時は世俗色が強かったが、故ジアウル・ハク大統領の在職中(77〜88年)にイスラム化が一気に進んだ。テレビの宗教番組の比率が高まり、公の場所での飲酒が禁止されるなどした。現ムシャラフ政権は穏健なイスラム国家を目指すが、宗教保守派は抵抗している。

(2006-07-01 朝日新聞 朝刊 2外報)

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デジタル大辞泉の解説

パキスタン(Pakistan)

ウルドゥー語で清浄の地の意》インド亜大陸の北西部、インダス川流域を占めるイスラム共和国。首都イスラマバード乾燥地帯にあり、米・綿布・絨緞(じゅうたん)などを産する。1947年にイスラム教国として英領インドから分離・独立し、インドを挟んで東西に分かれていたが、71年、東パキスタンバングラデシュ人民共和国として独立。人口1億8440万(2010)。

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監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
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百科事典マイペディアの解説

パキスタン

◎正式名称-パキスタン・イスラム共和国Islami Jamhuriae-Pakistan/Islamic Republic of Pakistan。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
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世界大百科事典 第2版の解説

パキスタン【Pakistan】

正式名称=パキスタン・イスラム共和国Islami Jamhuria‐e‐Pakistan∥Islamic Republic of Pakistan面積=79万6095km2(ジャンムー・カシミールなどを除く)人口(1996)=1億人(ジャンムー・カシミールなどを除く)首都=イスラマーバードIslamābād(日本との時差=-4時間)主要言語=ウルドゥー語通貨=パキスタン・ルピーPakistani Rupeeインド亜大陸の北西部にある共和国。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
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大辞林 第三版の解説

パキスタン【Pakistan】

インド半島の北西部,インダス川流域を占めるイスラム共和国。大部分は乾燥気候地域で,小麦・綿花・米を多く産出。1947年イギリス領インドからインドとは別個に独立。国土がインドをはさんで東西に二分された飛び地国であったが,71年パキスタン東部はバングラデシュ人民共和国として独立。住民はトルコ-イラン系。主要言語はウルドゥー語と英語。首都イスラマバード。面積79万6千平方キロメートル。人口1億5790万(2005)。正称,パキスタン・イスラム共和国。 〔「巴基斯担」とも当てた〕

出典|三省堂
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

パキスタン
ぱきすたん
Pakistan

インド亜大陸北西部、ほぼインダス川流域の乾燥地域を占める国。正式名称はパキスタン・イスラム共和国Islami Jumhuriya Pakistan。英語ではIslamic Republic of Pakistan。西はイラン、北西はアフガニスタン、北東は中国、東はインドと接し、南はアラビア海に面する。面積79万6095平方キロメートル、人口1億3235万2279(1998年センサス)、1億6671万5500(2009推計)。首都はイスラマバード。パキスタンとはウルドゥー語で「清浄なる国」を意味する。国旗は、大きな緑地に小さな白地を加えた二色旗で、緑地の部分は建国運動を推進した旧インド・ムスリム連盟の党旗に由来し、新月(三日月)と星とを白く染め抜く。イスラム教徒にとって、緑は神の恵みを、新月と星は神聖なシンボルを表す。国旗、国名ともに国教のイスラム教を象徴し、同国を「インダス川と砂漠の清浄なるイスラム国家」と性格づけている。[応地利明]

