アメリカの美術批評家、美術史家。ワシントンに生まれる。1962年、ボストンのウェルズリー大学卒業後ハーバード大学大学院に進学、クレメント・グリーンバーグに師事して1964年に修士号、1969年に博士号を取得した。博士論文はデビッド・スミス論。この論文を改訂した『ターミナル・アイアン・ワークス――デビッド・スミスの彫刻』Terminal Iron Works; The Sculpture of David Smith(1971)が最初の著作であり、同書の冒頭に記されている「私の現代絵画や彫刻についての知識は、主として、クレメント・グリーンバーグやマイケル・フリードの評論および彼らとの議論を通じて培われた。彼らの援助によって、私は60年代初めに批評を書くようになった」ということばは、クラウスがどのような背景のもとに批評家として出発したのかを物語っている。
博士号取得後、1969~1976年、美術雑誌『アート・フォーラム』Art Forumの編集にたずさわり、同誌を中心に多くの美術批評を発表する。当時同誌では気鋭の批評家だったフィリップ・レイダーPhilip Leider(1929― )や後に写真家として名をなすジョン・コプランJohn Coplans(1920―2003)が編集長を務め、同僚にはハーバードでの学友だったフリードのほか、後も行動をともにする批評家アネット・マイケルソンAnnette Michelson(1943―2018)がいた。アメリカの美術界を理論的にリードしていた同誌にかかわり、自らの立場や理論を見直す過程で、クラウスは徐々にグリーンバーグが提唱するモダニズムから離れ、ミニマリズムの解釈をめぐってポスト・モダニズムの立場に転じていく。
かねてから商業誌での批評活動に限界を感じていたクラウスは1976年、『アート・フォーラム』を辞め、マイケルソンとともに美術理論誌『オクトーバー』を創刊、同時に編集委員に就任する。エイゼンシュテインの映画のタイトルにちなんで命名された同誌には、精神分析や記号論、ポスト構造主義やポスト・モダニズムなど当時の最先端に位置していた理論的成果にもとづいた論文が多数発表され、アメリカの美術史研究・美術批評に大きなインパクトを与えた。その中心を担っていたクラウスは、同誌のスポークスマン役を果たすと同時に、自ら多くの論文・著作を発表した。ロダンからアースワークまでを広く視野に収めた『現代彫刻の展開』Passages in Modern Sculpture(1977)、アメリカの美術史・美術批評において長らく支配的な地位を占めていた実証主義や歴史主義の徹底的批判をもくろんだ『オリジナリティと反復』The Originality of the Avant-Garde and Other Modernist Myths(1985)、ラカンの鏡像段階理論を美術の作品解釈へと応用した『視覚的無意識』The Optical Unconscious(1993)、無意識という観点に拠ってピカソにおける「分析的キュビスム」から「総合的キュビスム」への移行を読み解いた『ピカソ論』The Picasso Papers(1998)などの代表的著作は、いずれも同誌で積み重ねた理論的実践の成果である。徹底したポスト・モダニズムの立場から書かれ、また言語学の緻密な援用やバタイユやラカンの強い影響などを特徴とするこれらの著作には、かつて信奉していたモダニズムとの緊張関係が溢れる半面、セルフポートレート的な要素があることも指摘される。
1975年にニューヨーク市立大学ハンター校教授、1992年よりコロンビア大学教授を務める。著作はアメリカ以外でも評価が高く、日本やフランスでも翻訳されている。
[暮沢剛巳]
『小西信之訳『オリジナリティと反復』(1994・リブロポート)』▽『松岡新一郎訳『ピカソ論』(2000・青土社)』▽『Terminal Iron Works; The Sculpture of David Smith (1971, MIT Press, Cambridge)』▽『Passages in Modern Sculpture (1977, Thames and Hudson, London)』▽『The Optical Unconscious (1993, MIT Press, Cambridge)』▽『林道郎著「ロザリンド・クラウス――モダニズムを超えて」(『美術手帖』1996年2月号所収・美術出版社)』
