目次 自然,地誌 住民,言語 政治 政治構造 政治史 外交,軍事 経済 社会 美術 音楽 基本情報 正式名称 =パキスタン・イスラム共和国Islami Jamhuria-e-Pakistan/Islamic Republic of Pakistan 面積 =79万6095km2 (ジャンムー・カシミールなどを除く) 人口 (2011)=1億7710万人(ジャンムー・カシミールなどを除く) 首都 =イスラマーバードIslamābād(日本との時差=-4時間) 主要言語 =ウルドゥー語 通貨 =パキスタン・ルピーPakistani Rupee
インド亜大陸の北西部にある共和国。正式国名に〈イスラム〉を明記している点に特徴がある。1947年8月14日,イギリス植民地インドのうち,面積では約4分の1,人口では約5分の1にあたる北西部と東ベンガルのムスリム多住地域がインド(バーラト)とは分離して独立した国である。56年3月までイギリス自治領の地位にあり,それ以後イギリス連邦内の共和国となった。この時点でパキスタン・イスラム共和国となったが,62年3月~64年1月の間は〈パキスタン共和国〉と称した。
〈パキスタンPAKISTAN〉とはウルドゥー語で〈清浄な国〉を意味すると同時に,パンジャーブ州のP,北西辺境州(アフガン州)のA,カシミールのK,シンド州のS,バルーチスターン州の末尾のTANを結合したものである。独立当時は東西に1800kmも離れた〈飛び地国家〉で,面積では〈西〉が85%,人口では〈東〉が55%を占めた。しかし,主として民族問題の矛盾から,東パキスタンは71年3月に内戦,第3次インド・パキスタン戦争を経て〈バングラデシュ 〉として独立し,パキスタンは従来の西パキスタンに限られた。面積は約80万km2 で日本の2倍以上。人口の97%をムスリム(イスラム教徒)が占めている。
自然,地誌 パキスタンは東側をインド,西側はアフガニスタン,イランと国境を接している。インドとの係争地であるカシミールは,中国の新疆ウイグル自治区とチベット自治区とに接しており,1978年に完成したカラコルム・ハイウェーは首都イスラマーバードと中国の新疆ウイグル自治区を短時間で結びつけている。パキスタンの北端はカラコルム,ヒンドゥークシュ両山脈が走り,その山間から南のアラビア海まで国土の中心部をインダス川が貫流している。インダス川西側はシンド州北部の平地を除くと南北方向にスライマーン,キルタール両山脈が走っており,そこを西へ越えるとアフガニスタンとイラン国境まで山岳地帯が続く。インダス川東側は平地であるが,インドとの国境地帯は北部のパンジャーブ州を除けば,砂漠地帯が広がっている。インダス水系は産業とくに農業にとってきわめて重要で,その流域平野に国民の80%以上が住んでいる。
気候は北部山岳地帯と南部の平野で大きく異なる。1年は短い冬と長い夏に分かれ,また夏の後半2~3ヵ月の雨季とそれ以外の乾季に分かれる。雨季は南西モンスーンの影響で雨が降る。夏は南北でずれるが,4月ころから始まり5~6月は最暑期になり,日中の気温が40℃を超えるのは珍しくない。冬は平地では快適であるが,山岳地帯の寒さは厳しく,深い雪がみられるところもある。
雨季を除くと乾燥気候で,インダス水系の活躍の場である。パンジャーブ州では,インダス川東側にジェラム,チェナーブ,ラービー,サトレジ,ビアスのインダス5支流が流れ(ビアスのみはインド(バーラト)内を流れ,サトレジ川に合流),これら河川からの運河はパンジャーブ地域を世界でも有数の人工灌漑地としている。パンジャーブ州はパキスタンの穀倉地帯であり,1960年代の〈緑の革命 〉の過程で小麦,綿花,サトウキビ,米の生産性を大幅に高めることに成功した。