自然・地誌

パキスタンという国名は、一説によると、建国運動の過程のなかで将来の主要領域となるべき地方名を組み合わせてつくりだされた造語で、Pはパンジャーブ州、Aはノース・ウェスト・フロンティア(北西辺境)州(アフガン)、Kはカシミール、Sはシンド州の頭文字をとったもので、TANはバルーチスターン州の語尾にあたるという。これらの諸地方は、カシミールを除いて現在のパキスタンを構成する行政州であると同時に、ほぼ地形区分と対応している。パキスタンの地形は、北および西を取り巻く第三紀の新期造山帯に属する山地部と、インダス河谷の沖積平野部とに大別される。さらに山地部は北部山地と西部山地とに、また沖積平野部はインダス川の中流域平野と下流域平野とに細分される。
 北部山地は北西から南東へと走る褶曲(しゅうきょく)山脈の列からなる。もっとも外側の中国との国境沿いに走るのが世界第2位の高峰K2峰(8611メートル)を主峰とするカラコルム山脈で、8000メートル級の高峰4座を擁している。同山脈の諸山群の間にはビアフォ氷河(全長68キロメートル)などの大氷河があり、世界で最大規模の山岳氷河地帯をなす。同山脈の南を走るのが大ヒマラヤ山脈の一角をなすパンジャーブ・ヒマラヤ山脈で、その北西端にナンガ・パルバト山(8125メートル)がそびえるが、標高6000メートル級の山々が多く、カラコルム山脈に比べて高度は低い。さらにその南には、小ヒマラヤ山脈にあたる高度3000~4000メートル級のピル・パンジャル山脈、そして高度1000メートルほどのシワリク丘陵へと高度を低めつつインダス川中流域平原へと移行していく。北部山地はインド亜大陸の北辺障壁の一環であるが、古来、中国に通じる交通路がここを通過していた。ミンタカ峠越えはその代表的なルートであったが、1978年には同峠東方のクンジェラブ峠を通るカラコルム・ハイウェーが開通した。独立前のイギリス領時代には、西端部を除いて、北部山地の大部分はジャム・カシミール藩王国に属していた。1947年の独立と同時にその領有をめぐって印パ両国間でカシミール紛争が勃発(ぼっぱつ)した。その結果、現在は1949年の停戦ラインに従って、北西の8.4万平方キロメートルはパキスタン、南東の13.8万平方キロメートルはインドの管理下に置かれている。パキスタンは、同管理区域をアザド(自由)・カシミールとよんでいる。しかし、この停戦ラインをめぐって両国の争いは絶えない。
 西部山地は、アフガニスタン国境に沿って南西走するヒンドゥー・クシ山脈とその支脈からなる。歴史上名高いハイバル峠(カイバー峠)以南では、同山地は高度を低下させ、東部に大きく張り出して三つの高原地帯を形成する。第一は同峠付近から広がるペシャワル谷とポトワル高原であり、前者は北西辺境州の中心部にあたる。またそこは、歴史上インド亜大陸と西方世界とを結ぶ門戸の役割を果たしてきた。たとえば、紀元前1500年ごろのアーリア人、前6世紀のダレイオス大王、前4世紀のアレクサンドロス大王をはじめ、西方からの諸勢力はここを経てインド亜大陸に侵入した。また仏教とギリシア彫刻との結合とされるガンダーラ仏は、やはり西から進出してきたクシャン朝時代(紀元後1世紀末ごろ)にここで成立した。第二の高原は、その南に位置する西のトバ・カカル山脈と東のスライマン山脈に囲まれたロラライ高原であり、また第三はキルタル山脈以西に広がるマクラーン山脈と高原である。バルーチスターン州はこの二つの山地と高原地帯を包括する。ここもボーラン峠を経てアフガニスタン南部またイランへと通じる交通上の要地である。