ハンガリー、オーストリアの物理学者。ハンガリーのフェイエール県生まれ。ブダペストにあるエトベシュ・ロラーンド大学で理論物理学を、1985年ブダペスト工科大学で電子工学を専攻して卒業。同大学院を経て、1988年にウィーン工科大学に移った。1991年にレーザー物理学で博士号を取得。1993年に大学教授資格(ハビリタチオン)を取得して研究を続け、1996年ウィーン工科大学の助教授、1999年に教授に就任。2003年ドイツのマックス・プランク量子光学研究所長、2004年ルートビヒ・マクシミリアン大学(LMU)実験物理学科とレーザー物理学科の教授に就任した。2006年マックス・プランク国際研究大学院先端光量子科学研究科の初代科長、2015年LMUミュンヘン先端レーザー応用研究センター所長、2019年ブダペスト分子フィンガープリンティング研究センター所長。
研究を本格化させた1980年代後半から、きわめて波長の短い超高速パルスの研究に取り組み、パルスをストロボのように照射することで化学反応における原子の動きを捕捉(ほそく)しようとしていた。しかし、当時はフェムト秒(10-15秒、1000兆分の1秒)レベルのパルス光しかなく、電子の動きの解明はむずかしかった。1988年に、フランスの物理学者アンヌ・リュイリエが、赤外光レーザーを希ガスに照射すると、もとの波長の数十倍も短い波長をもつ光パルスが減衰することなく連続的に発生することを報告。このパルス光は「高次高調波」(HHG:High Harmonic Generation)とよばれ、持続時間(パルス幅)がアト秒(10-18秒、100京分の1秒)のパルス光を取り出せると期待されていた。これを実現したのがクラウスらで、2001年にパルス幅が650アト秒の1個のパルス光を取り出すことに世界で初めて成功した。ちょうど同じころパリ・サクレー研究所のピエール・アゴスティーニが、同じく希ガスのアルゴンにレーザーを照射することで、250アト秒のパルス光が連続的に発生することを実験で確認した。アト秒物理学の進展で、化学結合する材料における電子の動きを、電子レーザーの出力を調整することで確認することができるようになり、がん検出などの医療診断や、医薬品開発に向けた物性研究、半導体材料の開発につながると期待されている。
クラウスは、オーストリア、ハンガリー、ヨーロッパの科学アカデミー会員。2009年アメリカ光学会会員となり、2012年ハンガリー功労勲章、2013年キング・ファイサル国際賞(化学部門)、オットー・ハーン賞、2019年ウラジレン・レトホフ・メダル、2022年ウルフ賞を受賞。2023年、アト秒物理学を切り開いた、「物質中の電子ダイナミクスを研究するためのアト秒パルス光生成に関する実験的な手法」に関する業績で、アゴスティーニ、リュイリエとともにノーベル物理学賞を受賞した。
[玉村 治 2024年2月16日]
ベルギー、フランドル(オランダ語圏)の作家、詩人、劇作家、演出家、画家。実験的詩集でデビュー、パリやローマに住んで前衛芸術運動「コブラ」の一員として文学、絵画、演劇に熱中。初期の戯曲『朝の花嫁』(1955)には、世代が違うゆえの家族間の衝突、エディプス・コンプレックス、登場人物たちの頭上に差し迫ってくる没落の運命というクラウスのその後の作品に一貫する主要テーマがすでに織り込まれている。戯曲『朝の花嫁』、心理小説『冷ややかな恋人』(1957)、戯曲『砂糖』(1958)などの初期の作品から近作の『クラウス全詩集』(1994)、長編『ベルギーの悲しみ』(1983)、『ベラドナ――美しき女』(1994)、『噂(うわさ)』(1996)に至る作品群はフランドル地方の土着性あふれる豊かな文学の世界。生後18か月から11歳まで尼僧院の寄宿学校で過ごしたクラウスには保護された環境での生活経験がなく、肉親の温かさのなかで育った者に比べると、まったく別の情緒的な発育をしたことになるが、このことは小説のメタファー(暗喩(あんゆ))として役だつ。