ガット(GATT)

農林水産関係用語集の解説

ガット(GATT)

General Agreement on Tariffs and Trade(関税及び貿易に関する一般協定)の略。1948年に発足し、貿易面から国際経済を支える枠組みとして機能。我が国は55年に加入した。この協定の基本原則は、貿易制限措置の削減、貿易の無差別待遇(最恵国待遇、内国民待遇)とされている。ガットは正式な国際機関ではなかったが、これを拡大発展させる形で正式な国際機関としてのWTO(世界貿易機関)が95年1月に発足した。94年時点のガット及びその関連文書はWTO協定に取り込まれている。

出典 農林水産省農林水産関係用語集について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ガット(GATT)
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GATT

関税および貿易に関する一般協定General Agreement on Tariffs and Tradeの略称。関税その他の貿易における障害や差別待遇を取り除き、自由、無差別な国際貿易の促進を図ることを目的とした多数国間協定。国際通貨基金(IMF)、国際復興開発銀行(IBRD、通称「世界銀行」)とともに第二次世界大戦後のブレトン・ウッズ体制を支えてきた柱の一つであり、1947年10月に調印、翌1948年1月に発効した。事務局本部をジュネーブに置き、発足当時の加盟国数は23か国であった。ガットは1994年まで活動を続けてきたが、ガットのウルグアイ・ラウンドでWTO協定が締結され、1995年1月世界貿易機関(WTO)が発足、ガットはWTOに引き継がれることになった。2008年現在のWTO加盟国数は153。日本は1955年(昭和30)に加盟した。[村上 敦]

歴史的背景

第二次世界大戦後、世界経済は荒廃をきたし、その復興が切迫した課題となっていた。こうした状況のもとで、アメリカは強大な経済力を維持し、他国が戦争によって疲弊したことから国際社会でのアメリカの相対的な地位は上昇した。そのためアメリカはその国力を背景にして世界経済再建の中心的役割を果たすこととなった。そしてその際もっとも重要視されたのは、戦前の世界経済のブロック化、為替(かわせ)切下げ競争、関税引上げ競争などによる国際貿易の縮小に対する反省であった。したがって、世界経済の再建には、国際貿易を円滑にすることによって経済の活性化を図ることが不可欠であるという認識が生まれ、それを基にして、(1)為替安定化と為替制限の撤廃、(2)経済復興と経済開発のための資金供与、(3)自由貿易体制の確立、をそれぞれ目標とする機関の設立が検討された。これらのうち、(1)はIMF、(2)はIBRDとして結実し、(3)についても当初国際貿易機構(ITO)の設置が予定されていた。ガットは、もともとこのITOの構想のもとに検討されていた協定の一部であったが、後でも述べるように、ITOが最終的に不成立に終わったことから、ガット自身が貿易と関税に関する中心的な協定として機能することになったのである。[村上 敦]

成立までの経過

IMFとIBRDは1944年のブレトン・ウッズ協定により設置されたが、ITOの構想は、1945年11月に「世界貿易および雇用拡大のための提案」としてアメリカから発表されたのが始まりである。これに基づいて1947年4月国連貿易雇用委員会の第2回会議がジュネーブで開催され、貿易の自由化を中心としたITO憲章(Charter for ITO)が検討されたが、その際これと並行して関税引下げを取り扱う会議も開かれていた。この会議では、参加23か国の間で123の関税引下げ交渉が行われ、同年10月30日に終了した。そして、ここでの成果をジュネーブ関税譲許表としてまとめたうえで、関税引下げ効果を確保し、またそれによって国内生産者が損害を被るのを防止するための諸規定をITO憲章草案から抜粋し、これらを一つに集約したのがガットである。したがって、これは当初はあくまで暫定的な協定であり、ITOが正式に発効した時点でそれに含まれるという性格のものであった。ITO憲章は1948年3月、キューバの首都ハバナにおいて53か国の調印によって採択された(ハバナ憲章)。しかし、この憲章は、無差別的な自由貿易という高い理想をあまりにも追いすぎたために、規定が極度に厳格なものとなり、そのために提案国であるアメリカをも含めたほとんどの国で批准されず、わずかにリベリアとオーストリアの2国で批准されたにすぎなかった。このようにしてITOは結局のところ不成立に終わったため、これにかわってガットがITOの意思を継承し、関税引下げだけではなく、輸入制限の緩和、差別待遇の廃止など貿易の自由化促進全般にわたる広い分野で重要な役目を担うことになったのである。[村上 敦]