住民,言語 パキスタンは多民族国家であり,民族と言語集団はほぼ対応している。主要な民族・言語集団の総人口に占める比重は,パンジャービー66%,シンディー13%,パシュトゥーン (パシュト語)9%,バルーチ族 3%となっている。ほかにウルドゥー語を母語とするものが8%を占めるが,彼らは1947年の分離独立以降移住してきたムハージルMuhajirと呼ばれる北インド出身者が主体である。カラチにはグジャラーティー語 を母語とする商人層も存在する。また,インドと係争中のカシミール 地域(パキスタン支配領域は〈アーザード(自由)・カシミール〉と呼ばれる)にはカシミーリーを母語とする者もいる。主要民族・言語集団の地理的分布は行政上の4州(パンジャーブ州,シンド州,北西辺境州,バルーチスターン州)にほぼ対応しているが,バルーチ族の60%近くはシンド州に居住している。ウルドゥー語を母語とする人々の約半数はシンド州のカラチやハイダラーバード などの都市部に居住している。
公用語はウルドゥー語であるが,官庁,高等教育機関での英語の役割はあいかわらず大きい。1973年憲法は,ウルドゥー語が15年以内に完全に公用語化されるまでの過渡的な処置として英語の併用を認めていた。しかし,英語の役割が早急に低下することは近い将来予想しがたい。ウルドゥー語,英語は諸民族・言語集団をつなぐ共通語であるが,ウルドゥー文学が独自の領域を開拓してきたことも見のがせない。また,シンディー文学など各民族語とその文学の発展が,各民族のアイデンティティ強化の動きと軌を一にしているとみられる。東パキスタンの分離独立が中央政府によるベンガル語抑圧政策と無関係でなかったように,パキスタンにおける諸民族語のあり方は,その民族の政治的・社会的地位と無関係ではない。
政治 政治構造 〈飛び地国家〉として分離独立したパキスタンの課題は,第1に国家統合の理念を確立して国家体制を整備することであった。インド亜大陸のヒンドゥーとムスリムは別個の歴史を有する別個の民族であり,おのおの別個の国家をもつべきであるとする〈二民族論〉を基礎としながら,パキスタンが〈イスラム国家〉か〈政教分離(セキュラー)国家〉であるべきかの課題は未決着であり,今日に至るまでパキスタン国家のアイデンティティの問題として残されている。また,多民族国家であるパキスタンの現実を国家統合とどう調和させるかも苦痛に満ちた未解決の課題である。1971年のバングラデシュ独立は,東パキスタンのベンガル民族が,ムスリム・アイデンティティより民族アイデンティティを選択したことを意味した。1970年7月に西パキスタンが1州から4州に再編成されたことも東ベンガルの動きと無関係ではない。
パキスタンの政治権力はパンジャービーを支配民族とする軍事・官僚支配体制に支えられ,階級的には財閥とならんで,不徹底な土地改革のため大地主が支配階級となった。公法レベルでは〈政教分離主義(セキュラリズム)〉が支配し,民事レベルではイスラム法の影響力も大きい構造となっている。しかし,1971年の第3次印パ戦争以降,特にジア・ウル・ハク政権以降には,イスラム協会(ジャマーティ・イスラーミー)が与党に参加するなど,公法レベルでもパキスタンのイスラム国家化が顕著になった。議会制民主主義が定着せず軍政期間が長かったこともインドと異なる特徴となっている。1988年の民政移管後も必要に応じて軍が大統領を通じて影響力を行使する体制が生きている。しかしイスラム化とならんでカラチにおけるムハージル(インド出身者)とシンディー住民の衝突など民族間対立も激化しており,国内の諸民族の共存はパキスタンの国民統合と民主主義にとって不可欠の課題になっている。とくに国内の諸民族の権利をどれだけ認めるかは,パキスタンの民主主義発展に深くかかわる課題である。
政治史 イギリス領インドにムスリムの独立国家を建設しようとする運動は,1930年にさかのぼることができる。この年のムスリム連盟 の年次大会で,詩人・思想家イクバール は〈ムスリム国家〉構想を提唱,しかしその内容は不明確な点を含んでいた。40年,同連盟のラホール年次大会で,連盟議長ジンナー は,インドは文化,伝統をまったく異にするヒンドゥー,ムスリム二つの民族から構成されているという〈二民族論〉を打ち出し,これに基づき少数派のムスリムのための分離独立国家の樹立を主張,ラホール決議として採択された。