10歳の主人公が尼僧院寄宿学校から戦時(第二次世界大戦)中の思春期、そして成人して作家としてスタートする成長の記であり、戦前・戦中・終戦直後の人々の人生史でもある800ページの自叙伝長編『ベルギーの悲しみ』(英・仏語に翻訳された)はベルギーの大いなる文化遺産といわれる。1960年代にアフリカの某国の叛乱(はんらん)軍を鎮圧すべく遠征した軍隊から脱走し、病む身となって生まれ故郷の汚職と陰謀の闊歩(かっぽ)する村に帰ってくる主人公への村人の反応を主題にした『噂』には、処女作『メッシエル家の人々』(1950)から一貫する土着的具体性があり、個人的な持ち味、個人的具体性を正確に確保すればするほど、国際性、世界性につながっていくとする、地方主義文学作家クラウスの真髄がここにある。オランダ文学大賞(1986)ほか七つの国家文学大賞受賞。
[近藤紀子]
ドイツの社会学者、イエズス会士。バイエルン(ババリア)地方ベンベルクに生まれる。ケルンおよびロンドン大学で学位を得たのち1930年(昭和5)に来日、上智(じょうち)大学経済学部長を務める。経済学者の中山伊知郎(なかやまいちろう)、東畑精一(とうはたせいいち)、民法学者の我妻栄(わがつまさかえ)らと交流、『カトリック大辞典』(第1巻初版1940年)の編集、『モヌメンタ・ニッポニカ(日本文化誌叢(ぶんかしそう))』の創刊(1938)などを通してカトリック文化に関する知識を日本に伝え、同時に日本文化を海外に紹介した。昭和21年雪の箱根路で急逝。『スコラ学・ピューリタン主義・資本主義』などの著書がある。
[磯見辰典 2018年2月16日]
『クラウス著、小林珍雄訳『中世経済倫理序説』(1944・伊藤書店)』▽『『上智大学史資料集 第3集』(1985・上智大学)』
オーストリアの批評家、詩人、劇作家。ボヘミアの裕福なユダヤ人の家に生まれる。1899年創刊の個人誌『炬火(たいまつ)』(ファッケル)によりながら、以後、ナチス・ドイツのオーストリア併合以前までの36年間、痛烈な風刺と巧みな逆説を駆使しつつウィーンにおいて熾烈(しれつ)な著述活動を展開した。早くからことばの退廃という現象に着目し、己(おの)が鋭敏な言語感覚に基づいて、形骸(けいがい)化したことばがおのずから露呈する社会の腐敗と精神の驕慢(きょうまん)を糾弾したが、その特異な批評原理はアドルノやベンヤミン、またウィットゲンシュタイン以後の言語哲学に多大の影響を与えた。作品は多岐にわたるが、戦争の根源をえぐって比類のない浩瀚(こうかん)なモンタージュ劇『人類最期の日々』(1964、発表は1921)およびナチズムに対する黙示録的予言の書『第三のワルプルギスの夜』(1952、発表は1921)を代表作とする。
[池内 紀]
『池内紀他訳『カール・クラウス著作集』(1971・法政大学出版局)』▽『佐藤康彦他訳『第三のワルプルギスの夜』(1976・法政大学出版局)』
チェコの政治家。プラハに生まれる。プラハの経済大学卒業後、経済の専門家としてチェコスロバキア科学アカデミー経済研究所、国立銀行、チェコスロバキア科学アカデミー予測研究所に勤務。1989年の政治変動の過程で市民フォーラムに参加。同年12月にチェコスロバキア連邦政府蔵相に就任し、急進的な経済移行政策である「ショック療法」を唱えた。1991年4月に市民フォーラムから分離した市民民主党の党首となり、1992年の選挙後、チェコ首相に就任。チェコ共和国独立後もその地位にあったが、1997年12月に市民民主党の選挙資金問題の責任をとって辞任した。2003年3月に行われた大統領選挙に当選、チェコの大統領に就任した。2008年に再選された。
[林 忠行]
ハンガリー出身のイギリスの女流ピアノ奏者で、モーツァルト演奏家として日本では非常に人気が高い。ブダペスト生まれ。同地の音楽院でバルトークやコダーイに学び、のちベルリンでシュナーベルに師事したのち、演奏活動に入る。1936年バイオリンのゴールドベルクと組んで世界各地に楽旅、このコンビで同年(昭和11)初来日し、絶賛された。第二次世界大戦中、演奏旅行中のジャワで日本軍に抑留され、3年間の収容所生活を体験。戦後はもっぱら独奏者として活躍、63年(昭和38)に再来日し、円熟した芸風で第一級の女流奏者であることを示した。レパートリーは広くはないが、モーツァルトやシューベルトでは温かみのある感情表出に独自性を発揮した。
[岩井宏之]
