フランス中北部,パリを中心とする地方名,旧州名。その範囲は時代によって変動し,もっとも狭くとれば,セーヌ右岸のオアーズ川とマルヌ川にはさまれた台地の南半分にすぎない。1519年に定められた王の地方総督管区gouvernementをもって旧州の範囲とする場合には,東からシャンパーニュ,南西からオルレアネの領域が深く食い込んでくる。他の旧州のように封建領主が封土として長年支配していた場合と異なり,王の直轄領が散在し,諸侯領が錯綜していたので,その範囲はあいまいである。一般には1961年に設定されたパリ地域を構成する8県とオアーズ県,エーヌ県およびその周辺諸県の一部と考えてよい。したがってこの広くとったイル・ド・フランスには,シャンパーニュに属するブリBrie地方,オルレアネに属するボースBeauce地方が含まれている(パリ地域の8県のみでは,面積1万2000km2,人口1153万(1999)である)。
国家としてのフランスは987年にユーグ・カペーがフランス王に即位した時にはじまるとされるが,当時の王領はパリ周辺に散在するだけで,パリが首都としての地位を確立するのは12世紀である。イル・ド・フランスはこのカペー朝によるフランスの成長を支えた初期の王領であり,その名称は〈フランスの島〉を意味する。中世においては,封建諸侯領に囲まれた文字どおり島のごとき存在であったが,その後フランスの領域は拡大し,この地方名は,いわばフランスの中央部を意味する名称となった。王領の中心であり続けたために,この地方にはベルサイユ,フォンテンブロー,コンピエーニュ,サン・ジェルマン・アン・レーなど,王室の城館や狩猟のための森がみられ,また大貴族や廷臣達の城館も,アネ,エクアン,シャン,シャンティイー,ダンピエール,ボー,メゾン・ラフィット,ランブイエなどに点在し,博物館や行楽地となっているものが多い。その後,パリ社交界を形成する上流企業家,芸術家,政治家が別荘や行楽保養地をパリ周辺に求めるだけでなく,中流階級が農家を買って別荘に改造するなど,パリの第一の保養地となっている。バルビゾンは,19世紀にルソーやミレーなどの画家が好んで通った村であり,オーベールはゴッホの故地である。
教会が多いこともイル・ド・フランスの特徴である。とりわけゴシック建築は12世紀にこの地方にはじまった様式で,シャルトル,サンリス,ノアイヨンなどの聖堂が各地に建立されている。そのほか,城館としてのルーブル宮やゴシック建築のノートル・ダム聖堂など多様な歴史的建築物がパリに集中しており,他の文化財と共に多くの観光客を引きつけている。このパリへの富の集中とその周辺への拡大は,王権と中央集権国家の成長,植民帝国の発展を通じて,ほぼ常に首都であり続けたことにもよるが,同時にイル・ド・フランスの豊かな農村がこれを支えたことも無視できない。またこの地方は中世以来,イギリスからイタリアを経てオリエントに向かう通商路と,中央ヨーロッパからイベリアを経てアメリカに向かう通商路との十字路にあたり,地球上の陸半球のほぼ中央部を占めるという位置にも恵まれていた。
この地方の主要な特徴は,なによりもさえぎるものなく広く開けた平坦な畑と,点在する平地林である。この,景観が開けていると感じる第1の理由は,地質時代の第三紀前半に幾層にも堆積した石灰岩が,標高200m前後のほぼ水平な広い台地をつくっているためで,その石灰岩はシャルトルの大聖堂などの建築材料ともなっている。台地は中央に低く周囲に高く,気づかぬ程度ではあるが盆のようにゆったりたわんでいる。特にパリから東に向かうと,知らず知らずに100~200mの高みに達し,急崖(コートcôte)の上に出る。崖下のひとつ古い地層も外に向かってゆっくり高度を上げ,次の急崖を迎える。ケスタ地形のこの急崖が,戦車時代のパリの防衛線であった。
イル・ド・フランスの東部,ブリの台地は,その一番内側にある〈イル・ド・フランスの急崖〉で切られてシャンパーニュ地方に臨んでいる。台地の北から西では,石灰岩が浸食されてモンモランシーやボーモンなどの残丘(ビュットbutte)とよばれる小丘をつくっているが,ベクサン,ソアソネなどの台地がみられる。最大の台地はセーヌ川の南のボースで,ロアール川までさえぎるものなく広々としている。台地面はしばしば肥沃なローム層に覆われ,高い農業生産力を生んでいるが,ローム層のない部分では,地下水位が低くて土壌も貧しく,平地林や草地となって土地利用も粗放である。
