オランダ(ネーデルラント王国)の王室。ナッサウ伯家はドイツのライン川中流ディレンブルクDillenburg領主で,その起源は12世紀以前にさかのぼる。14~15世紀,つぎつぎにネーデルラント地方の領土を得,ブレダに居城を構え,ブルゴーニュ侯に仕えてこの地方随一の名門貴族となった。16世紀前半,ナッサウ家の長男ヘンドリック(ハインリヒ)3世はネーデルラントを含むライン左岸の領地を相続し,ハプスブルク家に仕え,結婚により南仏オランジュOrange(オラニエ)公領を手に入れた。次男のウィレム(ウィルヘルム)はライン右岸領すなわちナッサウ家伝来の領土を得た。ウィレムの子ウィレム1世(1533-84)は父の領土を相続し,1544年伯父ヘンドリック3世の子ルネが没すると,ナッサウ家に伝わる全領土を継承してオラニエ=ナッサウ公家の創設者となった。ウィレム1世は若くしてドイツ皇帝カール5世の側近として将来を期待されたが,のちにオランダ共和国独立の指導者となり,オランダ諸州の総督に就任し,建国の父として記憶される。ウィレムが暗殺されると,その子マウリッツさらに弟フレデリック・ヘンドリックが総督職を継ぎ,対スペイン独立戦争を指導した。17世紀中葉,オランダの国力,経済,文化は絶頂に達し,オラニエ=ナッサウ家はヨーロッパ諸国の王室,大貴族と姻戚関係を結び,ハーグにある総督官邸は宮廷のような栄光につつまれた。フレデリック・ヘンドリックの孫ウィレム3世(在位1672-1702)はフランス軍のオランダ侵略(1672)を撃退して名をあげたが,1688年妻のメアリー・スチュアートとともにイギリスに迎えられ,共同統治者として国王ウィリアム3世となり(名誉革命),オランダ諸州の総督を兼ねた。ウィリアムが子なくして没すると,分家ナッサウ=ディーツNassau-Dietz家のヨハン・ウィレム・フリーソJohan Willem Friso(1687-1711)が跡を継ぎ,その子ウィレム4世は1747年,共和国7州の総督に就任した(-1751)。95年革命フランス軍がオランダに侵入すると,共和国は崩壊し,ウィレム5世(在位1751-95)はイギリスへ亡命した。父ウィレム5世とともに国外に亡命し,ナポレオン軍と戦った同6世は,1813年ナポレオン軍の敗退により帰国し,オランダの主権者となり,15年ネーデルラント王国の成立とともに国王ウィレム1世となり,ルクセンブルク大公を兼ねた。オランダ王国に編入されたベルギーの住民は,ウィレム1世の専制的でオランダ中心的な統治に不満をいだき,30年独立運動を起こし,39年同王は独立を承諾した。ウィレム1世を継いだ同2世(在位1840-49),3世(在位1849-90)の時代にオランダは工業化を推進し,議会制民主主義国家となった。ウィレム3世には男子の嗣子なく,王女ウィルヘルミナWilhelmina(在位1890-1949)が女王となり,第2次大戦中オランダがドイツ軍に占領されると女王一家はロンドンに亡命した。ウィルヘルミナのあと,ユリアナ(在位1949-80),さらに現女王ベアトリックスBeatrix(1938- )とオランダでは女王の統治が3代続いたが,67年1世紀ぶりで王子オラニエ=ナッサウ公が誕生した。
執筆者:栗原 福也
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
オランダの王家。南フランスのプロバンスにあるオランジュ(オランダ語でオラニエ、英語でオレンジ)公爵領は、16世紀初頭、結婚によりネーデルラントの名門貴族ナッサウ伯家の領土になった。ナッサウ伯家はドイツの貴族で、その起源は12世紀初頭にさかのぼるが、14、15世紀の間にネーデルラントに多くの所領を増やし、ブルゴーニュ家、ハプスブルク家の重臣として仕えた。16世紀後半、ネーデルラントの住民はスペイン国王フェリペ2世の統治に対して反乱を起こし、ネーデルラント連邦(オランダ)共和国として独立するに至ったが、1572年オラニエ公ウィレム1世(1533―84)は反乱諸州に推されて総督となり、反乱を指導して建国の父となった。ウィレム1世が暗殺されると、息子マウリッツ、続いてフレデリック・ヘンドリックが総督職を継ぎ、共和国の最高軍事指揮者として対スペイン戦に功績を表した。1672年総督に就任したウィレム3世は、イギリスの名誉革命によって妻メアリーとともにイギリスに迎えられ、イギリス王ウィリアム3世(在位1689~1702)となり、ホラント州などの総督も兼ねた。
ウィリアム3世が嗣子(しし)なくて没すると、分家のナッサウ家がオラニエ家を継いだ。同家のウィレム4世は、1747年に共和国7州すべての州総督を兼ね、同時に総督職はオラニエ・ナッサウ家の世襲となった。1795年共和国はフランス革命軍の侵入により崩壊し、総督ウィレム5世はイギリスに亡命した。1815年のウィーン会議によりネーデルラント(オランダ)王国が成立し、オラニエ・ナッサウ家のウィレム6世は新国王ウィレム1世となり、ルクセンブルク大公を兼ねた。ウィレム1世ののち、同2世、3世を経て、ウィルヘルミナ、ユリアナ、現女王ベアトリックスと女王の統治が3代続いたが、1967年ベアトリックス女王に男児が誕生、1世紀ぶりに皇太子オラニエ公が出現した。
[栗原福也]
…13年ナポレオンがライプチヒで大敗するとオランダ人は駐留フランス軍を追放し,イギリス亡命中のウィレム6世を主権者として迎えた。ナポレオン戦争後,イギリス,プロイセンはフランスの膨張を阻止するためオランダの強化を策し,パリ条約でベルギー,リエージュをオラニエ=ナッサウ家の統治下に編入することに決めた。15年ウィレムは憲法を制定し,ブリュッセルで即位してウィレム1世と称し,ここにネーデルラント王国Koninkrijk der Nederlandenが成立した。…
…18世紀に入ると,イギリス,フランスの経済力と国力の発展はめざましく,これに反してアムステルダムはなおヨーロッパの金融・資本市場として大きな存在だったとはいえ,オランダは全体として貿易も工業も停滞した。1702年ウィリアム3世が後継者なく没すると,ナッサウ家の一支脈がオラニエ家を継ぎオラニエ=ナッサウ家となったが,総督職は置かれず,第2回無総督時代(1702‐47)が始まり,門閥市民による寡頭貴族制が続いた。 1747年,オーストリア継承戦争に際し,フランス軍がオランダに侵入すると,オランダの現状に不満を抱く中下層市民は,民衆運動を展開して〈民主派Democraten〉と呼ばれた。…
※「オラニエナッサウ家」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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