旺文社世界史事典 三訂版 「ウィーン包囲」の解説
ウィーン包囲
ウィーンほうい
【第1次】1529 ハンガリーの領有に関する確執がその原因。モハーチの戦い(1526)後,ハンガリーはトランシルヴァニア出身の大貴族サポイヤ=ヤーノシュを王に戴くかたちでオスマン帝国に併合された。これに対して神聖ローマ帝国皇帝カール5世がフェルディナントをハンガリー王に推戴し,ハンガリーで2人が王位を主張する事態が生じた。オスマン軍の引き揚げ後,フェルディナントがサポイヤに闘いを挑み,敗れたサポイヤはポーランドに逃げ,そこからオスマン帝国に支援を要請した。要請を受けたオスマン皇帝スレイマン1世は,ブダを奪回しサポイヤに王冠を授けると,フェルディナントが待ち受けるハプスブルク家の牙城ウィーンに迫った。オスマン軍は,9月末から果敢に攻撃するも,寒さのため10月半ばに整然と撤退した。この包囲戦の目的は,ヨーロッパにおけるカール5世の優位に終止符を打ち,フランス王を支援する目的があった。ハプスブルク家は,とりあえず「ヨーロッパ=キリスト教世界の防衛」という使命を果たしたが,一方でウィーン包囲は,ヨーロッパで長らく喧伝されていた「トルコの脅威」を現実のものとした。
【第2次】1683 オスマン帝国でキョプリュリュ家の軍人が大宰相を歴任して最大の帝国領を実現した時期(キョプリュリュ時代,1654〜91),同家の娘婿で大宰相のカラ=ムスタファ=パシャが功名心から7月に15万の兵を送って包囲戦を強行。わずか1万人余りの兵力が守備するウィーンを,9月になってようやくヤン=ソビェスキ率いるポーランド軍とロートリンゲン公カール率いる皇帝軍が到着して解放。包囲戦に失敗したカラ=ムスタファ=パシャは,その責任を問われて処刑された。第2次包囲戦の失敗は,オスマン帝国とハプスブルク家の力関係の逆転を浮かび上がらせただけでなく,その後オーストリア・ポーランド・ヴェネツィア,さらに新興のロシアを加えた諸国とオスマン帝国との5年におよぶ戦争を引き起こした。この戦争に敗北したオスマン帝国は,1699年のカルロヴィッツ条約でハンガリー・トランシルヴァニアを失い,ヨーロッパからの後退過程に入ることになった。
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