翻訳|New Guinea
太平洋南西部、ほぼ東経130~151度、赤道から南緯11度の間にある島。別称イリアン島、パプア島、ヌー・ギニ島。北西―南東方向に長く、全長2384キロメートル、最大幅658キロメートル。面積78万9000平方キロメートルで日本の約2倍、グリーンランドに次ぐ世界第二の広さをもつ。行政上は東経141度線を境に西側はインドネシアのパプア州(西イリアン)(人口222万0934、2000)、東側はパプア・ニューギニア(人口519万0786、2000)である。北岸は太平洋、ビスマーク海、ソロモン海に面し、南岸はセラム海、アラフラ海、サンゴ海に臨む。これらニューギニア島周辺海域には大小多数の付属島が散在する。
構造的には、新生代第三紀のアルプス・ヒマラヤ、環太平洋の両造山運動によって骨子が形成された。島の中央に3000~5000メートルの高峰からなるマオケ山脈、ビスマーク山脈などの一連の脊梁(せきりょう)山脈が横たわる。最高峰は西イリアンのほぼ中心部にそびえるジャヤ山(5030メートル)で、山頂部は万年雪を頂く。脊梁山脈の南部はフライ川、ディグル川など多数の河川によって形成された広大な沖積平野が展開するが、その大半が低湿な密林地帯からなり、とくに西イリアンにおいて顕著である。また、脊梁山脈の北部にもマンベラモ川、セピク川、ラム川などの河川によって形成された沖積平野がある。さらに西端部のチェンドラワシ半島およびボンベライ半島のベラウ湾に面した地域にも同様な平野が発達している。海岸は、北岸では山地が海に迫り変化に富むのに対し、南岸ではマングローブの生い茂る単調なデルタ海岸からなる。
気候は、山岳地帯を除き一般的に気温の年較差は小さく、雨期・乾期が明瞭(めいりょう)でない熱帯雨林気候の性格を有する。しかし、モンスーンの影響は強く、5~10月の南東モンスーン期には脊梁山脈の南部に、また12~3月の北西モンスーン期には北部に、それぞれ多量の降雨をもたらす。年降水量は2000~3000ミリメートルであるが、脊梁山脈の位置関係などから南部よりも北部のほうが多いのが特色である。
生物は、アジア系の植物相とオーストラリア系の動物相を示す。これは、かつてこの島が時代を異にしてアジア、オーストラリアの両大陸と接触していたことを端的に物語るものである。植物はラン科を中心として推定1万2000種類以上が生育しているといわれる。一方、動物は有袋類のクスクスやキノボリカンガルー、鳥類のゴクラクチョウ、オウム、ヒクイドリなどが代表的である。ちなみに、サル類がいないこと、食用になる野生のブタが最大の哺乳類(ほにゅうるい)であることも特色である。
[上野福男]
ニューギニア島に初めてヨーロッパ人が来島したのは1511年のことで、ポルトガルの航海者アントニオ・デ・アブレウとフランシスコ・セランの2人によってである。その後スペインの探検家が相次いでこの地を訪れるようになり、17世紀に入るとオランダの探検隊による調査が活発になった。オランダに後れをとったイギリスとドイツも19世紀後期から積極的に調査を行うようになり、各国は競って調査地域の領有権を宣言。1855年、東経141度以西の西部ニューギニアはオランダの植民地となり、これに対して1884年には東部ニューギニアを脊梁山脈の分水嶺(ぶんすいれい)を境に北側はドイツが、南側はイギリスがそれぞれ領有するに至った。1906年にイギリス領ニューギニアはオーストラリアの直轄領となり、パプアと命名された。ドイツが第一次世界大戦に敗北した結果、1920年にはドイツ領ニューギニアは国際連盟の決議によってオーストラリアの委任統治領となった。第二次世界大戦の一時期、オランダ領ニューギニアとパプアの一部は旧日本軍に占領された。戦後は、オランダ領ニューギニアが1963年にインドネシアの一州として編入され、一方の東部ニューギニアも29年間のオーストラリアの信託統治を経て1975年にパプア・ニューギニアとして独立した。
