イタリアのミラノ生まれのイエズス会助修士。中国名は郎世寧(ろうせいねい)。画技に優れ、本国においても一流の画家になれた人であるが、中国皇帝が西洋の画家を求めていることを知って渡華を志願し、認められて1715年に北京(ペキン)に到着した。ポルトガル系イエズス会士の拠点であった宣武(せんぶ)門内天主堂(南堂)に住んで、宮廷絵師として活躍した。康煕(こうき)、雍正(ようせい)、乾隆(けんりゅう)の3帝に仕え、多数の絵画を残した。芽、花、実の3通りの姿をもつ蓮(はす)をさした中国花瓶を描いた1723年作の『聚瑞(しゅうずい)図』によって名声を博し、さまざまの姿態をしている馬を描いた1728年作の『百駿(ひゃくしゅん)図』によってさらに名を高めた。日中は円明園のなかの画室である如意(にょい)館で働き、夜は近くの海甸(カイテン)の住居に戻るという日常のなかで、皇帝とその妃(きさき)たちの肖像画を描いた。乾隆帝と香妃(1734―1788)の肖像画はとくによく知られている。乾隆帝が自分の軍隊の戦勝を記念するために画家たちに描かせた「準噶爾(ジュンガル)回部得勝図」のなかにも彼の作がある。また、皇帝の命を受けて、円明園のなかに西洋房子(ぼうし)(洋館)を建築する工事を設計監督した。なお、彼が在廷した時期の大部分はキリスト教に対する取締りが強行された時期であり、彼は画家としての自分に対する皇帝の愛顧を利用してしばしば禁教の緩和を願い出て、布教に協力した。北京で死亡。その絵は台北の国立故宮博物院に多数所蔵されている。
[矢澤利彦 2018年2月16日]
イタリアの文学者、外交官、伯爵。マントバの近くに生まれる。ミラノで人文主義的教養を修める。ルドビコ・イル・モロやフランチェスコ・ゴンザーガに仕える。ウルビーノ公爵に招かれてその宮廷に仕え、ヘンリー7世やルイ12世のもとに使節として赴く。ついでフランチェスコ・デッラ・ロベーレに仕え、ローマに派遣される。1524年教皇使節としてスペインのカール5世のもとに送られたが、カール5世の傭兵(ようへい)軍がローマを荒らしたため(1527)、教皇庁の不興を買う。トレドで死去。主著『宮廷人の書』4巻(1528)は、ウルビーノの宮廷で行われたと想定される対話に基づき、宮廷人の理想を論じている。
[佐藤三夫]
イタリアの文学者,外交官。伯爵。カザティコに生まれる。マントバやミラノで人文主義的教育を受ける。ルドビーコ・イル・モロやフランチェスコ・ゴンツァーガに仕える。公爵グイドバルド・ダ・モンテフェルトロに招かれて,ウルビノの宮廷に仕え(1504-13),ヘンリー7世やルイ12世のもとに使節として遣わされる。次いでフランチェスコ・デラ・ロベレに仕え,ローマに派遣される(1513-15)。1524年,教皇クレメンス7世の命により,教皇使節としてマドリードにいる皇帝カール5世のもとにおもむく。27年帝国の傭兵らがローマを荒らしたため(ローマ劫掠),教皇庁の不興を買う。トレドで死去。主著《宮廷人の書》4巻(1528)は,ウルビノの宮廷で行われたと想定される対話(1507)に基づき,完全な宮廷人を称揚しながら,ルネサンスの人間の理想的な典型としての教養ある貴紳について論じている。
執筆者:佐藤 三夫
イタリアのイエズス会修道士で宮廷画家。中国名は郎世寧。ミラノに生まれ,1707年にイエズス会に入り,15年(康煕54),清代中国の都北京に到着。以後,同地で死ぬまで康煕・雍正・乾隆の3帝に宮廷画家として仕えた。とくに乾隆帝に目をかけられ,彼の愛妃である香妃の肖像画を描いた。代表作はジュンガルとの戦いを描いた全18枚からなる《準噶爾回部等処得勝図》のなかの2作で,明暗法や遠近法などの西洋画法は中国画に大きな影響を与えた。
執筆者:井上 裕正
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1688~1766
イタリアのイエズス会宣教師,画家,建築家。1715年北京に到着して清の宮廷に仕え,雍正(ようせい)帝,乾隆(けんりゅう)帝の命により多くの絵を描き,中国の絵画に大きな影響を与えた。また円明園などの設計にあたった。
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[ヨーロッパ貴族の文化史・思想史的意義]
封建社会の盛期における〈騎士道〉は,聖職者に担われた中世前期の文化に代わる俗人(俗語)文化の登場を意味し,そこでは戦士の美徳とキリスト教信仰とが,礼節・自己規律,また理想化された愛の情念のなかに融合していた。ルネサンスと人文主義はそれ自体,新しい市民階層の生活意識を表現するものであったが,イタリア,フランス,イギリスなどで宮廷が文芸の中心となるにともない,B.カスティリオーネの《廷臣論》に描かれたような,優雅な文人貴族の理想が一般化する。それと同時に,貴族ないし騎士身分の軍事的機能の低下に対応しつつ,貴族の資質における精神的な要素が従来以上に強調されることとなった。…
…金属,板,紙などの上にインキ,絵具などで直接描き,乾かないうちに台材(紙,布など)に写し取らせる。即興的な筆触がなまなましく再現されるので,B.カスティリオーネ,W.ブレーク,E.ドガなどが好んで制作した。とくに現代では版画というよりも造形的表現手段の一つとなっている。…
…園内は湖池が大半を占め,江南地方の風景を模した水景庭園で,宮殿や祠廟が点々と配された。長春園北側にはカスティリオーネ,ブノア,アッティレら西欧宣教師によって,ロココ様式の西洋館が建てられ偉容を誇ったが,1860年(咸豊10)と1900年(光緒26)の各国軍侵略で破壊され,いまは廃虚のみがのこる。【田中 淡】。…
…すべてのモティーフは明確な輪郭をもって描き出され,あいまいな個所はまったくなく,すべて清新で知的な画面が要求された。イタリア人カスティリオーネ(中国名は郎世寧),ロシア人シクルプス(中国名は艾啓蒙(がいけいもう)。1708‐80)らは画院に奉職した西洋人で,文字どおり皇帝の手足として馬,珍禽異獣,戦争,皇帝后妃の容姿などを写して画院本来の使命を果たした。…
※「カスティリオーネ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
東海沖から九州沖の海底に延びる溝状の地形(トラフ)沿いで、巨大地震発生の可能性が相対的に高まった場合に気象庁が発表する。2019年に運用が始まった。想定震源域でマグニチュード(M)6・8以上の地震が...
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