翻訳|canon
古代ギリシアの建築術,彫刻術において〈測量竿,物差,基準〉を意味した言葉〈カノンkanōn〉は,クラシック期以来,特に人体表現の際の部分の合体に対する,あるいは各部分相互の比率を意味するようになった。この人体比率を最初に理論的に追求したのは前5世紀の彫刻家ポリュクレイトスで,のちに《カノン》を著した。この著作自体はわずかな断片を除いて失われてしまったが,彼の代表作《ドリュフォロス(長槍を担ぐ人)》は,彼の理論の具現化であり,後代の人々はこの作品をも《カノン》と呼んだ(原作は失われているがローマ時代の模刻がナポリの国立考古学美術館をはじめ各所に多く残されている)。ローマ時代の建築家ウィトルウィウスは,カノンを〈レグラregula〉と翻訳し,人体の比率を建築の原理に当てはめることを試みた。人体表現に再び関心をもつようになったルネサンス時代に古代のカノンは,主としてウィトルウィウスの建築書を通して復活し,なかでもレオナルド・ダ・ビンチやデューラーは,完全なる人間の表現を目ざして,人体の理想的な比率を追求した。以後17世紀,19世紀の古典主義を通して今日に至るまで,人体表現のための比率の研究とその正確な表現は,美術の重要な課題の一つになっている。
執筆者:中山 典夫
中世以後の西洋多声音楽における最も厳格な模倣対位法の技法およびその技法による楽曲をさす。カノンが〈基準〉を意味するように,本来,一つの旋律から複数の声部を導き出して楽曲を構成するための指示句を意味していた。同じように模倣対位法にフーガがあるが,フーガが主題だけを模倣するのに対して,先行声部全体を後続声部が厳格に模倣するところに特徴がある。かつてはこれもフーガと呼ばれていたが,17世紀以後両者はしだいに区別されるようになった。模倣の仕方によってさまざまな種類がある。以下,おもなものを挙げる。(1)平行カノン 後続声部が先行声部の旋律を種々の音程間隔で模倣する(図1)。音程の隔たりにより同度のカノン,5度の平行カノンなどという。(2)反行カノン 転回カノンともいい,先行声部の上行は後続声部では下行し,またその逆の形で模倣する(図2)。(3)逆行カノン 主声部を後ろから逆に読んだものを他声部で同時に提示する(図3)。蟹のカノンともいう。(2)と(3)は鏡像カノンとも呼ばれる。(2)と(3)の混合型もある。(4)拡大カノン・縮小カノン 先行声部の音価を一定の比率で拡大ないし縮小して模倣する(図2は2倍の例)。古くは拍子を変えて同時に提示するものもあった。(5)無限カノン・有限カノン 輪唱のように際限なく繰り返すことのできるもの(図1)と終止部のあるもの。(6)螺旋カノン 繰返しごとに転調してゆくもの。(7)なぞのカノン 記譜された1声部から複数の声部が導き出されるもの。指示句(カノン)や複数の音部記号で暗示される場合が多く,判じ物的な性格が強い(図4)。その他,先行・後続各声部がそれぞれ2声以上から成るもの(各2声の場合,二重カノン),声部群単位で模倣されるもの(群カノン),模倣を行わない声部を含むもの(混合カノン。図1),音程でなくリズム型が模倣されるもの(リズム・カノン)などがある。
カノンの歴史は,14世紀イギリス,フランス,イタリアの世俗的な多声声楽曲(カッチャ,フーガ,ロンデッルス,ロンドーなど)に始まる。現存最古の例は1310年ころの《夏のカノン》である。カノン技法は15世紀にネーデルラント楽派のモテットやミサ曲,シャンソンなどで一つの頂点を迎え,17世紀前半に至るまで数多くの技巧的な作品が書かれた。バロック時代には器楽にも盛んに応用され,特にJ.S.バッハの晩年の作品群で各種の技法が集大成された。18~19世紀にもカノンは散見されるが,むしろ楽曲の中で部分的に使われることが多い。18世紀以後カノンは既に歴史的技法であり,理論的ないし教育的関心の対象となっていた。20世紀になると,この技法は特に十二音音楽やセリー,新古典主義などにおいて,再び創作面で重視されるようになった。
〈カノン〉はこのほか,楽器名として古代ギリシアのモノコルド(一弦琴)や中世のチター属弦楽器の一種をさす場合,ビザンティンの典礼聖歌の一詩型,また,カトリックのミサで司祭の唱える奉献の祈りの典文のこともさす。
