日本大百科全書(ニッポニカ) 「カフェー」の意味・わかりやすい解説
カフェー
かふぇー
café フランス語
カフェとも記す。日本では客席にホステスをはべらせて洋酒・洋食を供した、今日のキャバレーに類する、昭和初期の飲食店をいう場合が多い。カフェーは本来はコーヒーの意味であるが、転じて17世紀のヨーロッパに広がったコーヒーを飲ませる店(喫茶店)、やがては食事・酒を出す店をもいうようになった。アメリカでは軽食堂、酒場、ナイトクラブなども広くカフェーと称する。日本の喫茶店の始まりは、1888年(明治21)4月、東京・下谷(したや)西黒門町にできた可否茶館(カッヒーちゃかん)。カフェーを名のる第一号は、1911年(明治44)3月、東京・京橋区日吉(ひよし)町(現在の銀座8丁目)に開店したカフェ・プランタンで、若い画家や詩人たちの欧米風のたまり場、会話の場を求める声を受けて誕生した。洋酒・洋食もあって、女子従業員が給仕した。続いてライオン、パウリスタ、大阪ではキサラギ、ミカドができた。全盛期は1929、30年(昭和4、5)ごろから35年ごろまでの昭和の初めで、大阪のカフェー資本が東京へ乗り込み、露骨な性的サービスを売り物とするようになった。ネオン、ジャズ、そして脂粉の香り、嬌声(きょうせい)、媚態(びたい)は、不景気と失業の暗い世相から逃避したい大衆の心をひきつけ、「カフェの女給をワイフに持てば……」といった歌がはやった。32年ごろの全国のカフェー店数は3万軒、女子従業員は8万9000人にのぼった。
世界では9世紀ごろ中東のメッカなどにできたのが最古。ヨーロッパでは1647年ベネチアに初めて開店した。勃興(ぼっこう)期のブルジョアに迎えられ、18世紀にはパリに600軒、ロンドンでは2000軒を超えた。芸術家や政経人が集まり、市民のサロンの役割を果たし、新しい芸術、思想、文化を生み出す場となった。啓蒙(けいもう)哲学者ディドロが通ったパリの「プロコープ」は百科全書誕生の場となり、「フォワ」で弁護士デムーランが「暴政に武器をとれ」と演説した2日後バスチーユが襲撃された。ボードレールの『悪の華』の標題が決められたのは「ランブラン」、ロンドンの「ロイズ」からはロイズ保険機構が生まれた、等々、文化史的な話題が多い。
[森脇逸男]
『ゾンマー・バンメル、ローゼ・マリー著、マンフレート・ハム写真、青木真美訳、中村利治監訳『カフェの光景――世紀末ヨーロッパの主役たち』(1991・TOTO出版)』▽『渡辺淳著『カフェ――ユニークな文化の場所』(1995・丸善)』▽『クラウス・ティーレ・ドールマン著、平田達治・友田和秀訳『ヨーロッパのカフェ文化』(2000・大修館書店)』▽『小林章夫著『コーヒー・ハウス――18世紀ロンドン、都市の生活史』(講談社学術文庫)』▽『菊盛英夫著『文学カフェ』(中公新書)』