出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
パリに定住し制作した外国人芸術家の集団を指し,各時代にこうした集団が存在したが,この用語が用いられるのは,(1)13世紀,聖ルイ王の保護下に手写本彩飾画を制作した画派,(2)第1次大戦前後から第2次大戦前までの間の画家たち,そして(3)第2次大戦後の主として抽象的傾向の外国人画家たちに関してである。しかし,通常は,主として二つの大戦間のパリ,それもモンマルトル,モンパルナスで制作した外国人画家たちに用いられる。しかし,たとえばキュビスムにおけるピカソやフアン・グリス,あるいはシュルレアリスムのダリたちは,いずれも外国人画家であり,エコール・ド・パリに属するが,これらの明確な運動,グループに属したものを除外する場合が多い。主要な芸術家を列記すれば,モディリアニ(イタリア),スーティン(リトアニア),シャガール(ロシア),フジタ(日本),パスキン(ブルガリア),キスリング(ポーランド),M.キコイン(ロシア),P.クレメーニュ(ポーランド)たちである。共通することは,彼らの大半がモンパルナスに住む芸術家であり,しかも単に祖国を離れてパリで制作したのではなく,なかば定住しており,多くはユダヤ系であったということ。また,フォービスム,キュビスム,シュルレアリスムなどの前衛的な運動に直接・間接に触発されながら,それら特定のグループに属さず,それぞれに個性的な画風を守ったということである。第1次大戦前および戦間期のパリは,〈ベル・エポック〉の名でよばれるように,若く貧しい芸術家たちにとって住みやすく創造的な環境であった。事実,この時期のパリでは,毎年定期的に開催される団体展(サロン)が20以上,個人画廊は130店あり,当時の世界のどの都市をもはるかにしのいでいる。1900-51年の間に,これらのサロン,画廊に出品した芸術家の総数は約6万人,そのほぼ3分の1が外国人だという。〈ベル・エポック〉は,他方で,二つの大戦の悲劇の予感と体験のなかですごされた時代である。前述の画家たちの多くが,いわば国籍喪失者であっただけに,その不安は倍加したと思われる。こうして,〈ベル・エポック〉の甘美な雰囲気と不安の二重写しとして,彼らの作風が成立する。相互の影響はあったが,共通の主張はもたず,むしろ,それぞれの祖国,民族の伝統性に彼らの作風のある根拠を求めている。しかし,そこには共通する情緒を認めることは困難ではなく,今日から見れば,きわめてフランス的な表現主義の傾向であったと考えることができよう。
執筆者:中山 公男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…乳白色の絵肌に,面相筆による墨色で輪郭線をとり,数多くの裸婦や猫,あるいは室内風景を描き,その細密描法によって一躍名をあげ,21年には同展審査員となった。 数々の奇行と言動も加わって,エコール・ド・パリの寵児となるが,この時期にひとつの個性的な様式を確立させた藤田の芸術的価値に注目すべきである。西欧絵画の移植過程においてのみ考察されている近代日本の洋画史のなかで,独自の画風を確立させたことのみならず,後年,日本画壇と決別する際に残した〈国際的水準に達することを祈る〉という言葉に,藤田の,日本の美術界の閉鎖性を打破しようと努力した開拓者としての一面をみることができる。…
※「エコールドパリ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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