オーストリアの指揮者。ウィーンに生まれ、同市の音楽院を出て、1913年からリガ、ニュルンベルク、グラーツ、フランクフルトの歌劇場の指揮者を務め、29~34年ウィーン国立歌劇場総監督となる。その後、ベルリン国立歌劇場、バイエルン国立歌劇場を経て、47年にふたたびウィーン国立歌劇場音楽監督に就任。リヒャルト・シュトラウスと親交があり、彼のオペラの解釈には定評があった。また、クラウスとウィーン・フィルハーモニーが演奏するウィンナ・ワルツは、その気品において天下一品と評された。
[岩井宏之]
ドイツの俳優。ゲストゥングスハウゼンに生まれる。1913年からベルリンのドイツ劇場(一時期ベルリンの州立劇場)を中心に活躍、48年にウィーンのブルク劇場に転じた。性格俳優として知られ、与えられた役柄になりきって不気味と感じられるほどの深みを示した。第二次世界大戦後ドイツとオーストリア各地の大劇場に出演。また、性格描写の優れた才能は映画でもよく発揮され、『カリガリ博士』(1919)や『ブルク劇場』(1936)は日本の映画ファンをも魅了した。
[宮下啓三]
オーストリアの批評家,詩人,劇作家。ボヘミアのイッチンに,ユダヤ人の製紙工場主ヤーコプの第9子として生まれた。1877年家族がウィーンに移住してから,生涯をウィーンで送った。大学で法学と哲学と文学を学びながら新聞・雑誌に寄稿を開始し,以後死ぬまで,ウィーンというドイツ語文化圏の中でも独特の位置を占める都市の,文化伝統をになった文筆活動と朗読とに生涯をかけた。その活動はすべて〈倫理〉としての文化というただ一つの志向を,オーストリア・ハンガリー二重帝国の崩壊と新しいオーストリアおよびドイツ・ワイマール共和国の危機の中で,そのときどきのアクチュアルな問題と妥協を許さぬ対決をすることで展開したものである。それは当時のウィーン文化の共通の特性であり,例えば言語表現の絶対的倫理を求めたウィトゲンシュタインの姿勢ともつながっている。クラウス自身も言語の虚偽と徹底的に戦ったことから,一方ではジャーナリズムと対決し,他方では自分の言語を痛烈な風刺的言語に磨き上げていった。それは,文化が専門分化した西欧市民社会の中で,逆に遅れたオーストリア・ハンガリー二重帝国の未分化の文化伝統,例えば劇作家と俳優と歌手を一身に兼ねて風刺的即興演技を行ったネストロイのような姿勢に新しい意味を与え,市民文化に対して批判的機能を果たした。その意味でクラウスが果たした役割は,近代西欧市民文化が技術化してユダヤ人のジェノサイド(大量虐殺)に見られるような黙示録的崩壊を遂げた現象を内側から証言することによって,文化再生の使徒となったものといえる。彼のそうした活動は主として,1899年4月に創刊して死ぬまで続けた個人雑誌《炬火Die Fackel》を舞台として行われた。機知と風刺を武器としてあらゆる領域の腐敗と戦ったこの雑誌の特徴は,ウィーンの警察長官や悪徳ジャーナリストに対する攻撃に,典型的に現れている。クラウスはこの雑誌をほとんど一人で書いたが,F.ウェーデキントやストリンドベリなど独特の言語表現を行った作家の作品も掲載されている。さらに言語の純粋性を保持するためのアフォリズム集《宣言と反論》(1909),オーストリアの崩壊を仮借ない筆致で描いた《人類最後の日々Die letzten Tage der Menschheit》(1919),第三帝国に対する怒り《第三ワルプルギスの夜》(1952)など,一貫して批判的姿勢の文筆活動を行ったほか,700回にわたって自作やオッフェンバックなど他の作家の作品の朗読会を行い,ネストロイ的手法の実践による文化の倫理的再生を図った。
執筆者:平井 正
ドイツの俳優。1907年アーヘンでデビュー,ニュルンベルクでモイッシAlexander Moissiと《ハムレット》を共演した縁で,ベルリン,ウィーンへの道がひらかれ,15年以降は映画(《カリガリ博士》等)にも出演,古典・現代物いずれも手堅くこなした。《ユダヤ人ジュースJud Süss》等,ナチスの映画に協力したため,約10年間追放処分をうけた。格調正しいその芸風はドイツ演劇黄金時代の面影を伝え,また自叙伝は多彩な人脈を浮彫にする。
執筆者:小宮 曠三
