トルコ東部地方の古代地名。範囲は時代によって違いがあるが,東はユーフラテス川を境にアルメニア地方に接し,西はトゥズ湖,南はトロス山脈によってキリキア地方と接し,北は黒海に及ぶ。ただしローマ時代以降,黒海に臨む北部はポントス(ポントゥス)地方として通例カッパドキアには含めない。アナトリア高原に当たり,冬の厳しい寒さと夏の乾燥のため農耕に適せず,牧畜がおもな生業となっている。紀元前2千年紀にはヒッタイト人に支配され,前1200年ころヒッタイト帝国が滅びると,フリュギア人,のちキンメリア人が侵入した。前6世紀にはアケメネス朝ペルシアの支配下に入り,この王朝がアレクサンドロス大王によって滅ぼされると,セレウコス朝の支配を経て,前190年のマグネシアの戦によってローマの勢力圏に入った。紀元17年にはローマ帝国の属州となり,トラヤヌス帝の113年までにポントスと合わせて新しい属州に再編された。その間にヘレニズム化およびローマ化が進んだ。
キリスト教の拡大にはオリゲネスの弟子,グレゴリオス・タウマトゥルゴスの寄与が大きい。また修道制はシリアの影響が強かった。セバステ主教エウスタティオスEustathiosは極端な禁欲隠遁の教えを伝えたが,その弟子で,教義上の理由から師と対立した大バシレイオスが共住制を基盤とする修道制を広めた。バシレイオスの修道規則はその後の東方の修道院にほとんど例外なく採用された。4世紀のアリウス派論争に際し,カッパドキア3星と呼ばれる3人の教父,前述のバシレイオス,その弟でニュッサ主教グレゴリオス,両者の友人でナジアンゾス主教グレゴリオスがいわば調停者として論争の終結およびニカエア信仰の確立に尽力した。
執筆者:森安 達也
カッパドキアの渓谷の断崖,あるいは開けた谷間に林立するたけのこ状の岩山に,横穴式にくりぬかれた多くの洞窟修道院がある。渓谷と岩山は,露出した凝灰岩が浸食や風化をうけて生じたもので,一帯は奇景を呈する。修道院は6世紀から13世紀,とくに10世紀を中心とした時期に属し,幾つかの地域にまとまって群をなしている。一つの修道院は,寝所,食堂,集会所,教会堂から成り立つのであろうが,創建時期,規模の異なる修道院が隣接し合い,今日その一つ一つを明確に把握するのは難しい。修道院群のある地域には,アッサライ近くのペリストラマ渓谷,ウルギュップの町を中心としたギョレメ,シャウシン,ジルベ,南のジェミール,ソアンルがある。遺跡の中でとくに重要なのは教会堂で,内部は地上に建てられた教会堂と同じ空間構成をとり,中央に円蓋,それを支える柱まで岩をくりぬいて造られたものも見られる。数として300余,そのうち150ほどのものが壁画を有する。とくにギョレメ地区のトカール・キリッセ,カランルック・キリッセは有名である。これら洞窟教会堂は,1907年から40年にわたって行われたフランスのジェルファニヨン神父の調査研究で広く知られるようになった。キリスト教に基づく壁画は,コンスタンティノープルやバルカン半島のビザンティン美術の作例の隙間を埋め,また独自の絵画様式を示すことから貴重な存在であり,西欧中世美術にも影響を与えている。
執筆者:長塚 安司
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小アジア東部の高原地帯(現在のトルコ東部)の古代地名。南はトロス山脈、北は黒海、東はアルメニアおよびユーフラテス川、西はトゥズ湖に接している。ただし北部はカッパドキア・ポントゥスまたは単にポントゥス、中部と南部は大カッパドキアとよばれるようになった。紀元前15~前12世紀にはヒッタイト王国の中心となり、前6世紀よりアケメネス朝ペルシア帝国のサトラピ(州)となった。アレクサンドロス大王の征服後、前301年独立王国が建設されたが、しだいにローマの勢力下に置かれ、紀元後17年ローマ帝国にその一州として併合された。
[秀村欣二]
1985年、ユネスコ(国連教育科学文化機関)により「ギョレメ国立公園とカッパドキアの岩窟群」として世界遺産の複合遺産に登録された(世界複合遺産)。
[編集部]
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