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エジプト遠征 エジプトえんせいCampagne d'Égypte; Expedition to Egypt

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

エジプト遠征
エジプトえんせい
Campagne d'Égypte; Expedition to Egypt

フランス革命戦争中の 1798~99年イギリスのインド支配に打撃を与えるため実施されたナポレオンボナパルト (ナポレオン1世 ) によるエジプトへの遠征。革命フランスの総裁政府は,ナポレオンの計画したエジプト遠征を認めて,東方への進出とイギリスのインド・ルートの閉鎖をはかった。ナポレオンは遠征軍を率いて 98年7月アレクサンドリアに上陸し,ピラミッドの戦闘でマムルーク軍を破り,カイロを占領した。しかし,8月1日,アブキール湾におけるナイルの戦いで H.ネルソン提督の率いるイギリス艦隊に全滅に近い大敗を喫したため,遠征軍は本国との連絡を断たれ,99年8月,ナポレオンはエジプトを脱出してかろうじて本国に帰還した。エジプト遠征は失敗に終ったが,遠征に際してナポレオンは百数十名の学者や画家を従軍させ,エジプトの古代文化や地理に関する調査研究を行わせて,その結果を『エジプト誌』にまとめさせ,これがエジプト学の出発点となった。ロゼッタ石が発見されたのはこの遠征のときである。

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百科事典マイペディアの解説

エジプト遠征【エジプトえんせい】

フランス革命中の1798年,東地中海とインドにおける英国の勢力に対抗し,ナポレオンが総司令官として行った遠征。マルタ占領後アレクサンドリアに上陸,カイロに至ったが,アブキールの戦で英国のネルソンに敗れた。
→関連項目アズハル大学アブキール湾の戦エジプト(地域)エジプト学カイロナポレオン戦争

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

エジプト遠征
えじぷとえんせい

1798年5月19日、南フランスを出帆したナポレオンの軍事行動をさす。遠征の動機は、ナポレオン個人の東方に対する夢と野望もあったが、エジプトを制することにより、インドに特殊利害をもつイギリスをからめ手から牽制(けんせい)する点にあった。遠征軍は33隻の艦隊、200艘(そう)余の輸送船団からなり、3万余の陸兵と167名の学者、技術家を乗せ、地中海を東に進んだ。6月10日マルタ島に上陸。同島を占領後、7月初めアレクサンドリアに陸揚げし、首都カイロに向け進軍。現地のマムルーク騎兵の激しい抵抗を受けたが、火砲の威力で打破し、7月21日ナイル河畔の都カイロに入城。ただちに軍事政権を樹立した。ナポレオンは現地人に宥和(ゆうわ)政策を約し、イスラム教を公認し、トルコの圧制を排して人民の解放と近代化を推進した。が、入城後まもなくアブキール湾でイギリスのネルソン艦隊にフランス海軍が撃滅されたため、本国との連絡を失い、孤立を余儀なくされた。翌99年2月、ナポレオンはシリア遠征の途につく。目ざすは南下を計画するトルコの要衝を突く点にあった。ナポレオン軍は水の欠乏とペストに苦しみつつ、ハイファに進み、アルクを攻撃してならず、むなしくエジプトに帰還した。勢いに乗ったトルコ軍は、7月アブキール湾に上陸したが、フランス軍により撃滅された。99年8月末、ナポレオンは単独でエジプトを離れ、本国に帰還する。遠征軍は取り残された形で、軍事行動は成功しなかったが、同行した学者の手でやがてエジプト学や古代東方の文物の研究が進められることにはなる。なかでも一将校が発見したロゼッタ石から、エジプト文字の解読がシャンポリオンによりなされ、大きな貢献を後世に残した。[金澤 誠]

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