エベレスト山(読み)えべれすとさん(その他表記)Mount Everest

日本大百科全書(ニッポニカ) 「エベレスト山」の意味・わかりやすい解説

エベレスト山
えべれすとさん
Mount Everest

ネパールと中国チベット自治区の国境上にそびえる世界最高峰。標高8848メートル。地形的には東西、南北に走る山稜(さんりょう)上にあり、北西、北東、南東稜の3面から成り立つピラミッド峰である。

 インド測量局番号でピーク15とよばれていた無名峰は、1852年に世界最高峰であることが判明した。しかし、この山の現地名は不明であった。そこで時のインド測量局長官アンドリュー・ウォーは、先任のサー・ジョージエベレスト大佐の困難な測量事業遂行の功績を記念し、この無名峰をマウント・エベレストと命名した。山名に個人名がつけられたのは例外的なことである。その後、この山にも現地名らしいものがあることがわかった。ガウリサンカールGauri Sankarとか、デバドンガDevadhungaあるいはチョモカンカールChomo-kangkarなどであるが、いずれも信憑(しんぴょう)性は乏しい。ネパールではサガルマタSagarmatha、1921年にはチョモ・ランマChomo-Lungma(国の女神を意味する)の名も浮かび上がったが、特定の山峰というよりはエベレスト山群の俗称と考えられてきた。しかし中国側はこのチョモ・ランマを主張し、現在はエベレストまたはチョモ・ランマで通っているが、このような論争は無益であろう。

 エベレスト山はクンブ氷河やロンブク氷河などで囲まれている。これらの谷氷河は厚く、重力に従って下方へ徐々に移動する。河水と違って重く、塑性的にふるまう氷河氷の侵食は激しいもので、山稜はたちまちブルドーザーで削られたようになり、三、四面体からなる鋭いピラミッド峰が至る所に屹立(きつりつ)している。

 エベレスト山とその周辺の地質は、登山隊に随行した地質学者により観察と調査が行われてきた。1923年にはヘロンが8200メートルまで登り、エベレスト山の上部は北へ緩く傾く明るい色の堆積岩(たいせきがん)からなることを明らかにした。24年にはオーデルが、エベレストの山頂は石灰岩よりなることを初めて明らかにした。ついでワーガーが8700メートルまでの地質を調べた。山頂から下方へと順次、エベレスト石灰岩、泥岩および下部石灰岩質層と重なっている。中部の泥岩、粘板岩質岩石は暗緑色で、近くのローツェ山もこの地層から成り立つ。これらの地層を貫いて通称マカルー花崗岩(かこうがん)が、エベレスト山の東、南、西の3面を取り囲むように分布している。この花崗岩は細粒質で著しく白色が強い。地質時代第三紀の中新世以降に貫入したものである。ナンガ・パルバト山、チョー・オユー山、ムズターグ山、マカルー山などもみなこの岩石からできている。エベレスト石灰岩は、下部は有名なイエローバンドで、そこは片状の石灰岩からなり、その上は灰色の砂質、片状の苦灰岩質石灰岩である。エベレスト頂上から採取されたサンプルを調べたアウグスト・ガンサーによると、細粒質で薄い層状の石灰質片岩か板状の石灰岩からなり、ウミユリの破片が含まれていた。これは世界でもっとも最高所の化石だが、残念ながら地質時代を確定するには保存がよくない。しかし古生代石炭紀から下部ペルム紀という従来の考えと矛盾するものではない。

[金子史朗]