執筆者:土田 英三郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
音楽用語。「規範」を意味するギリシア語に由来し、もっとも厳格な模倣対位法様式による作曲技法をさす。この意味でのカノンは二つ以上の声部から成り立ち、1声部(先行声部)の旋律を他の声部(後続声部)が厳格に模倣してともに進むもので、いわゆる輪唱はもっとも単純なカノンの一種である。声部の数により2声カノン、3声カノンのように表示されるほか、先行声部と後続声部との音程関係により、5度のカノン、8度のカノンなどとよばれる。カノンには後続声部の模倣の仕方によってさまざまな種類がある。単独で、あるいは組み合わせて楽曲全体またはその一部に用いられる。
(1)平行カノン 直行カノンともよばれ、後続声部は先行声部を一定の音程間隔でそのまま模倣する。
(2)反行カノン 先行声部の旋律を上下に転回して模倣するもので、転回カノンともいわれる。
(3)逆行カノン 後続声部は先行声部の旋律を末尾から最初へ逆行して模倣する。
(4)拡大カノン・縮小カノン 先行声部の旋律の各音符を一定の比例で拡大または縮小して模倣する。
(5)螺旋(らせん)カノン 直行カノンの一種。後続諸声部が次々に転調を続けていくもので、圏カノンまたは循環カノンともいう。
(6)群カノン 二つ以上の先行声部が同時に始まり、後続声部がそれらを同時に模倣する。先行声部の数によって二重カノン、三重カノンなどとよび、これに対して先行声部が一つの場合をとくに単純カノンということがある。
(7)無限カノン カノンの終わりがまた冒頭につながり、模倣が続いていくもので、輪唱もこの一種である。これに対して終止部をもつ場合を有限カノンという。
(8)混合カノン 模倣に加わらない付加的声部をもつもの。
(9)謎(なぞ)カノン 先行声部のみが記され、後続声部の入り方や模倣の方法は謎のようなことばや記号で指示されている。
音楽史においてはカノンの手法はすでに12世紀にみられるが、15世紀から16世紀中葉にかけてのフランドル楽派において非常に発達し、たとえばオケゲム作といわれる『デオ・グラツィアース』は36声のカノンである。バロック時代には、J・S・バッハの『音楽の捧(ささ)げ物』(BWV1079)や『フーガの技法』(BWV1080)などの作品において、カノンはふたたび技法的および芸術的高みに達し、その後ハイドンやモーツァルト、ベートーベンやブラームスらもこの手法を作品に用いている。また、現代音楽でもカノンは重要な作曲技法の一つである。
[寺本まり子]
美術用語で「規準」を意味するギリシア語に由来し、人体比例(プロポーション)のことをいう。普通、もっとも理想的な調和のとれた人体比例は八等(頭)身であるとされ、それは八等身のカノンといわれる。八等身とは、直立した人体の頭の頂点から顎(あご)の先までの垂直距離で身長を割った数が8になるような人体の比例である。といっても、単にそれが8になるだけでは理想的なカノンといえない。それに応じて身体各所の長さも全体との比例において整っていなければならない(たとえば脚(あし)全体の長さが身長の2分の1、膝(ひざ)までの長さがさらにその2分の1、というように)。古くから画家や彫刻家が人体を表現描写する際に問題とされてきており、時代や地域によってさまざまなカノンが考えられてきた。古代エジプト美術にも独自のカノンがみいだせるし、古代ギリシアでは多くの彫刻家によってカノンが研究された。紀元前5世紀のポリクレイトスが『カノン』という書物を著した(現存せず)ことが知られており、彼はその原理を七等身のカノンによって『槍(やり)をかつぐ男』(ローマ時代の模刻が残っている)の像に具体化した。その後ギリシア彫刻では八等身のカノンがリシッポスらの作品に表された。カノンの研究はさらにローマ美術やビザンティン美術にも受け継がれた。またルネサンスではレオナルド・ダ・ビンチやデューラーらによって実測的な人体比例の詳しい研究が進められた。
[鹿島 享]
