ウィルヘルム(読み)うぃるへるむ(その他表記)Wilhelm Ⅱ

デジタル大辞泉 「ウィルヘルム」の意味・読み・例文・類語

ウィルヘルム【Wilhelm】[ドイツ皇帝]

(1世)[1797~1888]プロイセン王。在位1861~1888。ビスマルク宰相として軍備拡張普墺ふおう戦争、さらに普仏戦争にも勝ってドイツを統一し、1871年、初代ドイツ皇帝となった。
(2世)[1859~1941]ドイツ皇帝。在位1888~1918。の孫。帝国主義的政策を掲げて海外に進出第一次大戦に突入したが敗戦退位し、オランダ亡命。日本ではカイゼル(皇帝)とよぶ。

ウィルヘルム【Wilhelm】[バイエルン公]

(4世)[1447~1508]バイエルン公。在位1463~1508(1463~1467は兄ジギスムントと共同統治)。所領の細分化を防ぐため分割相続の禁止を布告した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ウィルヘルム」の意味・わかりやすい解説

ウィルヘルム(2世)
うぃるへるむ
Wilhelm Ⅱ
(1859―1941)

ドイツ皇帝兼プロイセン王(在位1888~1918)。フリードリヒ3世の長子。通称カイザー。父王がわずか99日の治世で没したのち、29歳で即位。明敏な頭脳、巧みな話術など素質に恵まれていたが、性格が不安定なうえ、保守的思想の持ち主であった。即位後まもなく宰相ビスマルクと社会民主党対策、対ロシア外交などをめぐって対立、1890年3月彼を罷免した。親政の開始とともに、社会主義者鎮圧法を撤廃、社会政策の拡充を図るなど社会改良政策を進めた(「新航路」の時代)が、それにもかかわらず社会民主党の進出が止まらないのを憤り、94年ふたたび弾圧政策に戻った。一方、彼は「ドイツの未来は海上にあり」として、積極的な対外膨張政策、いわゆる「世界政策」を展開した。97年中国でドイツ人宣教師が殺されると膠州(こうしゅう)湾を占領、山東省をドイツの勢力圏に組み入れ、またバルカンや西アジアへの進出に熱中して、自らトルコを訪れ、バグダード鉄道の敷設権獲得に力を貸した。また、世界政策の道具として大艦隊の建造に着手、国民の間に海軍や植民地に対する熱狂を呼び覚ました。しかし、対外膨張は他の列強との間に摩擦を増大させ、1904年以降イギリスはフランスに接近し、これに07年ロシアも参加して三国協商が成立した。深まる孤立から脱出するため、ドイツは05年と11年の二度にわたってモロッコ事件を引き起こしたが、英仏の結束は逆に固まった。彼は独裁者を気どって芝居がかった行動をとることが多かったが、その軽率な判断がしばしば逆効果を生んだ。08年、英紙記者に、英独関係改善を願ってした彼の発言が、かえって両国の関係を悪化させた「デーリー・テレグラフ事件」もその一例である。以来彼は自信を失い、政治の実権は彼の手を離れ、第一次世界大戦中に軍部の独裁が成立した。18年11月、敗戦に続き革命が起こると、彼は退位してオランダに亡命、以後余生をそこで送り41年6月4日没した。

[木谷 勤]


ウィルヘルム(1世)
うぃるへるむ
Wilhelm Ⅰ
(1797―1888)

プロイセン王(在位1861~88)、ドイツ皇帝(在位1871~88)。プロイセン王フリードリヒ・ウィルヘルム3世の次子。保守的で、軍人気質の持ち主。1848年の三月革命で革命の鎮圧に活躍、そのため一時ロンドンに亡命せざるをえなかった。58年病気の兄王フリードリヒ・ウィルヘルム4世の摂政(せっしょう)となり、61年即位。プロイセン陸軍の大増強を目ざし軍制改革案を議会に上程、反対する議会との間に憲法闘争を引き起こした。このため王は窮地に陥ったが、62年ビスマルクを首相に登用、議会を抑えて軍備増強を強行した。71年普仏戦争(プロイセン・フランス戦争)に勝って、プロイセンを中心にドイツ帝国が成立、1月18日ベルサイユ宮殿での戴冠(たいかん)式でウィルヘルムはドイツ皇帝になった。以後、91歳で没するまでビスマルクにすべてを任せ、78年にアナキストに狙撃(そげき)される事件などがあったが、政治の表面にはほとんどたたなかった。

[木谷 勤]


ウイルヘルム(1世)
ういるへるむ

ウィルヘルム(1世)


ウイルヘルム(2世)
ういるへるむ

ウィルヘルム(2世)

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百科事典マイペディア 「ウィルヘルム」の意味・わかりやすい解説

ウィルヘルム[2世]【ウィルヘルム】

プロイセン国王・ドイツ皇帝(在位1888年―1918年)。ウィルヘルム1世の孫。青少年時代自由主義的な父帝フリードリヒ3世と対立してビスマルク崇拝。しかし即位後はビスマルクと対立して退官させ,以後は自らの指導下に新航路政策を展開。積極的にドイツの対外進出を図ったが,外交的手腕に乏しく,いたずらに英・仏・露と対立してドイツの孤立化を招いた。第1次大戦に敗れ,革命で退位,オランダに亡命して没。
→関連項目黄禍論ホーエンローエモロッコ事件

ウィルヘルム[1世]【ウィルヘルム】

プロイセン国王(在位1861年―1888年),ドイツ皇帝(在位1871年―1888年)。フリードリヒ・ウィルヘルム3世の弟。政治面ビスマルク,軍事面でローンモルトケらの人材を登用,ドイツ統一を実現してドイツ帝国初代皇帝となる。武人的資質と王権神授思想の持主だった。
→関連項目ウィルヘルム[2世]エムス電報事件

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ウィルヘルム」の意味・わかりやすい解説

ウィルヘルム
Wilhelm zu Wied

[生]1876.3.26. ノイウィート
[没]1945.4.18. プレデアル
アルバニア大公 (在位 1914) 。ドイツの出身。 1913年ロンドン大使会談においてオーストリア=ハンガリー帝国の提案でアルバニア大公に指名された。 14年3月7日ドゥルラスに到着,トルハン・パシャを首班とする政府を組織。しかし国内では封建領主が外国勢力の支持のもとに割拠し,政府の支配はドゥルラスとその近郊に限定された。農民反乱の拡大,エサド・パシャによるウィルヘルム反対運動などが起り,9月4日国外に逃亡。

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