第2次大戦中の42年,インドの政党に戦争への全面的協力を求めたクリップス使節団 の提案には,戦後の自治領としての地位付与が含まれており,植民地独立がほぼ確定的となる。大戦中,ヒンドゥー教徒を代表する政党国民会議派 は,イギリスに対する〈インドを立ち去れ〉闘争で大量の投獄者を出したが,この間ムスリム連盟は下層ムスリムの支持をも獲得して勢力を拡大,分離独立を強く要求するにいたった。戦後,イギリスによる両党間の調停は失敗し,47年6月マウントバッテン総督は分割案を発表,これを両党が受諾し,インド独立法Indian Independence Act(1947年7月18日)に基づき,パキスタンは8月14日に自治領として独立を達成する。
独立後,ジンナーが国家元首であるパキスタン総督に就任,リヤーカト・アリー・ハーンが首相となった。しかし,建国の父ジンナーは48年に病死し,リヤーカトも51年に暗殺され,この間インドとのカシミールを巡る戦争(インド・パキスタン戦争 ),さらにムスリム連盟が統治政党への転化に失敗したことなどで,政治的混乱が続いた。その過程で今日に至るパキスタンの政治権力構造の特徴である軍部と高級官僚の支配体制が形成されていった。また,インドの脅威への対抗を軸とする外交路線はパキスタンをアメリカを中心とする反共地域軍事同盟に接近させた。54年5月にアメリカと相互防衛援助協定を締結するとともに,東南アジア条約機構 (SEATO)に加盟,55年9月には中東条約機構(METO。1959年には中央条約機構(CENTO)に改組)に加盟した。56年の新憲法はパキスタンを〈イスラム共和国〉としたが,立法,司法,行政など国政面で〈政教分離主義〉が打ち出された。また西パキスタン諸州は行政的に一本化され,〈西パキスタン州〉となった。しかし,憲法で規定された総選挙は再々延期され,ついに58年10月アユーブ・ハーン陸軍司令官はクーデタを敢行し,憲法を廃止して軍事政権を樹立した。
アユーブ・ハーン軍政下では,世銀および西側諸国の援助に依存しつつ,民間主導型の急速な資本蓄積が実現された。62年の中印戦争後は中国に接近し,中国との友好関係維持は親西側政策とともにパキスタンの外交原則として確立した。軍事政権は政党活動を禁止し,〈統制された民主主義〉の名のもとに〈基礎的民主制〉が導入された。しかし,65年9月の第2次インド・パキスタン戦争での敗北以降,経済成長の歪みによる貧富の差の拡大,東西パキスタン間や西パキスタン内での地域較差拡大,官僚,財閥の汚職,腐敗などを理由に反政府運動が広がった。69年3月,アユーブ大統領は反政府運動の高揚を前に全権をヤヒヤー・ハーンAgha Muhammad Yahya Khan陸軍司令官に移譲した。70年12月の初めての成人普通選挙で,東パキスタン州の大幅な自治を要求するアワミ連盟(ムジブル・ラーマン 総裁)が圧勝した。ヤヒヤー大統領は71年3月,東パキスタン民衆に対する武力弾圧を強行し,多数のベンガル人が虐殺された。アワミ連盟はバングラデシュの独立を宣言するとともに,インドの援助も受け各地で抵抗を組織した。71年12月の第3次インド・パキスタン戦争の結果,パキスタンは東パキスタンへの支配を放棄し,西パキスタンのみ残存することとなった。パキスタンは建国以来最も深刻な国家的危機に直面した。
71年12月にヤヒヤー辞任をうけ新大統領となったパキスタン人民党(PPP)のZ.A.ブットー は,〈東〉なきパキスタンの復興に全力をあげた。ブットー路線は,民間企業国有化などの〈社会主義化〉と〈民主主義〉を強調した。73年8月に発効した新憲法は,議院内閣制をうたい首相権限を強化したほか,司法の独立性も強められた。さらに軍の政治への関与を否定した。直ちに首相となったブットーは,SEATO脱退(1973年11月),バングラデシュ(1974年2月)のほかインドとの関係正常化を進めた。77年3月の文民政権支配下での初めての総選挙で,与党PPPは圧勝した。しかし,1971年の戦争以降も非常事態宣言を解除しない強圧姿勢,バルーチ族の反乱(1973-77)への弾圧,〈社会主義化〉によって特権を奪われた一部階層と生活向上への期待が満たされなかった社会的底辺層の不満が急激に反政府運動に転化された。77年7月にジア・ウル・ハクMohammad Zia-ul-Haq陸軍参謀長がクーデタを決行,戒厳令を布告して1973年憲法を停止し,議会を解散した。こうして,パキスタンの議会制民主主義は再び軍政に地位を譲った。