『中尾喜保著『生体の観察 体幹・体肢・生体計測編』(1965・メヂカルフレンド社)』
キリスト教用語。ギリシア語kanōn(カノーン)は、葦(あし)、測桿(そっかん)を意味するシュメール語に由来し、規範、原則を意味する。アンフィロキウス(4世紀末、イコニオムの主教)以来、聖書を正典(カノン)とよぶ。教理の基準として、信仰と生活に対する特別な権威をもつ書物として、信仰的承認の対象である。聖書の全体像が、「イエスはキリスト(救世主)である」との真理を決定的に証言していると信じられる。カノン自体を崇拝する行為は逸脱である。カノン結集の歴史は複雑である。『旧約聖書』はヤムニア会議(1世紀末、ユダヤ教)の結果を継承し、のちにトリエント公会議(1546、カトリック)で外典をカノンに追加した。『新約聖書』は、古代の異端思想との対決の過程で内容の選定がなされ、カルタゴ会議(397)で決定済みの結集の内容をトリエント公会議で改めて議決した。日本聖書協会の『旧約聖書』の型は、配列は七十人訳―ブルガータ訳の伝統を受けつつ、内容はユダヤ教聖書と一致する型である。
[川又志朗]
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…ローマ時代の多くの模刻像で伝えられる《ドリュフォロス(長槍を担ぐ人)》(ナポリ国立考古学美術館その他),《ディアドゥメノス(鉢巻を締める人)》(アテネ国立美術館その他)など,運動競技者像の原作者。人体の理想的なプロポーションを追求し,それを理論化して《カノン(規範)》を著したが,《ドリュフォロス》は,この理論を具象化したものという。また彼は,これらの像において,体重を支える脚(支脚)と膝を軽く曲げて遊ぶ脚(遊脚)との対比を明確にし,立像に微妙な動きとリズムを与えたという。…
…ダンテのあとを受けたペトラルカやボッカッチョの時代の14世紀に,初めは北イタリアのベローナやミラノの宮廷で,やがてはフィレンツェを中心に,マドリガーレ,バラータ,カッチャなどの形式による世俗歌曲が,多くは2~3声で,盛んに作られた。マドリガーレはイタリア独自の形式,バラータは,おそらく13世紀のラウダに現れたものから発展し,同時代のフランスのビルレーの影響を色濃く受けたもの,カッチャは,西ヨーロッパにかなり広がっていたカノンの技法を発展させたものである(《夏のカノン》)。 盲目の音楽家ランディーニFrancesco Landiniは,14世紀のイタリア音楽を代表する。…
…アルゴス派の巨匠ポリュクレイトスは,〈コントラポスト(対比的均斉)〉の手法によって,男性立像の表現に古典的解決を与えた。彼はまた人体のプロポーションを研究して《カノン(基準)》を著し,このカノンに基づいて《槍をかつぐ青年》や《勝利の鉢巻を結ぶ青年》を制作した。前4世紀の後期クラシックに入ると,彫像の形姿はしだいにより優しく軽快なものに変わり,気品と自信に満ちた神の顔は,より人間的・情緒的な表情を帯びてくる。…
…このように新約聖書の諸文書は,初期のキリスト教会においてさまざまに形成された伝承に基づいて,それぞれのイエス理解と福音の喜びとを人々に伝えようとする信仰の証言であった。
【聖書の正典化】
〈正典(カノン)〉とは信仰,生活,教義に基準を与える権威が教団によって公認された特別の書物のことであり,その他の書物との区別がなされる。ユダヤ教およびキリスト教はこのような正典概念を形成し,また維持した。…
… 音楽史においてフーガという用語が登場するのは14世紀初めに声楽形式としてであるが,必ずしも特定の書法を意味してはいない。15世紀ころにはとくにカノン(厳格模倣形式)を意味するものとして用いられ,最初の音楽辞典として知られる《楽語集》(1473ころ)を編んだJ.ティンクトリスもこの意味でフーガを規定している。しかし,16,17世紀においては模倣書法の総称として用いられることも多い。…
※「カノン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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