登山史

世界一の高度と強風、絶壁に囲まれたエベレストへの登山に最初に意欲を燃やしたのはイギリスの登山家たちで、第一次世界大戦後ヤングハズバンド卿(きょう)を会長とするエベレスト委員会がつくられ、1921年のハワード・ベリー隊に始まり、22年C・ブルース隊、24年E・F・ノートン隊と送った。この年には頂上近くまで迫ったマロリーアービンが帰らぬ人となり、一時中断されたが、33年と36年H・ラトレッジ隊、35年E・シプトン隊と続き、第七次の38年H・W・ティルマン隊までチベット側から挑んだが失敗に終わった。第二次世界大戦後ネパール側から登ることが可能になり、51年にシプトン隊、52年は初めてスイス隊が春・秋に挑み、ついに53年5月29日、イギリスのジョン・ハント隊のE・ヒラリー(ニュージーランド人)とシェルパのテンジン・ノルゲイが南東稜より登頂し宿願を果たし、その報は3日後のエリザベス女王の戴冠(たいかん)式の日の夕方に届けられ花を添えた。ついで56年スイス隊が2登を果たし、60年中国隊が北面より、63年アメリカ隊が西面より、65年インド隊が南東稜より登った。その後一時ネパール・中国の国境問題で登山が禁止されていたが、68年解禁され、70年(昭和45)日本山岳会の松方三郎隊の植村直己(なおみ)、松浦輝夫(てるお)が5月11日に、翌日平林克敏(かつとし)らが登頂した。このときは南東稜と南西壁の両方からの計画であったが、南西壁は失敗に終わった。同時期に三浦雄一郎を隊長として日本エベレスト・スキー探険隊が挑み、サウス・コル付近からスキー滑降を行った。その後各国の登山隊が挑み、73年には総指揮橋本龍太郎・隊長水野祥太郎(しょうたろう)のRCCⅡ隊はポスト・モンスーン期の初登頂を果たし、75年には久野英子を隊長とする日本女子登山隊の田部井淳子(じゅんこ)が女子の初登頂を果たした。同年、イギリスのボニントン隊が南西壁の初登攀(はつとうはん)を果たし、79年にはユーゴスラビアのトネ・シュカリア隊が西稜より登頂、80年は日本山岳会隊が北面の中国側より登頂に成功している。そして不可能とされた冬期の初登攀は80年ポーランドのアンジェイ・ザバダ隊のレシェック・チヒとクシストフ・ビエリッキ隊員により成し遂げられた。世界最高峰への挑戦は毎年各国隊により行われ、より困難なバリエーションルートからの登攀の時代へと移っている。

[徳久球雄]

『J・ハント著、田辺主計・望月達夫訳『エヴェレスト登頂』(1954・朝日新聞社)』『内藤敏男著『エベレストへの道』(1971・日本放送出版協会)』『上村信太郎著『エベレストで何が起きているか』(1993・山と渓谷社)』『ジャムリン・テンジン・ノルゲイ、ブロートン・コバーン著、梅津正彦訳『エベレスト50年の挑戦――テンジン親子のチョモランマ』(2003・廣済堂出版)』『ジュディ・テンジン、タシ・テンジン著、丸川浩・広川弓子訳『テンジン――エベレスト登頂とシェルパ英雄伝』(2003・晶文社)』『植村直己著『エベレストを超えて』(文春文庫)』

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改訂新版 世界大百科事典 「エベレスト山」の意味・わかりやすい解説

エベレスト[山]
Mount Everest

ヒマラヤ山脈中央にあり,ネパールとチベットの国境にそびえる世界最高峰。標高8848m。

1852年,インドの大三角測量による結果の集計中に〈ピークXV〉といわれていた峰が,世界最高峰であることが発見された。現地名がわからなかったので,前インド測量局長官エベレストGeorge Everest(在任1830-43)の名をとって命名された。チベット人のいう〈チョモランマChomolungma〉(中国表記で珠穆朗瑪峰)の名は,〈大地の女神〉〈世界の母神〉の意という。ネパール人は〈サガルマーターSagarmāthā〉(サンスクリットに由来する語で〈大空の頭〉〈世界の頂上〉の意)と呼ぶ。標高については65年,A.ウォーらが6観測点によって,平均値8840mを発表,長い間これが採用されていた。その間,1905年,S.ブラードの8882mなど,いくつかの数値が発表されたが,54年,8848mの改正値が決定された。