 以上の新期造山帯とデカン高原との間の大規模な地向斜帯を埋積したのが、インダス河谷の沖積平野である。同平野は前記のスライマン山脈の南端部でくぎられ、中流域と下流域の両平野に分かれる。前者はパンジャーブ平原にあたる。パンジャーブ平原は、歴史的には北西辺境地方を経てインド亜大陸に侵入した西方勢力と同亜大陸の土着勢力とが、覇を決する天王山ともいえる役割を幾度も果たしてきた。西方勢力にとっては、ここはインド亜大陸に順化してより東方へと進出していくための拠点確立の場であり、また土着勢力にとっては侵入勢力を撃破すべき戦略的要地であった。それは、ここが半湿潤から乾燥への漸移地帯にあたるという気候上の特質によるところが大きい。パンジャーブとは「五河」を意味し、パキスタンでは西から順にインダス、ジェラム、チェナーブ、ラービおよびサトレジの5河川をさすとされる。パンジャーブ平原は、これら諸河川によって両側を画された河間の地(「二河」を意味するドアーブとよばれる)の集合である。ドアーブは、川沿いの新しい沖積低地を除くと、かつてはわずかに放牧に利用されるだけの荒れ地が大部分を占めていた。しかし1849年にイギリス領に編入されてから、諸河川を水源とする大用水路が建設された結果、パンジャーブは世界有数の灌漑(かんがい)農業地帯と化した。
 インダス川下流域平野は、シンド平原にあたる。パンジャーブ平原を過ぎると、インダス川は激しい乾燥地帯を流れるため、流入する水量の多い河川もなく、下流に向かうにつれて水量が減少していく。そのためガンジス川に比べると、下流部における沖積平野およびデルタの発達は小さい。しかし下流域平野のほぼ頂部にあたるサッカル周辺には、1930年代から独立後にかけてロイド堰(せき)をはじめとする諸堰堤(えんてい)が建設され、そこから延びる用水路によってシンド地方も灌漑農業の発達地帯となった。
 気候的には乾燥気候に属するが、乾燥の度合いは南部ほど激しい。それは、南部では東にタール砂漠が広がっているため、夏の南西モンスーンが及ばないからである。バルーチスターン州西部を除くと、もっとも降水量が少ないのはパンジャーブ平原とシンド平原との境界部であり、そこでの年降水量は100ミリメートルに満たない。ここはまた世界有数の暑熱地で、ジャコババードの6月の1日最高気温の平均は45.5℃に達する。これに対して北部のパンジャーブ平原は、ガンジス川沿いに北西上する夏のモンスーンによる雨が少ないながらも降るため、ラホールの年降水量は632.2ミリメートルとなる。北西辺境州の州都ペシャワルでは年降水量407.1ミリメートルで、年間平均気温は22.8℃(最低1月11.3℃、最高6月33.0℃)、南部のインダス川下流域、アラビア海に面したカラチでは年降水量171.4ミリメートル、年間平均気温26.3℃(最低1月18.4℃、最高6月31.7℃)である。北部山地の前山部では、積雪と地形性降雨のためパキスタン唯一の森林地帯をみる。[応地利明]