広々と感じる第2の理由は,耕地が畦畔林(ボカージュbocage)に囲まれておらず,開放耕地となっていること,しかも耕地整理がすすんで1筆の耕地が平均2haをこえ,時に10haにも達することである。そもそもフランスにおける耕地整理は1940年代にこの地方から始まったのであり,その背景には,農場の急速な大規模化・企業化があった。1927-75年の間にパリ地域8県の農場数は5分の1に減少し,平均面積は50haをこえている。過半の農場は,自己所有地に加えて複数の地主から土地を借り集めた,いわゆる自小作である。機械化もすすみ,農業機械は大規模な経営のために稼働率がよく,短期間で償却され,周辺地域に中古として売られるため,これらの大農場には常時,最新鋭の機械が導入されている。農場は協同組合をつくって製粉・製糖などの食品加工業に進出し,食品工業として成長しつつある。近郊の駅周辺には組合の巨大な穀物サイロを目にすることができるが,穀物の3分の1は,EC(現,EU)の発展によって拡大されたドイツなど国外市場に送られている。
耕地の8割は穀物が作られ,その半分が小麦であるが,1950年ころよりボースなど南部を中心にトウモロコシの作付けが急増し,ミレーの絵にみるような麦秋の風景は一変した。夏はむしろ,トウモロコシの緑と麦畑の黄色とが,いわばモザイク状の平野をつくっている。ブリ地方南部やソアソネ地方ではこの緑がテンサイにかわっており,製糖の原料のほか,家畜の飼料にもなっている。自給飼料を基礎とする混合農業は,一方では畜産部門を縮小して小麦と飼料穀物,飼料用テンサイを専門に作る農場を生み,他方では耕作をやめて舎飼いで畜産を行う酪農や肥育牧畜業に分化しつつある。ベクサン地方やブリ地方中央部は食肉生産を目的とする肥育牧畜業に専業化しているが,酪農もブリ地方東部を中心に専業化をすすめており,ブリ・チーズやクーロミエ・チーズなどが有名である。
台地は,南東から流下するセーヌ川,これとパリの上流で北東から合流するマルヌ川,その下流で北から合流するオアーズ川などに刻まれている。河川はケスタの急崖を切って門(ポルトporte)とよばれる交通路を開き,蛇行して広い河谷をつくって,豊かな沖積地を提供している。特にパリ西郊からオアーズ川河谷にかけて,小規模な農場がさまざまな野菜類を集約的に栽培し,南郊では花がよく作られている。また台地への南斜面では各種の果樹がみられるが,過半を占める梨が有名である。これら農産物は典型的な近郊農業としてパリの市場に出荷されている。温室の普及など集約化もすすめられているが,他方ではパリの都市化の波が押しよせ,地価の上昇のため採算がとれず,離農・移転する農場も多い。台地と河谷を問わず,農場は従業者の高齢化と後継者不足に悩まされており,農村の事実上の消滅をみている地域もあらわれている。
イル・ド・フランスでは,とくに第2次世界大戦後,パリの都市成長にともなって住宅や工場,公共施設による農地の蚕食がいちじるしい。しかし農業部門の急速な企業化が同時に進行したために,農村集落で農業を引き続いて経営する農家が極端に減少し,日本で見られるような兼業農家はほとんど成立しなかった。景観的に農村のたたずまいではあっても,伝統的な家屋の内部は補修され,パリ市民の別荘となる場合もしばしば見られ,法律上の住所を村に移し,パリで働いて週末を村で過ごす人々が増加している。したがって農民は少数派となり,村長以下村会議員が全員パリで働いている村さえ現れる。このような農村では,登録上の村民はいるが,商業活動は低調で,学校その他の公共施設も維持できなくなっている。ときには1村に1戸しか農場がない場合さえ現れ,商店やカフェは閉鎖されてしまう。また大衆交通機関も採算点に達せず,バス路線が整理されている。
