カルティニ(その他表記)Raden Ajeng Kartini

改訂新版 世界大百科事典 「カルティニ」の意味・わかりやすい解説

カルティニ
Raden Ajeng Kartini
生没年:1879-1904

インドネシアの女性で,民族主義運動および女性解放運動の先駆者。中部ジャワのジャパラ地方の領主ソスロニングラットの娘で,祖父が開明的な人物だったため,幼時から家庭教師によりオランダ語教育を受けた。またオランダ人小学校に入学を許され,12歳で卒業した後は家庭内に引きこもったが,多くのオランダ書を読み,同胞ジャワ人,とくに女性の民族的自覚向上につとめた。2人の妹もカルティニに協力し,女子教育普及につくした。1903年,カルティニはレンバン地方の領主ジョヨハディニングラットの後妻に迎えられ,翌年9月13日に男子を出産したが,4日後に産褥(さんじよく)熱のため25歳の生涯を閉じた。生前に彼女がオランダ人の友人に送った数十通の手紙は,1911年に《光は闇を越えて》として出版され,オランダ,インドネシアの知識人に大きな影響を与えた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「カルティニ」の意味・わかりやすい解説

カルティニ
かるてぃに
Raden Ajeng Kartini
(1878―1904)

インドネシアの女性教育運動の創始者。ジャワ島中部の豪族ブパティ)の娘。一般人子弟のための学校がイスラム私塾以外にはなかった19世紀末に、特権階級出身のため入学を許されたヨーロッパ人小学校で民族差別を体験し、成長していくなかで、自らの民族、ことに女性の地位向上の必要を痛感し、女性啓蒙(けいもう)の実践活動に入ろうとした。結婚して男子出産直後にこの世を去った彼女の意図は、1913年に始まる「カルティニ学校」運動(インドネシアに女学校をつくる運動)によって実現された。彼女がオランダ人知己たちに送った手紙をまとめた書簡集『暗闇(くらやみ)より光明へ』(1911)は、同胞への愛に満ち、覚醒(かくせい)を呼びかけたその内容により、オランダのインドネシア人留学生団体・東インド協会(1923年インドネシア協会(プルヒンプナン・インドネシア)と改称)をはじめとして民族運動に大きな影響を与えた。

[森 弘之]

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「カルティニ」の解説

カルティニ
Raden Ajeng Kartini

1879~1904

インドネシアにおける民族運動と女性運動の先駆者。ジャワ貴族の家に生まれ,オランダ語教育により「近代的自我」にめざめた。産褥(さんじょく)熱のため早世。オランダの友人に宛てた書簡集『闇を越えて光へ』(1911年)により広く知られる。

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百科事典マイペディア 「カルティニ」の意味・わかりやすい解説

カルティニ

インドネシアの民族主義運動家,女性解放運動家。裕福な家の娘に生まれ,オランダ語による教育を受ける。民族的自覚の向上,女子教育の普及に貢献。1904年,出産後の産褥(さんじょく)熱のため25歳で死去。オランダ人の友人に送った手紙をまとめた《光は闇を越えて》(1911年)の著作がある。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「カルティニ」の意味・わかりやすい解説

カルティニ
Kartini, Raden Ajeng

[生]1879
[没]1904
ジャワ上流貴族の娘でジャワ人の民族意識の高揚や教育の普及に貢献。西欧的教育を受け,書簡集『闇から光へ』 Door duisternis tot lichtを著わした。

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