頂上は南東稜,西稜,北東稜の三つの稜に囲まれたピラミッド状で,南(西)壁,北壁,東壁の三つの壁が,それぞれクーンブ氷河,ロンブク氷河,カンシュン氷河に落ちこんでいる。主峰の北東稜から分岐した北稜上にチャンツェChangtse(7553m),クーンブ氷河の入口の西稜上にプモリPumo Ri(7145m),主峰から約3km離れた南東稜上にローツェLhotse(8511m),そのさらに西方にヌプツェNuptse(7879m)が,エベレスト山群をつくっている。主峰の頂上は変成を受けた二畳石炭系の石灰岩からなり,二畳からジュラ各系の堆積物の側面をみせる。気候の面では,冬を中心とした乾季と,6~9月の雨季に分かれ,大気は対流圏上部で,冬は偏西風,夏は偏東風が流れるが,下部では逆の風系,すなわち冬は北東モンスーン,夏は南西モンスーンが発達する。4~5月のプレ・モンスーン期と,10~11月のポスト・モンスーン期が,両方の風の入れかわる過渡期で,かなり好天が続き,登山に好適とされる。
執筆者:

1876年ころ,アルプス登山で令名の高かったプレボール女史と,その甥で後年のアルプス登山史家クーリッジは,エベレスト登山を真剣に検討していたという。また,アルパイン・クラブ(イギリス山岳会)会長だったデントは〈エベレストは登りうるか〉という文章を92年に発表している。ブルース,ヤングハズバンド,インド総督カーゾン,チベットへ密入国したノエル大尉など多くのイギリス人が政治,外交,軍事などさまざまな立場でエベレストにかかわった。1907年アルパイン・クラブ創立50周年記念事業にエベレスト登山が企画され,具体的な動きが始まった。しかし,チベットへの入国が許可されず,ネパールは鎖国中で,この計画は実現しなかった。第1次大戦後,当時,探検の分野の総本山となっていた王立地理学協会会長に就任したヤングハズバンドは,この協会とアルパイン・クラブの代表から成るエベレスト委員会を作って,自ら委員長となった。この委員会はその後ヒマラヤ委員会と改称されたが,長くエベレスト登山のすべてを取りしきった。その結果,20年にはチベットのダライ・ラマからの登山許可も入手し,21年春に第1次登山隊が発足した。第2次大戦前のルートはすべて北面によるが,この隊はノース・コル(6990m)まで,22年の第2次隊は8291mまで達した。24年の第3次隊は8572mまで達したが,有力な若手登山家G.H.L.マロリーとアービンを失った。その後もティルマン(1938),シプトン(1935,51)らがリーダーとなって活躍したが,その頂はまだ遠いものだった。第2次大戦後にネパールは鎖国を解いた。53年春,J.ハントの率いるイギリス登山隊がネパールのクーンブ氷河にベースを設けた。南面の登山ルートである。エバンズ,ヒラリーらのメンバーを中心に順調に高所キャンプが進められ,第1次アタック隊のエバンズらを引き継いだ第2次アタック隊のヒラリーとテンジンが,5月29日午前11時15分頂上に立ち,人類多年の夢を実現した。70年春,日本隊(松方三郎ら)も登頂に成功,75年には田部井淳子ら日本女子隊も登頂を果たした。その後,中国側北面ルートからも登頂され,毎シーズン,各国の登山隊の新しい登山の試みの場となっている。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のエベレスト山の言及

【登山】より

…イタリアのL.A.アブルッツィは09年カラコルムのバルトロ氷河にはいり,世界第2の高峰K2を試登した。第1次大戦後,イギリス隊は世界の最高峰エベレスト(8848m)に21年第1次偵察隊を送り,チベット側からの登山を試みた。24年にはG.H.L.マロリーとA.アービンが頂上近くまで迫りながら消息を絶った。…

【ヒマラヤ[山脈]】より

…またその主嶺に沿って東西に連なる地方をヒマラヤとも呼ぶ。 そこには標高200mの山ろくから,8848mの世界最高峰エベレストまでの高低起伏がある。山ろくは亜熱帯であるが,低い山地や盆地や谷は温帯,さらに高山(寒)帯を経て,氷雪の地帯まで連なる。…

【ヒラリー】より

…オークランドに生まれ,養蜂業を営む。第2次大戦中より登山を行い,戦後ヨーロッパ,ヒマラヤで活躍し,1953年イギリスのエベレスト隊に参加。テンジンとともに初登頂者となり,サーの称号を授与された。…

※「エベレスト山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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