ドイツのトリールに生まれ,広い展望と鋭い批判力をもつ教会史家,芸術史家,エッセイストとして活躍したカトリック司祭。1872-78年シュトラスブルク大学教授,1878-1901年フライブルク大学教授。ローマのカタコンベ解説(1873),聖画像学最初の総括的論述(1900)等で有名。晩年宗教的カトリシズムと政治的カトリシズムを区別し,教皇庁中心の教会統治に落胆していたカトリック知識人を,匿名または偽名の数多くのエッセーで激励した。
執筆者:青山 玄
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ロシア帝国内のドルパト(現在はエストニアのタルトゥー)にドイツ系の住民の子として生まれる.早くに両親を亡くしたので,首都のサンクトペテルブルクの薬局の徒弟となる.1815年にドルパトに戻り,同地の大学の薬学の試験に合格した.1817年サラトフに移り薬局助手を務める.1821年に結婚し,1826年カザンに自分の薬局を開業して移住.1831年ドルパト大学の化学講座の副手になり,化学を本格的に勉強しはじめ,1837年には修士論文を提出.翌年,カザン大学の化学講座の助手に採用され,新設の化学実験室の管理者になる.1838年に博士論文を提出して,化学講座の助教授に昇進.1852年ドルパト大学の薬学講座の正教授に任命された.1840年から白金精錬の残さの研究をはじめ,1844年に白金族の新元素の単離に成功し,ロシアの古名にちなんでルテニウムと命名した.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
出典 (社)全日本ピアノ指導者協会ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者)について 情報
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出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…初期キリスト教徒の男女に着用され,身幅も袖幅も広く,丈も長い。一般に身ごろと袖に〈クラウス〉という条飾をトリミングした。4世紀ごろからダルマティカは裁断の上にも新しいくふうが行われ,5世紀以来ビザンティン帝国の公服や司祭服となり,中世初期の西ヨーロッパにも継承された。…
…シャネル・スーツのトリミングやセーラー服の蛇腹(じやばら)等はブレードを効果的に使った例である。古代ローマの衣服トゥニカにつけた紫の縁取りや線条の飾りクラウスclavusが起源といわれ,これがしだいに縁飾りの部分に残っていく。16世紀のヨーロッパでは貴族の間に銀のテープ,金モールなどの縁取りが流行したが,フランスではルイ14世時代に宰相マザランによって使用が禁止され,それにかわってリボンループを衣服の装飾に使うようになった。…
…イタリアではムリR.Murri(1870‐1944)がカトリックの政治参加と民主主義,社会主義の導入を提唱した。ドイツでの運動は活発でなかったが,F.X.クラウスその他によって宗教的心情の回復が説かれた。教皇レオ13世(在位1878‐1903)はこれらの動向に比較的寛容であったが,次のピウス10世(在位1903‐14)は最初から強硬で,ヒューゲルらを除き聖職者をほとんど破門にし,禁書を命じた。…
…R.シュトラウスと協同してオペラに幻想的世界をつくりだしたホフマンスタール,フロイトの影響下で独自の心理描写を展開したシュニッツラーらがその典型である。文学においても多くの作家はたとえばカール・クラウスの雑誌《炬火》に見られるように,第1次世界大戦の悲惨さと古いオーストリアの解体の意識を担いながら,内面的心理の葛藤を社会批判に結びつけたのである。さらにまた哲学の世界において形式論理学を武器に伝統的な形而上学を批判し,この哲学的立場を法学,心理学,民俗学,経済学,歴史学などにおいて展開させ,多くの場合実証主義的な〈ウィーン学団〉を確立した(論理実証主義,オーストリア学派)。…
※「クラウス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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