歴史

パキスタンは、世界の四大文明の一つインダス文明の成立地である。同文明の代表的遺跡とされるモヘンジョ・ダーロはシンド平原北部に、またハラッパーはパンジャーブ平原南部に位置する。この意味ではパキスタンは古い歴史をもつ。しかしパキスタンという国家自体の歴史は新しく、その建国は国名のとおりイスラム教と分かちがたく結び付いている。イスラム教は7世紀前半にアラビア半島でおこったが、早くも712年にはシンド地方はウマイヤ朝により征服されるに至った。これが、インド亜大陸における最初のムスリム(イスラム教徒)地方政権の成立であった。
 しかし、より重要なのは、11世紀初め以来のアフガニスタンからのムスリム勢力の侵入と1210年のデリー・サルタナット王権の確立であった。同王権は、13世紀前半にはベンガルにまで支配を拡大し、インド亜大陸北部を支配下に置くことになった。独立に際し、東西二つのパキスタンを構成することになる両地方は、インド亜大陸北部地方において最初と最後にイスラム化された所にあたる。
 パキスタン建国運動は、最後のムスリム征服王朝であるムガル朝にかわってイギリスがインド亜大陸を支配した植民地時代にさかのぼる。当初イギリスは旧支配者のムスリムを警戒し、逆にヒンドゥー教徒を優遇した。1857~1858年の「インドの大反乱」(セポイの反乱)を鎮圧したイギリスは、統治方針を変えて、両教徒の均衡政策いわゆる分割統治政策に転じた。しかしヒンドゥー教徒に比べて人口がはるかに少ないムスリム(20世紀初頭のムスリム人口比率は約20%)の間では、このままでは人口だけでなく政治的にも自分たちが少数集団と化すのではないかという危機感が、19世紀末ころから明瞭(めいりょう)に意識されるに至った。
 その危機感からする具体的な行動が、1906年のインド・ムスリム連盟の結成であった。以後、同連盟はいわゆる二民族理論に基づいてパキスタン建国運動を展開していく。二民族理論とは、ムスリムとヒンドゥーの両教徒は同一民族内で単に宗教を異にするだけの二つの集団ではなく、社会と文化の全般にわたる明瞭な相違をもつ二つの民族であり、それゆえに、民族自決の原則に基づいてそれぞれの国家をもつことにより、両者は共存し発展しうるのだとする理論である。この立場から、ムスリムの分離独立つまりパキスタン国家建設要求を宣言したのが1940年のインド・ムスリム連盟ラホール大会の「ラホール決議」であった。
 1947年の印パ分離独立は、ヒンドゥーおよびシク両教とイスラム教の宗派別人口をもとに各県、藩王国の帰属を決定した。これにより、インドを介して1600キロメートルも離れているうえに、自然環境、民族、文化、言語などの諸点においてまったく異なる東西両パキスタンを領土とするムスリム主権国家が建設された。国家元首にあたる総督にはインド・ムスリム連盟を指導してきた建国の父M・ジンナーが、また首相にはアリー・ハーンが就任したが、多くの困難が待ち構えていた。そのおもなものに限っても、パキスタンの領土となったのは旧イギリス領インドのなかでも工業作物(東パキスタンのジュート、パンジャーブ地方の綿花など)の生産に特化(専門化)した農業地帯であり、それらの加工施設はインドに集中していて国内には工業はほとんど皆無に近い状態であったこと、インドとの間の大量の難民の発生(パキスタンへの流入およびパキスタンからの流出人口はおのおの720万、750万人と推定されている)、とくにパンジャーブ地方における移動時の大量虐殺による憎悪の相互増幅、カシミール藩王国の帰属をめぐるインドとの軍事衝突(第一次印パ戦争)などをあげうる。また建国要求の達成は、逆にイスラム教を唯一の紐帯(ちゅうたい)として結集したムスリム連盟内の利害対立を激化させることになった。
 1948年のジンナーの病死と1951年のアリー・ハーンの暗殺は、この傾向をいっそう強め、政局は混迷を深めた。大統領制を定めた憲法も1956年になってやっと制定されたが、1958年には戒厳令施行に続いて軍事クーデターが発生し、以後、戒厳令による憲法停止は頻繁に繰り返されることになる。
 建国後数年を経ずして東パキスタンでは、言語問題や自治権問題、また西パキスタンとの経済的格差の拡大などをきっかけに、現状を西パキスタンの国内植民地化と規定する主張も現れた。この動きは、1970年の総選挙におけるアワミ連盟の圧倒的な勝利を経て、1971年、東パキスタンのバングラデシュとしての独立へと連なっていった。[応地利明]

