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イタリア戦争 イタリアせんそう Italian Wars

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

イタリア戦争
イタリアせんそう
Italian Wars

1494~1559年おもに 16世紀前半,イタリア支配をめぐるフランスバロア家ドイツスペインハプスブルク家の対立を軸とした戦争。第1期 (1494~1516) はフランス王シャルル8世ナポリ王位継承を主張してイタリアに遠征したのが契機。

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百科事典マイペディアの解説

イタリア戦争【イタリアせんそう】

15世紀末から16世紀前半にかけてイタリア半島の覇権をめぐって戦われたバロア朝(仏)とハプスブルク家(独)の戦争。発端は1494年のシャルル8世によるイタリア侵入。
→関連項目アンリ[2世]カール[5世]フランソア[1世]マクシミリアン[1世]ルイ[12世]

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世界大百科事典 第2版の解説

イタリアせんそう【イタリア戦争】

15世紀末から16世紀半ばにかけて,政治的統一を欠くイタリアの支配権をめぐり,フランス王家とハプスブルク家との対立を軸として展開された大規模な国際紛争。発端は,ナポリ王国の継承権を主張するフランス国王シャルル8世のイタリア侵入(1494)である。しかし,これに対して,フランスの進出を嫌うベネチアなど北イタリア諸国,スペイン,神聖ローマ皇帝ローマ教皇ユリウス2世イギリスが同盟を結んだため,シャルルはイタリアからの退却を余儀なくされた。

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大辞林 第三版の解説

イタリアせんそう【イタリア戦争】

一六世紀前半、フランス王フランソワ一世とドイツ皇帝カール五世がイタリアの支配権をめぐり四度にわたって戦った戦争。ドイツの優位のうちに終結、イタリア-ルネサンスの衰微を招いた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

イタリア戦争
いたりあせんそう

1521年から44年まで、イタリアの覇権をめぐって、フランス国王フランソア1世とドイツ皇帝カール5世との間に戦われた4回の戦争。フランスのイタリア侵入は、15世紀末のシャルル8世のナポリ進攻に始まり、次の王ルイ12世ミラノ公国を目標に侵入を繰り返したが、初めはドイツ皇帝マクシミリアン1世の、ついで教皇ユリウス2世を中心とするイタリア国内の反フランス勢力の同盟の反撃により挫折(ざせつ)した。ルイの後を継いだフランソア1世も北イタリア進出を企て、ベネチアと結んで、1515年マリニャーノの戦いで同盟軍に決定的勝利を収め、ミラノ公国を手中に収めた。だが1519年、マクシミリアンの死後スペイン王カルロス1世がフランソア1世を破ってドイツ皇帝に選ばれる(カール5世)と、1521年ミラノ王国奪回の軍を進め、イタリア戦争の口火が切られた。戦争は、第1回21~26年、第2回26~29年、第3回36~38年、第4回42~44年と繰り返された。第1回はフランスの完敗に終わり、フランソア1世も捕らえられ、マドリード降伏条約でイタリアに対するフランスの権利はいっさい放棄させられた。だが、ドイツ勢力の強大化を恐れた教皇クレメンス7世が、イタリア国内の勢力糾合を始めたのをみて、フランソアはただちに降伏条約を破棄してこれと結び、第2回目の戦端を開いた。しかしドイツ軍の優勢は揺るがず、北イタリアから南下してローマに迫ったため、教皇は屈服してカールと和解し、独仏間にもカンブレーの和約が成立した。ローマ攻撃の際ドイツ軍の傭兵(ようへい)がローマ市内に侵入、略奪を行い(ローマの略奪Sacco di Rome)、ルネサンス文化の精華の多くを破壊する事態が起こった。フランソアはその後もイタリアに対する野心を放棄せず、トルコと結んで第3回、第4回と戦争を再開したが、いずれも成果を収めず、フランソア1世の死(1547)でイタリア戦争は終結をみた。[平城照介]

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世界大百科事典内のイタリア戦争の言及

【カール[5世]】より

…25年パビアPaviaの戦でフランソア1世を破ったのちも,フランスは,ハプスブルク勢力の強大化を恐れる教皇や北イタリア諸国,さらに東方のオスマン・トルコとも手を結んで,カールに対抗した。この数次にわたるイタリア戦争で,最初は皇帝が優位に立ち,29年夏のカンブレー和約でミラノ,ジェノバを得,翌年にはボローニャで教皇から帝冠を受けて,イタリアにおけるヘゲモニーを確立したかに見えた。しかし同じころオスマン・トルコのスレイマン1世がウィーンを脅かし,カールはドイツ諸侯の援助でこれを撃退したものの,北アフリカ沿岸にスペインがもっていた拠点を次々とオスマン・トルコに奪われた。…

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