日本大百科全書(ニッポニカ)「喫茶店」の解説
喫茶店
きっさてん
コーヒー、紅茶、酒類以外の各種飲料、ケーキ、果物のほかサンドイッチなど軽食を供する店。
[佐藤農人]
歴史
1551年にトルコのイスタンブールでカッフェーと名づけて開かれたのが始まりといわれる。そのトルコから各国にコーヒーが輸出されて、16世紀末にはエジプトのカイロに3000に及ぶコーヒー店ができ、17世紀なかばにはイギリス、フランス、アメリカなどにも普及した。とくにイギリスのコーヒーハウスは、情報文化の中心的役割を果たし、政治・社会・文化に深くかかわりをもった。18世紀のロンドンには2000以上の店があったという。その後ヨーロッパではしだいに芸術家たちのたまり場になってキャバレー的性格を帯びた。
アメリカにおける喫茶店としては、ドラッグストアに付属してケーキ類を主に供する店が多かったが、多種類のコーヒーとソフトドリンクを主に軽食も供するセルフサービス方式のチェーン店が大都市を中心に展開するようになった。フランスやイタリアなどには、たばこ店を兼ねてキャンディーや絵葉書を売ったり、ピッツェリーア(ピッツァ屋)を兼ねたり、朝早い勤め人や労働者に朝食を供する店もある。ヨーロッパ北部の日照時間の短い国では、屋外の歩道にテーブルや椅子(いす)を置いて日光浴もできるレストランと兼ねた店もある。
日本では、江戸時代に水茶屋とよばれるものがあり、明治になって新聞縦覧所、ミルクホールなどが現れ、1878年(明治11)神戸・元町の放香堂でコーヒーを売るとともに店内で飲ませたという記録がみられる。そして86年東京・日本橋に洗愁亭というコーヒー店ができたといわれるが、近代的喫茶店としては88年東京・下谷(したや)黒門町に開店した可否茶館(カッヒーちゃかん)が最初とされている。大正時代に入って喫茶店はその数を増し、神戸にはコーヒーを飲ませる屋台店なども現れたが、しだいに純粋の喫茶店と、酒類や洋食などを供し女給を置いてサービスするカフェーとに分かれた。
[佐藤農人]
第二次世界大戦後の日本の喫茶店
第二次世界大戦後、カフェーはキャバレーやクラブへとその業態を変え、喫茶店は昭和30年代以降、経済の発展とともに急速に店舗数を増やした。そして、昭和40年代の前半に生まれた、フードやアルコールにまでメニューを広げたスナック喫茶で一つの頂点を迎える。しかし、その後のインスタントコーヒーの普及によって、喫茶店の客数の伸びは鈍化する。昭和40年代後半になると、インスタントコーヒーに対抗して品質を前面に打ち出した、コーヒー専門店が急速に伸びてくる。こうして喫茶店、とりわけコーヒー専門店は、低い原価率で儲(もう)かる業種として第二の頂点を築く。1981年(昭和56)には、喫茶店の総店舗数16万店となり、店舗の数では飲食店業界のなかで第1位となった。
しかし、この隆盛も1982年ごろからは店舗間の競合が激しくなり、出店数も頭打ちになっていく。店舗の出店費用の増大、人件費の高騰等が利益を奪っていったのである。この状況を打開するため、喫茶店はふたたびコーヒーに加えて、フードメニューを強化した。しかし、この分野には1970年代から急速に店舗数を増やしたファミリーレストランやファーストフード店という強力な競争相手がいる。コンビニエンス・ストアもその一つで、喫茶店のフードメニューでは太刀打ちできなかった。
この局面を打開したのが、昭和50年代後半に生まれたセルフサービス方式のコーヒーショップである。低価格(150~200円)のコーヒーを中心に、原材料費と人件費を抑えることで出店費用の高い都心にも出店できるというメリット(利点)をいかして、2000年(平成12)には2500店以上にまで成長した。低価格、セルフサービス方式のコーヒーショップには、海外の有力チェーンも参入している。
こうしたコーヒーショップとは逆に、数は少ないがコーヒー専門店や紅茶専門店も堅調な業績を示している。また、地方都市ではフードメニューを強化したレストランタイプのカフェーが、在来の喫茶店にとってかわっている。このように、喫茶店は(1)低価格、セルフサービス方式のコーヒーショップ、(2)品質重視のコーヒー専門店、(3)地方都市中心のレストランタイプのカフェー、といった三つのパターンに分化しているといってよいであろう。
[永嶋万州彦]
『小林章夫著『コーヒー・ハウス』(1984・駸々堂出版)』