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カスティリオーネ Castiglione, Baldassare

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

カスティリオーネ
Castiglione, Baldassare

[生]1478.12.6. イタリアマントバ近郊カサティコ
[没]1529.2.2. スペイン,トレド
イタリアの廷臣,外交官,作家。ゴンツァガ家につながる名門の出身。ミラノ,マントバ,ウルビノなどの宮廷に仕え,その経験をもとに『廷臣論』Il cortegiano(1513~18)を著した。これは問答形式で当時の理想的な宮廷人はいかにあるべきかを説いたもので,マキアベリの『君主論』にしばしば対比され,廷臣の側からルネサンスの人間像をとらえている。そのほか,田園詩『ティルシ』Tirsi(1506)などがある。晩年は教皇クレメンス7世にスペイン大使を命じられ,マドリードに赴任し,病を得てトレドで没した。

カスティリオーネ
Castiglione, Giovanni Benedetto

[生]1616頃.ジェノバ
[没]1670. マントバ
イタリアの画家,版画家。通称イル・グレケット。ジェノバ,ローマ,マントバ,パルマで制作。初めファン・ダイクレンブラントの,次いでローマではプーサンの影響を受け,肖像画,歴史画,宗教画,風景画を多数残しているが,特に動物の表現に長じた。また銅版画も多く制作し,モノタイプの発案者でもある。

カスティリオーネ

郎世寧」のページをご覧ください。

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デジタル大辞泉の解説

カスティリオーネ(Baldassare Castiglione)

[1478~1529]イタリアの外交官著述家。著「廷臣論」。

カスティリオーネ(Giuseppe Castiglione)

[1688~1766]イタリアのイエズス会宣教師・画家。中国名は郎世寧(ろうせいねい)。1715年、清(しん)国北京に行き、雍世(ようせい)帝乾隆(けんりゅう)帝に仕え、西洋の画法を伝えた。絵は台北の故宮博物院に多数収蔵。

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百科事典マイペディアの解説

カスティリオーネ

イタリアの文人。《廷臣論》を著し,文武諸芸にひいでたルネサンス時代の理想的な宮廷人の姿を描いた。各地諸侯の宮廷に仕えたが,晩年は教皇の大使としてスペインに赴き客死した。
→関連項目円明園

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世界大百科事典 第2版の解説

カスティリオーネ【Baldassare Castiglione】

1478‐1529
イタリアの文学者,外交官。伯爵。カザティコに生まれる。マントバやミラノで人文主義的教育を受ける。ルドビーコ・イル・モロやフランチェスコ・ゴンツァーガに仕える。公爵グイドバルド・ダ・モンテフェルトロに招かれて,ウルビノの宮廷に仕え(1504‐13),ヘンリー7世やルイ12世のもとに使節として遣わされる。次いでフランチェスコ・デラ・ロベレに仕え,ローマに派遣される(1513‐15)。1524年,教皇クレメンス7世の命により,教皇使節としてマドリードにいる皇カール5世のもとにおもむく。

カスティリオーネ【Giuseppe Castiglione】

1688‐1766
イタリアのイエズス会修道士で宮廷画家。中国名は郎世寧。ミラノに生まれ,1707年にイエズス会に入り,15年(康熙54),清代中国の都北京に到着。以後,同地で死ぬまで康熙・雍正・乾隆の3帝に宮廷画家として仕えた。とくに乾隆帝に目をかけられ,彼の愛妃である香妃の肖像画を描いた。代表作はジュンガルとの戦いを描いた全18枚からなる《準噶爾回部等処得勝図》のなかの2作で,明暗法や遠近法などの西洋画法は中国画に大きな影響を与えた。

カスティリオーネ【Giovanni Benedetto Castiglione】

1616‐70
イタリア・バロックの画家,素描家,銅版画家。通称グレケットIl Grechetto。ジェノバに生まれる。G.B.パッジとG.A.デ・フェラリの弟子。イタリア各地で仕事をし,生地ではファン・デイク,ローマではP.テスタ,N.プッサン,後にルーベンスから影響を受けるが,最も本質的だったのはレンブラントの版画によるものである。そこから得た技法は,彼の作品に創意に富んだ,明暗法による劇的な表現を可能にしたと言える。

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大辞林 第三版の解説

カスティリオーネ【Castiglione】

〔Baldassare C.〕 (1478~1529) イタリア-ルネサンス期の文人・外交官。ウルビーノ公国宮廷生活から想を得て、ルネサンス文化の理念を宮廷人の理想像として描いた「廷臣論」で知られる。
〔Giuseppe C.〕 (1688~1766) イタリアのイエズス会宣教師・画家。1715年中国に渡り、康熙こうき・雍正ようせい・乾隆けんりゆうの三代の皇帝に仕え、宣教の傍ら、絵画・土木建築の技法を伝えた。漢名、郎世寧ろうせいねい

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世界大百科事典内のカスティリオーネの言及

【貴族】より


[ヨーロッパ貴族の文化史・思想史的意義]
 封建社会の盛期における〈騎士道〉は,聖職者に担われた中世前期の文化に代わる俗人(俗語)文化の登場を意味し,そこでは戦士の美徳とキリスト教信仰とが,礼節・自己規律,また理想化された愛の情念のなかに融合していた。ルネサンスと人文主義はそれ自体,新しい市民階層の生活意識を表現するものであったが,イタリア,フランス,イギリスなどで宮廷が文芸の中心となるにともない,B.カスティリオーネの《廷臣論》に描かれたような,優雅な文人貴族の理想が一般化する。それと同時に,貴族ないし騎士身分の軍事的機能の低下に対応しつつ,貴族の資質における精神的な要素が従来以上に強調されることとなった。…

【円明園】より

…園内は湖池が大半を占め,江南地方の風景を模した水景庭園で,宮殿や祠廟が点々と配された。長春園北側にはカスティリオーネ,ブノア,アッティレら西欧宣教師によって,ロココ様式の西洋館が建てられ偉容を誇ったが,1860年(咸豊10)と1900年(光緒26)の各国軍侵略で破壊され,いまは廃虚のみがのこる。【田中 淡】。…

【清代美術】より

…すべてのモティーフは明確な輪郭をもって描き出され,あいまいな個所はまったくなく,すべて清新で知的な画面が要求された。イタリア人カスティリオーネ(中国名は郎世寧),ロシア人シクルプス(中国名は艾啓蒙(がいけいもう)。1708‐80)らは画院に奉職した西洋人で,文字どおり皇帝の手足として馬,珍禽異獣,戦争,皇帝后妃の容姿などを写して画院本来の使命を果たした。…

【モノタイプ】より

…金属,板,紙などの上にインキ,絵具などで直接描き,乾かないうちに台材(紙,布など)に写し取らせる。即興的な筆触がなまなましく再現されるので,B.カスティリオーネ,W.ブレーク,E.ドガなどが好んで制作した。とくに現代では版画というよりも造形的表現手段の一つとなっている。…

※「カスティリオーネ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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