[上野福男]
民族的にきわめて多様であるが、これはニューギニア島への住民の移住が何度かの時期にわたるためと、地勢の複雑さにより伝統的に住民が孤立した生活を送ってきたためと考えられる。
ニューギニア島への住民の移動は、大きく分けて二度の波があったと考えられている。第一の波は約5万年前であり、東南アジア地域から、ニューギニア島と、当時ニューギニア島と陸続きであったオーストラリア大陸に人々が移住した。第二の波は約5000年前であり、この移住ではやはり東南アジアから、ニューギニア海岸部とその東に広がる太平洋の島々に人々が移住したと考えられている。
住民の言語はオーストロネシア語族と、パプア諸語(非オーストロネシア語族)の二つに大別され、前者はニューギニア島の海岸地域や周辺の島嶼(とうしょ)部に、後者はその他の大部分の地域に分布する。前者は第二の移住による住民がもたらした言語であり、後者は第一の移住による住民の言語といわれるが、現在ではこの区分は厳密には適用できない。言語の区分は非常に複雑であり、ニューギニア島とその周辺の島々だけで1000以上の言語が存在しているといわれる。
文化様式は多様であるが、ある程度の共通な特徴が認められる。生業は焼畑農耕が中心であり、高地ではサツマイモ、低地ではタロイモ、ヤムイモ、バナナ、サゴヤシなどが中心の作物である。家畜としてブタが重要で、儀礼的交換に使用されることが多い。社会生活の単位が小さく、通常は50人から300人程度で村落をつくり、1000人を超える村落はほとんど存在しない。言語集団を超える中央集権的組織も伝統的には存在しなかった。また世襲による首長は一般的に存在せず、個人の資質により周囲から認められた人物(ビッグマンとよばれる)が政治的な権力を発揮する場合が多い。
[豊田由貴夫]
オーストラリアの北に横たわる世界第2の大島。赤道直下から南緯11°にかけての熱帯圏にあり,全長2400km,最大幅720kmで,総面積は77万1900km2。人口約370万(1980)。東経141°を境に西半部はインドネシアのイリアン・ジャヤ州,東半部はパプア・ニューギニア領である。島は恐竜のような形をし,西端の頭部,チェンドラワシ(ドベライ)半島から胴体部を経て東端の尾部,オーエン・スタンリー半島にいたる。この頭部から尾部にかけ,島の中央を環太平洋造山帯の一環をなす大山脈群が走り,延長2500kmに及ぶ大分水嶺を形成している。この山脈群は胴体部に入ると急に険しくなり,スディルマン山脈,ビズマーク山脈などを経て尾部のオーエン・スタンリー山脈へといたる。標高3000~5000mの山々が肩を並べ,なかには氷河をいただく山もある。とくにイリアン・ジャヤのスディルマン山脈では4880mを超える高峰が11も連なり,ニューギニア島の最高峰ジャヤ山(5039m)がひときわ高くそびえ立っている。島の北岸には比較的低い海岸山脈群が走り,ニューブリテン島北岸を経てブーゲンビル島に達する火山帯の一部を形成している。島の南部は大陸的性格をもった大平原地帯で,水深わずか70m未満のアラフラ海を挟んでオーストラリア大陸につながっているため,本質的にはこの大陸の最北端とみなされている。したがってニューギニア島の動物相はオーストラリアのそれと類似しており,単孔類,有袋類が見られるほか,きわめて多種の熱帯の動物が生息しており,とくにニューギニア島特産のゴクラクチョウは有名である。熱帯性気候で降雨量は多く,年間平均2000~3000mmの雨が降る。最も降雨量の多い所は,南東岸のパプア湾に面したキコリで5080mm。西半部のマンベラモ川,ディグル川,東半部のセピック川,ラム川,フライ川など大河も多く,その流域は密林に覆われ,低湿地の広大な三角州平野を蛇行しながらゆっくりと流れている。