ジア戒厳令司令官は自ら発表した民政復帰の公約を何度も反古にして,事実上長期政権をめざした。79年4月には殺人教唆で有罪とされたブットー前首相を世界各国の助命嘆願を無視して処刑した。ジアは軍政当初から〈イスラム化〉を強調し,外交的にもサウジアラビアや革命後のイランとの関係を深めた。79年12月のソ連軍のアフガニスタン侵攻は,〈対ソ前線国家〉としてのパキスタンの国際的地位を高め,ジア軍事政権の基盤強化に貢献した。85年2月,ジア政権は政党色抜きで国会と州議会の選挙を実施し,3月には73年憲法を大幅に修正(強力な大統領制の導入),12月に戒厳令を解除した。しかし,戒厳令解除で政党活動が再開されると,反政府活動が活発となり,民族対立による抗争やアフガニスタンがらみのテロも頻発した。
88年8月,ジア・ウル・ハク大統領を乗せた軍用機が墜落,大統領は急死した。これを契機に民政が復活し,同年11月の国会選挙で野党のPPPが第1党となり,処刑されたブットー元首相の娘ベナジール・ブットーBenazir Bhutto(1953- )がイスラム圏初の女性首相に就任した。政権は国民に歓迎されてスタートしたものの,90年8月,ブットー首相は突然〈統治能力の欠如,政治の腐敗〉を理由にイスハーク・カーン大統領(1988年12月正式就任)によって解任され,10月の選挙ではイスラム民主同盟(IJI)が国会・州議会でも圧勝し,ナワズ・シャリーフNawaz Sharif(ムスリム連盟ナワズ派党首)が首相に選出された。しかしシャリーフ首相も93年4月に首相の汚職,軍の権威を失墜させようとしたなどの理由で大統領によって解任され,10月までに3人の首相が交代するなど政局は混乱した。同年10月の選挙でPPPは単独過半数は獲得できなかったが第1党となり,第2次ブットー内閣が発足した。しかしレガリ大統領(1993年就任)は96年11月,身内びいき,ブットー家内部での確執,首相の夫ザルダリを含む汚職容疑,執政への不信などを理由にブットー内閣を解任し,国会と州議会を解散した。これら一連の首相解任の背景には軍部の強い意向があった。ハーリド暫定内閣の手で行われた97年2月の総選挙ではナワズ・シャリーフが3分の2の議席を獲得して圧勝し新内閣を発足させたが,経済危機と国内治安など多くの困難な問題に直面して安定した民政は実現していない。
外交,軍事 独立以来,隣国インド(バーラト)と3度にわたり戦火を交えており,両国間の懸案であるカシミール所属問題は1949年の停戦ラインのまま決着をみていない。パキスタンはインドの脅威に対抗することを外交・軍事政策の最重点におき,その観点から親中国・親西側を原則的路線としてきた。1971年のバングラデシュ独立以降は,72年1月にイギリス連邦脱退,同年11月には東南アジア条約機構を脱退するなどの手直しを行った。79年3月にはイラン革命で有名無実化した中央条約機構を脱退し,同年9月のハバナでの非同盟運動首脳会議には正式メンバーとしての参加が認められた。
パキスタン軍総兵力は58万7000人(1994年現在。陸軍52万人,空軍4万2000人,海軍2万2000人)で,インド(バーラト)軍の約半数にあたり,志願兵制である。これ以外に準軍事武装勢力として27万5000人がいる。国家財政の少なくとも3分の1が軍事費で占めることになり,財政硬直化の要因ともなってきている。
