翻訳|Irian Jaya
インドネシア東端,ニューギニア島の西半部を占める地域。地名の意味は〈大イリアン〉で,西イリアンともいう。行政上1州をなし,面積42万2000km2,人口222万(2000)。州都は北海岸東部のジャヤプラ。環太平洋造山帯の一部をなす大褶曲山脈が島の北側を貫いてスディルマン,ジャヤウィジャヤなどの諸山脈をおこし,最高峰ジャヤ山(5030m。旧名カルステンス山)をはじめ,3000~5000m級の高山を連ね,万年雪や氷河を頂くものもある。これと北海岸に沿う山地との間には西からベラウ湾,イリアン湾(旧名ヘールフィンク湾),マンベラモ川中流の広大な盆地が続き,中央低地をなす。一方,褶曲山脈の南には広大なディグル川流域の大平坦地が展開するが,低湿でまだ未居住地が多い。気候は海岸低地は高温多湿であるが,高地では気温は急に低下する。高地を除くと全島がほとんど密林に覆われ,いわゆる“緑の砂漠”をなす所が多い。生物はオーストラリア的特色が強く,極楽鳥,ヒクイドリなどは有名である。原住民はパプア人であるが,多くの部族に分かれ,海岸と山地では部族も生活も異なる。山地部族は原始的農耕でタロイモ,サツマイモなどを栽培し,なお伝統的風習を保つが,海岸の部族は焼畑耕作や漁業,さらに外来文化の影響を受けた生活を送る者も多い。また海岸ではパプア人とマレー人の混血や華僑の進出もみられる。
現在の島の東西の境界は列強の植民地争奪戦のなごりとして1885年,オランダ,ドイツ,イギリスの協定できめられた。第2次大戦後のインドネシア独立に際し,これを占有し続けようとするオランダとの間に紛争が続いたが,1962年国連の調停で和解が成立,最終的には69年夏の住民投票を経て正式にインドネシア領となった。島の東半のパプア・ニューギニア国に比べるとまだ開発が遅れているが,北海岸には小規模の農園もみられる。しかし地下資源は豊かなようで,特に西部のチェンドラワシ半島部の油田開発が注目されている。
執筆者:別技 篤彦
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ニューギニア島の西半分,インドネシア領のこと。1949年末インドネシア連邦共和国が独立したとき西イリアンはオランダ領にとどめられ,インドネシアの最大の外交課題となった。61年にはオランダとの武力紛争に発展し,62年施政権がいったん国連に移管され,63年インドネシアに再移管された。69年の住民投票により正式にインドネシア領とされた。73年イリアン・ジャヤと改称された。人種的・文化的に他のインドネシア地域よりも東隣のパプアニューギニアに近い。みずからを西パプアと称する合法,非合法の分離運動が行われている。豊富な天然資源とその乱開発のゆえに,また他のインドネシア地域からの移住民の増加によって社会的・政治的な不安定が続いている。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…人口約370万(1980)。東経141゜を境に西半部はインドネシアのイリアン・ジャヤ州,東半部はパプア・ニューギニア領である。島は恐竜のような形をし,西端の頭部,チェンドラワシ(ドベライ)半島から胴体部を経て東端の尾部,オーエン・スタンリー半島にいたる。…
※「イリアンジャヤ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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