日本大百科全書(ニッポニカ) 「アンジュー家」の意味・わかりやすい解説
アンジュー家
あんじゅーけ
10世紀以降フランスの西部アンジューAnjou地方を領有した伯家。アンジュー家は、ロアール川の下流に北から注ぐマイエンヌ、サルト両川の中流からロアール川の南岸にかけて威勢を誇った。一族の根城はアンジェにあった。11世紀前半、フルク・ネルラ(黒いフルクの意)の代に、東のトゥレーヌに勢力を広げ、12世紀初頭、北のメーヌ伯領も併合された。こうして12世紀のアンジュー家は、北にノルマンディー、南にポアトゥー、東にブロア、西にブルターニュの諸侯伯と相対峙(たいじ)する大勢力であった。フランス王家のカペー家はまだ弱体で、これら諸侯伯の合従連衡(がっしょうれんこう)が歴史を動かしていた時代である。
12世紀前半、アンジュー家の当面の敵は、ノルマンディー侯位・イングランド王位を僭称(せんしょう)するブロア家のエチエンヌ(イングランド王スティーブンStephen(1097?―1154、在位1135~1154))であった。アンジュー伯ジェフリーGeoffrey(ジョフロア。1113―1151)はウィリアム征服王の孫娘マティルダMatilda(マティルド。1102―1167)を妻とし、ノルマンディー侯位・イングランド王位に対する彼女の権利請求の戦いを支援した。1140年代の末に、ノルマンディーはジョフロアの統制を受け入れ、1154年、彼の息子アンリの代に、イングランド王位もアンジュー家のものとなった。ジョフロアのあだ名プランタジュネPlantagenêt(おそらく「エニシダを茂らせるもの」の意)をとって、プランタジネット朝アンジュー王家が誕生した。
12世紀の後半は、フランス王家であるカペー家との確執に明け暮れた。アンリ(イングランド王ヘンリー2世)はアキテーヌ女侯アリエノールを妻としたので、アンジュー家の領土はピレネー山脈の北麓(ほくろく)からノルマンディーまで広大に展開した。この領土に対するカペー家の王権政策は、ルイ7世、フィリップ2世の2代にわたって執拗(しつよう)に続けられ、ついに1204年、アンジュー家は大陸領土をすべて失う。のち1259年のパリ条約によって、ギュイエンヌ(アキテーヌの訛音(かおん)、ボルドー周辺地域)はアンジュー家領に修復されたが、実質的にはアンジュー家は、以後イングランド王家としての個性を固める方向に向かうのである。
なお、13世紀にはカペー家のルイ9世の弟シャルルが、14世紀にはバロア王家のジャン2世Jean Ⅱ(1319―1364、在位1350~1364)の息子ルイが、相次いで第二、第三のアンジュー家をたてている。
[堀越孝一 2022年12月12日]