経済 パキスタン経済は,〈飛び地国家〉,旧イギリス領インドの経済的後進地域,かつインドからの大量の難民流入という不利な条件から出発した。〈西パキスタン〉は綿花と小麦,〈東パキスタン〉はジュートと米の供給地であったが,インド市場との切断は大きな打撃であった。イギリス領インドの主要工業中心地はインドに残った。独立直後(1949年7月~50年6月)のGNP(国民総生産)構成比は農業60%(〈西〉は55%,〈東〉は65%)であったのに対し,鉱工業・建設業は合わせて12%(〈西〉は14.7%,〈東〉は9.4%)にすぎなかった。製造業も小規模で,食品加工やジュート,綿花などの一次加工に限られていた。その後の開発路線は1948年の〈産業政策声明〉で示されたように民間資本主導型であり,インド(バーラト)の開発路線と対照的であった。52年にパキスタン産業開発公社(PIDC)が設立され,国家資本により各種工場が設立され,軌道にのると順次民間に払い下げる方式がとられた。
政治的混乱などで1950年代末まで停滞したパキスタン経済は,アユーブ・ハーン時代に入ると高成長期を迎えた。第1次五ヵ年計画は55年に始まったが,60年からの第2次計画期,65年からの第3次計画期にGNPはそれぞれ年平均5.5%,5.7%の成長率を達成した。69/70年度にはGNPに占める農業は45%に低下し,製造業は12%となったが,綿・ジュート紡績は輸出産業としての地位を確立した。外国援助への依存(公共部門投資の約50%)を強め,財閥の急成長とならんで貧富の較差拡大がみられた。〈東〉が外貨を稼ぎ,大部分の投資が〈西〉になされるという東西較差拡大は,〈東〉の不満を強め,71年のバングラデシュ独立の一要因となった。
第3次インド・パキスタン戦争と東パキスタンの喪失,その後のインフレーション,労働争議激化はパキスタン経済に大きな打撃となった。ブットー政権は主要業種の国有化に着手するなど〈社会主義化〉を打ち出した。通貨ルピーの57%切下げ(1972年5月),綿花価格の高騰などの好条件,さらに中東など代替輸出市場の開拓などは,東パキスタン喪失後の調整過程を比較的スムーズなものとした。しかし,第1次石油ショック(1973年末)が起こり,非産油国のなかでは最も大きな打撃を受けた。こうした事態のなかで,中東産油国からの援助が急増したことと,大量のパキスタン人労働者が建設ブームとなったペルシア湾岸に出稼ぎに出るようになったことは一面明るい要素となった。特に出稼ぎ労働者の本国送金は急増し,75/76年には輸出額の30%に相当した。その後も出稼ぎ送金は増加を続け,81/82年には24億ドルで商品輸出額23億ドルを超えるものとなった。中東,ペルシア湾岸地域との経済的結びつきはいっそう深いものとなった。
1977年7月に成立したジア軍事政権は,ブットー前政権の〈社会主義〉路線から民間資本重視へ政策転換を行った。第5次五ヵ年計画(1978/79年度~82/83年度)のGNP年平均成長率は6.5%で比較的順調な伸びをみせ,農業は年率4.5%,工業は年率9~10%の成長を記録した。その間,79年に入るとジア政権は〈経済のイスラム化〉を唱え始め,81年1月には利子を認めない〈イスラム銀行〉(預金者は利子のかわりに6ヵ月ごとに利益・損失の配分をうける)を発足させた。81年にはソ連の援助によってカラチ製鉄所が完成して,重工業化も進み始めた。輸出品構造も高度化しつつあり,第5次五ヵ年計画期の輸出増加額の50%は機械,器具,肥料,化学,合繊などで占められた。
しかし,パキスタン経済は1980年代半ば以降,年数パーセントの成長率を続けつつも構造的な問題に直面している。第1に,恒常的な貿易収支の赤字と国際収支問題である。国民総生産に対する経常赤字比率は4%から増加傾向にある。90年代半ばには予算に占める内外債償還が45%以上になった。その間IMFと数回借り入れ協定を締結したが,コンディショナリティー を満たすことができずに中途で停止されてきた。96年末には対外累積債務は280億ドルに及びデフォールト直前の危機に直面し,IMFの条件をある程度のまざるを得なくなった。貿易構造を見ると輸出は綿糸・綿製品が約半分を占めるに至っているが,輸入では機械設備,化学原材料,エネルギー資源が大きい比重を占めている。第2の問題は,インド(バーラト)との対立に備えるための軍事費が聖域となっており,中央政府予算の少なくとも3分の1を占め財政を圧迫していることである。第3に,農業生産の頭打ちである。