アイルランドの劇作家。ダブリンのスラム街に住む子だくさんな新教徒の末子として生まれる。早く父を亡くして以後、雑役などで働き、労働運動や祖国のイギリス支配からの独立運動に参加、名もJohnから民族風に改めた。ほとんど独学で自由に聖書に親しみ、シェークスピアを読み、あるいは演じたが、政治の党派性に幻滅したのち、本格的に劇作に取り組んだ。劇作家のグレゴリー夫人Lady Isabella Augusta Gregory(1852―1932)やイェーツの助言で、スラム生活に取材して人物造形に努力した4本目の『革命戦士(ガンマン)の影』(1923)が、アイルランド近代劇の殿堂、ダブリンのアベイ劇場で上演され、次の『ジュノーと孔雀(くじゃく)』(1924)は大好評で、劇場の財政にも寄与した。『鋤(すき)と星』(1926)では客席で支持者と批判派との乱闘までみられたが、写実的傾向から表現主義的作風に傾いた『銀杯』(1928)は劇場側から上演を拒否された。そのため故国の民衆を愛しつつも、冷静な観察者でもある彼は、仕事の場を求めて、イギリス永住を決意した。『銀杯』は翌1929年にロンドンで初演され、のちアベイ劇場でも上演された。以後の作品には『紅塵(こうじん)』(1940)、『僧正のかがり火』(1955)などがある。シングの後継者と目され、激変期のアイルランドでの体験に基づき、故国の伝説、キリスト教、マルクスなどの影響の下に、笑いと悲しさ、怒りと哀れみの分かちがたい作風で生と死の力のせめぎあいを描き、『扉を叩(たた)く』以下全6巻の自伝(1939~1954)も残した。
[森 康尚]
『W・A・アームストロング著、小田島雄志訳『オケイシイ』(1971・研究社出版)』
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アイルランドの劇作家。ダブリンのスラム街に生まれ,貧窮の中に育つ。内乱時のアイルランドをリアリスティックに描いた《狙撃者の影》(1923初演),ダブリンのスラム街を舞台にした《ジューノーとクジャク》(1924初演),自ら参加した1916年のイースター蜂起を扱った《鋤と星》(1926)などによって地位を確立。これらはすべてアベー座で上演されたが,《鋤と星》で登場人物の愛国者を批判的に描写したため観客の怒りをかい,イギリスへ去り,そのまま帰国しなかった。1928年,表現主義的な反戦劇《銀の杯》(1929ロンドン初演)の上演を実験的すぎるとしてアベー座が拒否した後,彼はアイルランドにおける自作の上演をしばらく許さなかった。後年の作品には《わがための赤きばら》(1943初演),《ニワトリのダンディ》(1949)などがあるが,いずれもアイルランド社会の偽善を痛烈にあばいており,先鋭な政治意識は初期の作品に通じる。ほかに39年から54年にかけて刊行された6巻の自伝や演劇論がある。
執筆者:喜志 哲雄
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…この作品は仮借ない観察と戯画のゆえに,初演当時は観衆の反感をかったが,その後のアイルランド演劇の基本的な性格を内蔵している。10年代に入るとロビンソンEsmé Stuart Lennox Robinson(1886‐1958)らの農民写実劇が主流をしめ,20年代にはショーン・オケーシーが《狙撃者の影》(1923初演),《ジューノウと孔雀》(1924初演),《鋤と星》(1926初演)において,対英抗争と内乱の時代を背景に,貧民街労働者たちの悲喜劇を描いて新たな活力を吹きこんだ。イェーツは中期以後も《鷹の井戸》(1916初演)など,日本の能の手法を取り入れた象徴的な伝説劇や寓意劇を書き続け,また演劇活動や内乱時代の体験をふまえて《塔》(1928),《螺旋階段》(1933)など優れた詩集を発表して,世界的な名声を得たが,その中核にはつねにケルト族の神話・伝説が存在している。…
※「オケーシー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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