政治

憲法は、イスラム国家らしく、国民が個人的、集団的にイスラムの諸教義に即した生活を送りうる諸方策を講ずる義務を政府が負うことを定め、そのための政府機関としてイスラム教義会議が設けられている。上下二院制と4州からなる連邦共和制を採用している。1971年には初の総選挙によって人民党のズルフィカル・アリ・ブット政権が成立した。しかし1977年にはふたたび軍事クーデターにより、陸軍参謀長ジアウル・ハクが大統領に就任し、1979年首相ブットを処刑して実権を掌握した。
 1988年にはブットの娘ベーナジール・ブットがイスラム圏の国では初めての女性首相となったが、1990年に当時の大統領イスハク・カーンにより解任され、さらに1993年総選挙により首相に返り咲いたが、1996年には大統領サルダル・ファルーク・レガリにより再度解任された。
 1997年2月に行われた総選挙では、ナワズ・シャリフNawaz Sharif(1949― )の率いるパキスタン・ムスリム連盟が憲法改正に必要な3分の2以上の議席を獲得し、首相解任・議会解散・州知事任命などの大統領権限を定めた憲法修正8条の廃止を決定した。これにより大統領の政治介入の縮小化による政治の安定が期待された。しかし1999年10月には三たびパキスタン陸軍参謀総長ムシャラフを中心とした軍事クーデターが発生、シャリフ以下全閣僚を解任し、軍政に逆戻りした。2001年6月ムシャラフが大統領に就任。2002年4月ムシャラフ大統領の信任を問う国民投票の結果、同大統領の任期が2007年まで延長され、10月の総選挙では、親ムシャラフのジャマリZafarullah Khan Jamali(1944― )が、首相に選出された。1996年11月に起きたエジプト大使館爆破テロにみられるイスラム原理主義勢力の拡大、また独立時に西インドから移動したムスリム流入民を中心とするムハーデル民族運動の活発化によるカラチ、シンドの治安悪化などの問題もあり、政治は不安定である。
 その後、2004年6月にはジャマリ首相が辞任、同年8月にアジーズShaukat Aziz(1949― )が首相に就任するが、ムシャラフ大統領は大統領と陸軍参謀長を兼任、国家安全保障会議(NSC)を創設し、政権の基盤と軍との結びつきを強化した。大統領および下院議員の任期満了は2007年11月15日となっており、それに先立つ同10月6日に大統領選挙が行われ、ムシャラフが圧倒的多数を獲得し勝利した。しかし、野党はムシャラフ大統領の立候補適格性を争う訴えを行い、これを受けて最高裁は、この訴えの審理・判決が出るまでは大統領選挙の公式な結果発表を控えるべきとする旨を示した。同2007年10月、大統領令(国民融和令)により訴追が免除される方向となったベーナジール・ブットが亡命先のアラブ首長国連邦から帰国、政治活動を再開。同年11月3日ムシャラフ大統領が国内全土に非常事態宣言を発令し憲法が一時的に効力停止となるが、同月28日ムシャラフは長らく兼任した陸軍参謀長を辞任し軍籍を離脱、翌29日文民として大統領に正式就任した。しかし12月27日にブットが暗殺され、これを事前に阻止できなかったムシャラフ政権に対する批判の声が高まり、パキスタン国内の政情は不安定な状態が続いた。
 2008年2月、総選挙が行われ、ブットが党首を務めていた人民党が第一党となり、人民党副総裁のギラーニYousaf Raza Gillani(1952― )が首相に就任した。同年8月にはムシャラフが大統領の辞任を表明し、9月に行われた大統領選挙ではブットの夫で人民党共同議長を務めていたザルダリAsif Ali Zardari(1956― )が当選し大統領に就任した。パキスタンの大統領は国民の直接投票による選挙ではなく、国会の上下両院および州議会議員による間接選挙で選ばれる。
 外交は、独立以来のインドとの厳しい対立を軸に動き、インドが非同盟中立、次いで親ソ連路線へと傾斜していくにつれて、パキスタンはアメリカ、中国との連携を強めてきた。三次にわたって戦火を交えた印パ両国は緊張緩和のための会談を続けているが、現実には軍備拡張競争が進んでいる。1997年の国内総生産(GDP)に占める国防予算の比率は5.8%(日本は1.0%)に達しており、2006年の同比率は3.2%であった。軍隊は志願制で兵員数は、陸軍55万、海軍2万4000、空軍4万5000となっている。ほかに国家警備隊や民兵組織がある。
 1998年5月、インドがラージャスターン州で核実験を行ったことに対抗して、パキスタンでもバルーチスターン州で核実験を行い、世界中を揺るがした。その後は両国ともに包括的核実験禁止条約(CTBT)への署名の意向を表明している。1999年2月には両国ともにラホール宣言に合意し、核実験の凍結を表明した。しかし、その2か月後にはインドが中距離弾道ミサイルの発射実験を行うとパキスタンでも新型中距離弾道ミサイルを発射し、両国は緊張関係にあった。その後、両国の首脳会談が何度かあり、カシミール問題を含む包括的対話再開と停戦が模索されているが、しばし中断するなど、予断を許さない状況は続いている。外交方針としては、イスラム諸国との連携を重視し、中国や欧米との協力体制を構築しつつ、インドとの関係改善を図る方向性がみられる。[応地利明]