ニューギニア島は1527年にポルトガル人メネゼスJorge de Menezesがヨーロッパ人として初めて上陸し,パプアと名づけた。続いて45年スペイン人オルティス・デ・レテスIñigo Ortiz de Retesは,その住民がアフリカのギニアの人々に似ていることから島をニューギニアと命名した。住民は主としてパプア人とメラネシア人であるが,その混血の歴史は長く,現在は両者を区別することが困難である。イリアン・ジャヤの州都ジャヤプラやパプア・ニューギニアの首都ポート・モレスビーなどの都市部を除けば,人々は伝統的な生活を続けている。島全体で1000を超える異なる言語が話されており,部族単位で独自の文化をつくりあげている。ポリネシアなどと異なり世襲的な首長制はなく,富を蓄積しそれを人々に分け与えることで自らの指導者としての地位を保つビッグ・マンBig Manと呼ばれる人々が,主導権を握っている。
執筆者:吉岡 政徳
ニューギニア島では数多くの部族が密林にはばまれて互いに孤立し,それぞれ独自の文化を築きあげてきた。ニューギニア島の部族美術は,祖先崇拝や精霊信仰などに基づいて発達したもので,一般に幻想性と躍動性を特徴とするが,部族によって多様な地方様式をみせている。北西部では,大きな頭をもち蹲踞(そんきよ)の姿勢を示す,この地方独特の小型の木彫祖霊像(〈コルワールkorwar〉と呼ぶ)がみられる。その前面に突き出た短いあごがカンボジアのクメール美術にみられる人像のあごに似ていることが指摘され,コルワールの西方起源説が唱えられたが,クメール美術特有の頭飾がみられないなどの理由で,現在では否定されている。北部のセンタニSentani湖付近の木彫には独特の渦巻文様がみられる。文様は家屋の装飾,太鼓,鉤,木皿などに施されるもので,中心がS字形ではじまり,規則正しい繰返しや厳密な相称形が用いられ,また凹刻部分が白く塗られる。このモティーフはベトナムのドンソン文化(ドンソン)に由来すると指摘されている。北東部のセピック川流域にはニューギニア島で最も多様な様式がみられる。すなわち,精霊の家の破風,仮面,神像,祭具,楽器,武具,土器などに精力的に彫刻や彩色が施され,素材,大きさ,モティーフ,装飾法,制作技術なども多岐にわたっている。このような造形は,数多くの文化様式が混合したものと考えられるが,なかでも,大きな円形の目,透し彫による曲線のモティーフ,レリーフや線刻によるらせん文,装飾面の規則的な分割など,アジア大陸の金属器時代の様式とされている特徴が顕著である。一方,多くの彫像にみられる強調された垂直線,目の上に突き出た横一文字の眉丘の表現など,さらに古い新石器時代アウストロネシア様式も認められる。そのほか,東部のヒュオン湾岸地方では繊細で鋭角的な刻文を特徴とする木彫が,島南端のトレス海峡地方ではウミガメの甲羅を取り付けた仮面や被(かぶ)り物がみられる。同島の部族美術は一般に,人物のほか,ワニと鳥を主要モティーフとする。
→メラネシア
執筆者:福本 繁樹
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…太平洋の大半を含むのでその範囲は広大であるが,陸地総面積は900万km2にたりず,しかもその86%をオーストラリア大陸だけで占めている。これに島々のうちで抜群に大きなニューギニアとニュージーランドとを加えると98%となる。残りの数千を数える島々の総面積はわずか18万km2にすぎない。…
…
[オセアニア]
オセアニアの島々は広い大洋に浮かぶ。オーストラリア大陸とニューギニアのような大きな島を除けば,多くは小島ばかりである。このような海洋的な環境と熱帯の光線とは,そこに住む人々とその美術に決定的な影響を及ぼした。…
※「ニューギニア島」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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