パリにより近い部分ではその農村景観さえも破壊して,都市的な大建物群が突如現れる。デファンス,サン・ドニ,ボビニー,クレテイルはパリ市街に連なった市街地再開発地区と考えてよく,また事務所や各種文化施設を立地させ,都心機能を分担させ,一種の副都心化をはかっている。より郊外には,パルリII,サルセル・ロシェール,モントロー・シュルビルなどの大住宅団地が古い集落に隣接して建設されたが,そのいくつかは過密な土地利用,憩いの空間と共同利用設備の不足,長距離通勤などのため住民の評価が低い。1966年来はじめられた新都市計画ではセルジー・ポントアーズ,エブリー,サン・カンタン・アニブリーヌ,マルヌ・ラ・バレ,ムラン・セナールの5都市が建設されつつある。最終計画人口は200万人近く,事務所,工場,倉庫などの建設が行われ,パリからなかば独立した都市となることが考えられている。それだけに,行政機関,大学や研究所,劇場や各種の保養施設,商工業施設など都市の複合した機能をすべて含むように建設されつつある。現在は計画の半ばも完成されていないが,パリに通勤する人々も,多い所で約3分の1,少ない都市では5分の1以下である。これはパリ地域を多核心都市群圏につくり変えようとする試みの現れである。またこれらの都市計画で採用されているデザインは,そのユニークさにおいて一見の価値がある。
執筆者:田辺 裕
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
フランスのパリ盆地中央部の地方、旧州名。北はピカルディー、東はシャンパーニュ、南はオルレアネ、西はノルマンディーの各地方に接する。本来、セーヌ川中流とその支流オアーズ川、エーヌ川、マルヌ川などの水流に囲まれたフランク人居住地をさしていた。「フランスの島」を意味し、フランス王国発祥の地である。
フランクの豪族ロベール・ル・フォールRobert le Fort(?―866)の一族は、この地方に侵攻したノルマン人を撃退し、ここをロベール家の家領とした。このロベール家からフランス最初の王朝カペー王朝が生まれた。この地方は早くから三圃(さんぽ)制農法が行われ、豊かな収穫が約束された沖積層地帯であり、セーヌ川水系の諸河川は通商の要路として活用された。このような地の利はフランス王権発展の基となった。王権の発展に応じて、王家の城館や大聖堂がこの地方に集中する。ルイ9世時代のサン・ジェルマン・アン・レーの居城や16世紀フランス・ルネサンスの保護者フランソア1世の築いたフォンテンブロー宮、そして歴代国王の墓所となったサン・ドニ大聖堂などがそれである。政治と文化、富が首都に集中し始める17世紀には、パリ在住の貴族や高級官僚、そして富裕市民たちは、近郊に別荘を築くようになる。ルイ14世のねたみを買った財政総監フーケのボーの城館、文芸サロンで知られるランブイエ候夫人の城館などである。そして、もっとも壮大な建造物と庭園がイル・ド・フランス西部の丘陵に建設される。それがルイ14世の築いたベルサイユ宮殿である。宮殿の建設は、村々を取り壊し谷を埋め、台地を広げ、運河を掘るという、この地の自然を改造するほどの大事業であった。
このようにイル・ド・フランスはフランス王権の歩みとともに変容した。この王権を打倒したフランス革命は地方行政制度を改革した。イル・ド・フランスという旧州も1790年をもって消滅した。現在のイル・ド・フランスは行政地域名として用いられ、パリとオー・ド・セーヌ、バル・ド・マルヌ、セーヌ・サン・ドニ、イブリーヌ、セーヌ・エ・マルヌ、バル・ドアーズ、エソンヌの8県を含む。パリを中心とする同国の中心部で、多くの工業都市や住宅都市を含み、大都市パリへ農産物や日用品を供給している。面積1万2012平方キロメートル、人口1095万2011(1999)。
[千葉治男]
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出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
…行政上は1市1県で,面積105km2,人口213万(1994)。フランス北部,イギリス海峡に注ぐセーヌ川の河口から直線距離で約170km,イル・ド・フランス地方のパリ盆地の中央,セーヌ川とマルヌ川の合流点の西に広がる。パリ盆地は東西400km,南北350kmで,セーヌ川とその支流が蛇行しながら流れ,古くから水上交通路として利用されてきた。…
※「イルドフランス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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