経済・産業

独立直後、産業政策の方向として、国有企業は公益事業と重工業のみに限定して、他部門は民間企業にゆだね、外国資本の導入も合弁形態であれば歓迎するとの大綱が定められた。これに沿って、1955年に第一次五か年計画が実施された。その重点は、工業化、灌漑(かんがい)・発電、社会資本充実、教育に置かれた。経済は1950年代を通じて停滞していたが、1960年代になって活況を呈するようになった。その背後には、より徹底した民間企業および外国資本重視への経済政策の転換があった。しかしその結果は、二重の意味での格差の拡大となった。第一は、貧富の差の拡大であり、とりわけ工業部門に進出して成長した財閥への富の集中である。主要財閥は、印パ分離に際しインドの西海岸から移住してきたグジャラートとパンジャーブの両民族を母胎としており、財閥の成長は民族間における格差の増大でもあった。第二は、工業建設が当時の西パキスタンに集中し、東パキスタンのジュート輸出による外貨収入を西パキスタンの工業建設用輸入にあてるという両パキスタン間における本国―植民地関係の固定化であった。1970年代に入ってから、バングラデシュの独立と石油ショックはパキスタンに大きな打撃を与えた。ズルフィカル・アリ・ブット政権は、主要工業の国有化を重要な柱として経済再建にあたったが、経済の基本構造を変えるには至らなかった。第二次ベーナジール・ブット政権は、財政困難を打開するため、赤字削減・外国資本の投資誘致を行ったが成果をあげるには至らなかった。1998年には外貨準備高11億ドルに対して、対外債務は1997年で297億ドルに達した。
 労働力人口からみると、2005年現在でも44.5%が農林水産業従事者であり、依然として農業国であることを示している。しかし、かつての西パキスタンを取り上げて、国民総生産(GNP)に占める農業と工業の比率の変化をみると、独立当初の1949年にはおのおの55%、8%であったのが、1994年には24%、19%となっていて、農業の比重低下と工業の上昇がみられた。この間を通じて製鉄、石油精製、化学などの重工業の建設も進められたが、工業の中心はいまなお紡績、綿布、じゅうたんなどの軽工業にある。農業は、小麦、米、綿花などを主要生産物としている。小麦と米の生産は、1960年代末からの「緑の革命」によってパンジャーブ地方を中心に拡大を遂げ、1960年に比べて1995年にはおのおの3.5倍、4.7倍に増大した。とくに米は重要輸出品となった。2006年の小麦生産量は2128万トン、米生産量は814万トンである。
 鉱産資源としては、ポトワル高原で原油を産するが、輸入総額の13%を原油、12%を石油製品が占めている(2006)。エネルギー源としてもっとも重要なのは天然ガスで、全エネルギー需要の約40%を供給する。シンド平原北西部のスイ周辺がその産出地帯で、そこからパイプラインで主要都市に供給されている。パンジャーブ地方における印パ間の水利紛争は、1960年の世界銀行の調停によるインダス川水利条約の締結で解決をみた。同条約によって、インダス、ジェラム、チェナーブ3河川の水利権はパキスタンに、ラービ、サトレジ両河はインドに帰属することになった。水利転換のためにインダス川をせき止めて建設したターベラ・ダムは、灌漑だけでなく水力発電のうえでも重要な役割を果たしている。同じイスラム教国であるサウジアラビアやペルシア湾岸諸国への出稼ぎ労働者が多く、彼らによる送金が外貨収入のなかで最重要な位置を占め、輸出総額を上回るほどである。しかし国際収支は慢性的な赤字が続いている。
 2007年現在も、パキスタンの主産業は農業と綿工業である。以前に比べ、経済状況は改善されているが、貧困問題などの課題が残る。2007/2008年度のGNPは1701億ドル、1人当りGNPは1057ドル、実質経済成長率は5.8%、失業率は5.2%、外貨準備高は111億6400万ドル(2009年4月)、対外累積債務残高が401億7200万ドルとなっている。貿易額は輸出が201億2000万ドル、輸入が354億2000万ドル、主要貿易品目は、輸出が綿花関連製品、皮革製品、合成繊維衣料品、米、輸入が石油製品、原油、機械類、肥料・化学品、鉄鋼、食料品、主要貿易相手国は、輸出国がアメリカ、アラブ首長国連邦、中国、アフガニスタン、イギリス、輸入国がサウジアラビア、中国、アラブ首長国連邦、アメリカ、日本となっている。通貨はパキスタン・ルピーPakistan Rupee。[応地利明]

