インドネシア独立運動(読み)インドネシアどくりつうんどう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「インドネシア独立運動」の意味・わかりやすい解説

インドネシア独立運動
インドネシアどくりつうんどう

インドネシアの独立を目指した民族運動。運動が起ったのはオランダの植民開始後 300年あまりを経た 1910年代であった。 1926年にはインドネシア共産党蜂起があったがオランダに弾圧され,インドネシアのナショナリズムの主要潮流である近代イスラム主義,マルクス主義,西欧化されたインテリ・グループなどを統合しうる指導者のいないまま,42年には南進する日本軍の占領下におかれた。日本軍政下の独立運動はスカルノ,M.ハッタの率いる民族運動と S.シャフリルらの指導する地下抵抗運動の2面で展開された。戦局の悪化は日本によるインドネシア独立容認宣言をもたらし,「独立準備委員会」が組織されたが,独立を実現しないうちに日本は降伏した。スカルノらは慎重論を唱えたが高揚する民族独立の機運に押され,45年8月 17日インドネシアの独立を宣言した。しかしこれはオランダの承認するところとならず,以後4年にわたる独立闘争に突入した。共和国は植民地復活を目指すオランダとだけでなく,連邦国家主義者や政権奪取を目指す共産主義者など国内の敵とも戦わなければならなかった。オランダは 47,48年の2度にわたり大規模な軍事行動に訴えたが,国連介入によって 49年 11月ハーグ協定が成立し,インドネシア連邦共和国が誕生した。しかしスカルノらは,連邦制はオランダの「分割して支配する方式」の産物であるとして 50年8月には一方的に連邦制を廃し,インドネシアを単一共和国に生れ変らせることに成功,独立運動に一応の終止符をうった。しかし西ニューギニア (西イリアン) は依然としてオランダの主権下におかれたため,旧オランダ領東インドの完全独立という宿願はそれを併合した 69年7月ようやく達成された。 (→パンチャ・シラ , リンガジャチ協定 , レンビル協定 )  

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「インドネシア独立運動」の解説

インドネシア独立運動(インドネシアどくりつうんどう)

カルティニら個人的な活動の段階から保守的なブディ・ウトモにより組織的運動が始まり,サレカット・イスラームによって大衆のエネルギーが奔出する最初の高揚をみた。1910年代末に運動が激化するなかで,議会の獲得,資本主義との戦い,社会主義が主張された。インドネシア共産党が大衆運動を継承し,26年の武装蜂起は既存の民族の枠を越える最初の全国的蜂起となった。その敗北共産党が壊滅すると,インドネシア国民党がインドネシア民族主義と対オランダ非協調路線を掲げて運動の主導権を握った。しかし,30年代前半には厳しい弾圧の前に非協調路線による大衆運動の諸政党は勢力を失い,協調路線の運動も自治への展望すら開けないまま第二次世界大戦を迎えた。

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