主要穀物である小麦生産は1970年代半ばまで800万t台であったが,タルベラ・ダムの完成などで80年代初頭には1200万tの水準に達しほぼ自給を達したと見られた。しかしその後の生産増加率は緩やかで,人口増を考慮に入れると97年においても輸入を強いられている。砂糖も国内生産では不十分で輸入に頼らざるをえない。綿花生産も頭打ちになっている。第4に,経済改革,特に税制改革がなかなか進まないことである。1億3100万(1997年現在)の人口のうち,直接税の納税者は100万人に過ぎない。特に農業所得税の導入については強大な地主の抵抗があり,1990年代半ばに各州で導入されてもその実施は容易でないと見られている。
社会 パキスタンはムスリムが圧倒的多数を占める多民族・多言語国家である。1971年に東パキスタンの分離独立により,人口に占めるムスリムの比率は97%となり,ヒンドゥー,キリスト教徒,パールシー などの宗教的マイノリティの比率はいっそう低下した。ムスリムのなかではスンナ派 のハナフィー派が圧倒的多数を占めているが,4分の1から5分の1はシーア派 である。シーア派系のイスマーイール派 のホジャ派やボホラ派は産業界で重要な地位を占めている。また,19世紀に生まれた独特な教義を有するアフマディー教団 も存在する。同派は国内では少数派であるが,官界,軍に積極的に進出している。アフマディー教団はパキスタン国家の〈イスラム性〉を強調するイスラム協会などの宗教・政治グループによって〈異端〉攻撃を受け,1973年憲法においても非ムスリム・マイノリティと規定された。
パキスタン人のアイデンティティは,部族,民族,言語,パキスタン国家,イスラム世界などと重層的であり,かつ流動的である。地理的アイデンティティにしても,インド亜大陸に属するのか,中東イスラム世界に属するかの揺れがみられる。さらにパキスタン・ムスリム特有の問題として,ヒンドゥーからの改宗以前のカースト秩序が現在でも果たしている機能が注目される。また,相続においても,イスラム法が純粋に適用されずヒンドゥー法的慣習法との妥協が行われる場合も多い。その結果,女性の相続権は弱い立場に置かれることが多い。村落における支配構造もインドのそれとの相違点よりも類似点が多い。都市化の進展は農村から都市への労働力の移動を生み,さらに1970年代半ばに開かれたペルシア湾岸産油国での雇用機会の急増は,数多くの出稼ぎ労働者の流れを生んだ。新たな社会の流動化と都市問題の深刻化がみられる。既存の農村秩序への長期的インパクトが注目される。
現在の教育システムは1972年の新教育政策に基づいており,初等教育の義務化をうたっているが,まだ実現していない。新教育政策は同時に成人識字プログラムとイスラム教育を強調している。イスラム教育として,コーラン,ムハンマドの生涯などを学び,最初の8年間はスンナ派,シーア派共通,後の2年間は別々に学ぶ。教育は次第に普及してきているとはいっても,憲法上の権利である初等教育での就学率は半数以下である。ユネスコの調査では1990年現在で小学校での就学率は46%,中学校では33%となっており,成人の非識字率は約65%と相変わらず高い。一方総合大学の数は1993年現在で24,学生数は約8万6000人となっている。なお,独立以前の歴史・社会については〈インド 〉の項を参照されたい。 執筆者:清水 学
美術 インド亜大陸の北西部のパキスタンの美術は,亜大陸の他の地域のそれと不可分の関係にある一方,内陸アジアから異民族が絶えず流入し異質の文化が導入されたため他の地域と趣を異にする面もある。その美術は先史時代のインダス文明 ,古代のガンダーラ仏教美術,ムガル帝国時代のイスラム美術に代表される。インダス文明はインダス川流域を中心に前2350-前1700年ころに栄えた文明で,モヘンジョ・ダロとハラッパーとの二つの都市遺跡がことに有名である。神殿,王宮,王墓のような建造物こそ見られないものの,文字と青銅の鋳造技術とをもち,度量衡が統一され,都市は整然とした計画のもとに建設されていた。のちのヒンドゥー教文化の諸現象には,この文明に起源すると思われるものが少なくない。