社会・文化

前述のようにムスリム「民族」国家として建設されたため、宗教別人口はイスラム教が96.3%と圧倒的に多く、ヒンドゥー教、キリスト教はおのおの1.6%にすぎない。しかしこのことは、パキスタンに民族問題が存在しないことを意味するものではない。各主要言語の話者人口をもって民族とすると、パンジャーブ人が53%と全人口の半数以上を占め、北西辺境州を根拠地とするパターン人(パシュトゥン人)が16%、ついでシンド州を主とするシンド人が13%、バルーチスターン州とシンド州とに広がるバルーチ人が4%となっている。公用語のウルドゥー語を母語とする話者人口は8%で、彼らは大都市に在住するかつてのインドからの移住民を主としている。1970年のバングラデシュの独立は、ムスリム「民族」の一体性の崩壊を意味し、バルーチ人やパターン人の自治要求を活気づけることになった。その背景には、人口だけでなく政治・経済的にパキスタンを支配しているパンジャーブ人ひいては中央政府に対する反発がある。政府による建国理念への回帰の強調は、こうした民族間対立の融和、ひいては国家求心力の回復をイスラム教を紐帯(ちゅうたい)としてふたたび目ざそうとする一面をもっている。
 しかしパキスタンは、政教一致のイスラム国家ではない。むしろ独立以後イスラム教を掲げつつも、内政面では政教分離を模索してきたといったほうがよいかもしれない。法体系をみても、私法はイスラム法の影響を色濃くとどめているが、公法はイギリス法思想に基づいている。歴史的にもインド世界としての一体性を共有してきた関係から、ヒンドゥー教の影響も認められる。とりわけパンジャーブ地方の農村では、社会構成も神の前の平等を旨とするイスラム的原理のみによるのではなく、ヒンドゥー教のもつカースト制度に類似する成層化を示している。
 教育は、5歳からの5年間の初等教育が無償である。成人の識字率は55%(2006/2007)となっている。
 民族なき民族自決という建国過程の特異性のために、パキスタンはなお独自の国民文化を生み出すまでには至っていない。国内の主要民族は、それぞれの歴史に裏づけられた民族文化また独自の慣習をもつが、それらの多様性を統一する役割を担うべきイスラム教は、その普遍性ゆえに逆に国民文化創出の核とはなりえないというジレンマが存在する。インド的文化としての伝統の共有も、国民文化の創出を困難にしている条件である。パキスタンにおけるもっとも人気の高い娯楽である映画をとってみても、インド映画へのあこがれが強い。これには、国内映画産業の未発達という事情があるにせよ、インドとの根強い文化的結び付きが働いていよう。[応地利明]

日本との関係

パキスタンは日本への関心も強く、アジア諸国のなかではもっとも早くビザの相互免除を認めた国であった。しかし現在では、就労のための日本国内の不法滞在者の増加から、それは中止されている。国内を走る自動車のほとんどが日本の中古車ないし日本との合弁企業による生産車であることが示すように、日本との関係は経済分野で活発である。しかし貿易は、慢性的なパキスタンの輸入超過であり、2007年の対日輸出額は289億9000万円、輸入額は1832億1000万円で、1542億2000万円の輸入超過となっている。日本への輸出品目は石油製品、織物用繊維糸、革製品、綿織物、敷物などで、輸入品目は自動車およびその部品、機械類、電気機器、鉄鋼などである。
 パキスタンへの政府開発援助(ODA)では、日本は2007年に無償資金協力47億6300万円、技術協力13億9300万円を支出しており、2006年の主要国援助実績ではアメリカに次いで第2位であった。[応地利明]
『日本貿易振興会編・刊『パキスタン』(1990) ▽山中一郎編『パキスタンにおける政治と権力――統治エリートについての考察』(1992・アジア経済研究所) ▽佐藤拓著『パキスタン・ビジネス最前線――駐在員が見た実力と将来』(2000・ジェトロ) ▽堀本武功・広瀬崇子編『現代南アジア3 民主主義へのとりくみ』(2002・東京大学出版会) ▽辛島昇他監修『南アジアを知る事典 新訂増補』(2002・平凡社)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
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