前1500年を中心にアーリヤ人が移住し,ベーダ に基づく文化を生んだが,この時代の遺品は乏しい。次いで前6世紀以来異民族の支配が相次ぎ,ペルシア,ギリシア,ローマ文化が移植されるとともに,前3世紀には仏教文化も伝えられて,クシャーナ朝 の支配期にガンダーラ,タキシラ,スワートで独得の仏教文化が開花した。インドと西方の諸文化の交流によりこの地方で展開したガンダーラ美術 は,石造彫刻を中心とする仏教主導の美術で,仏陀の姿を初めて表現したことと,仏陀の事績の図像を定型化したことで知られ,中央アジアや中国の仏教美術に多大の影響を与えた。この仏教美術も5世紀中期のエフタル族の侵入によって衰退し,8世紀にはアラブ,9世紀にはインドのヒンドゥー教徒の侵入があり,11世紀にガズナ朝の支配下に入って以後はイスラム文化が優勢となった。イスラム美術は建築が中心で,ムルターンにはムガル帝国以前の建築を代表する五つの廟墓があり,タッタには16~17世紀のモスク,廟墓がある。ムガル帝国の遺構は,バードシャーヒー・モスクをはじめラホール市内に城砦,宮殿,廟墓その他が多い。 →インド美術 執筆者:肥塚 隆
音楽 パキスタンの音楽は,三つに大別できる。第1は,インダス流域の平野部を中心とする古典音楽と民俗音楽である。イスラムの北インド侵入によって,インド的要素と西アジア・イスラム的要素を融合させた北インド古典音楽,すなわちヒンドゥスターニー音楽 の豊かな伝統は,第2次世界大戦後のインドから東・西パキスタンの分離,さらに東パキスタンが自立してバングラデシュとして分離して以来,パキスタンにおいてより純粋な形で継承されている。それはヒンドゥスターニーの古典音楽の著名なイスラム教徒の音楽家たちが,パキスタンに移住して活発な活動を開始したことと,パキスタン音楽の発展を担う行政をはじめとする支援の強化に起因している。したがって古典音楽はインドの古典音楽とほとんどすべてを共有している。民俗音楽は,それぞれの地域的変容を示すが,隣接するカシミール,パンジャーブ,ラージャスターンなどと共有する要素が多い。とくにヒンドゥー的要素を残した低いカーストに位置づけられる専業音楽家集団が数多く存在していて,旅芸人的に各地を巡っている。
これらの影響によるためか,平野部における土着の音楽は比較的素朴で,両面大太鼓のドール(あるいはダーダン)と縦笛スルナイ の組合せ,擦弦楽器サーランギー ,またハルモニウム や横笛バンスリー などが使用されている。民俗音楽の主流は無伴奏の歌唱で,麦刈りなどの労作歌をはじめ抒情的な歌が多い。
第2は,都市的な流行音楽である。カラチ,イスラマーバード,ラーワルピンディー,ペシャーワルなどの都市部においては,映画音楽の主題歌などの流行が著しく,レコード,カセットテープ,CDなどがこれらの現代的音楽の主流を占めている。
第3は,最も特色をもつパキスタン周辺地域の音楽である。ヒンドゥークシュおよびスライマーン山脈 の東側,アフガニスタンに隣接する北西部山岳地帯の音楽は,アフガニスタンにも分布するパシュトゥーン族(アフガン族)の音楽が中心である。さらに,アレクサンドロスの将兵の末裔という伝説をもつカーフィル系のカラーシュ族などの小部族社会の音楽も特異なものである。他地域ではすでに使用されない古い形態を残す弓形ハープのワッジ,胴のくびれた鼓シャパなどの楽器を今日も使用している。北部のカラコルム地域のかつての小王国フンザ,ギルギットやバルーチスターンなどでは,いずれも専業音楽家集団ベリチョー,モンなどが存在し,両面大太鼓ダーダン,ケトルドラム型の1対の片面太鼓ダマル ,スルナイをいずれも1組のセットで使用している。固有の歌では,チベット,モンゴルに広がる〈ケサル〉の叙事詩をはじめ,多くの恋愛歌などが無伴奏で歌われている。
インダス川支流のゴマール川より南,アラビア海までの地域,バルーチスターンの音楽は,インド,アフガニスタン,イラン音楽の諸特性を融合させた固有なバルーチの音楽が豊かである。 →アフガニスタン[音楽] →インド音楽 執筆者:藤井 知昭