ガットの精神と経過

ガットを支える基本的な精神は、自由、多角、無差別な国際貿易の推進である。ガット条文はこれを基にして、第1部(1条~2条)では関税と輸入手続、第2部(3条~23条)では非関税障壁、第3部(24条~35条)では加盟、脱退についての規定を定め、さらに1965年には開発途上国の貿易を取り扱った第4部(36条~38条)を追加している。
 ガットが貿易自由化を実現するための第一の具体的な手段は、互恵主義を基礎とした二国間・品目別交渉によって相互に関税を引き下げ、これをガット税率として他のすべての加盟国に対し無条件、無差別に適用すること(最恵国主義)である。第1回から第5回までの関税引下げ交渉(1947年、1949年、1950~51年、1956年、1961~62年)はこうした方式により実施された。
 しかし、この方式による交渉は第5回目の交渉の終わりとともに一つの限界に達した。この行き詰まりの原因には、第一に、それまでの交渉で関税引下げが行われなかった品目は、各国にとってその実施にかなりの困難を伴うものであること、第二に、他国の交渉の結果が自動的に自国にも適用されるから、苦労して自ら交渉に入る必要がないこと、第三に、関税が最初から低い国は交渉のための武器をもたないこと、などがあると考えられる。このため、なんらかの新しい交渉方式が必要となり、第6回の交渉では、それまでの二国間・品目別方式にかわって、多数の類似品目を中分類にまとめて交渉を進める一律一括方式が採用されることとなった。
 それに先だち、アメリカ大統領ケネディは、新たに台頭してきたヨーロッパ経済共同体(EEC)に対処するため、1962年10月に、同年7月1日から5年間の時限立法として通商拡大法を成立させ、議会から関税交渉の権限を得た。この権限には特別権限と一般権限があるが、前者はアメリカとEECの輸出額の合計がEECの域内貿易を除く国際貿易の80%を超える品目についてはその関税を相互に全廃するというものであり、後者はその他の品目について関税率を一律50%引き下げるというものである。これによってケネディは、一方でアメリカの輸出を伸ばすことで国際収支難を回避し経済成長率を高めるとともに、他方でEEC域内と域外の関税率格差による貿易差別を軽減し、EECの閉鎖性の壁を破ることをもくろんだ。しかし、当時進行していたイギリスのEEC加盟がフランス大統領ドゴールの拒否にあって挫折(ざせつ)したため、特別権限の発動を満たす品目数は激減した。わずかに飛行機とマーガリンしか残らなかったといわれている。そのため、ケネディの大構想は空中分解に終わったが、結局のところ、ガットにおける第6回関税引下げ交渉は一般権限に基づき46か国が参加してジュネーブで開かれた。これは1963年5月から1967年6月30日まで4年余に及ぶ大交渉となり、通商拡大法の失効前日にようやく調印にこぎつけた。そこでは3万0300品目について平均35%の関税引下げが実現し、大きな成果が得られた。この第6回の交渉は、一般にケネディ・ラウンドとよばれている。
 ガットの精神に基づく第二の具体的手段は数量制限の撤廃であり、これによって貿易の自由化を図ろうとするものである。しかし、ガットの規定には多くの例外が設定されており、自由、無差別な貿易という原則の実現は当初から困難であったといえる。おもな例外は、農水産物貿易、国際収支防衛、幼稚産業保護、国家安全保障、公衆衛生・風俗などについてのものであり、また、暫定的に衰退産業の保護も認められている。そのうえ、ウェーバーwaiverとよばれる自由化義務免除措置、ハード・コア・ウェーバーhard core waiverとよばれる自由化特免措置、セーフガードsafeguardとよばれる緊急輸入制限条項、さらに協定に違反していても黙認するという残存輸入制限方式などは、ガットの精神に反するものといわざるをえない。また、ガット第35条では特定国に対してガット税率適用の必要はないという差別待遇が認められており、日本も加盟当初はイギリス、フランスをはじめ14か国から第35条の援用を受けた。[村上 敦]

ガット新章

ガットがIMF、IBRDとともに、アメリカを中心とした第二次大戦後の世界経済の復興と発展に大きく寄与してきたことは事実である。その反面、ガットはその締結国がすべて平等であるとの立場をとり、現実に存在する先進国と開発途上国の格差への配慮に欠けていることも確かであった。そのためガットは、1965年に第4部として3条からなるガット新章を追加して開発途上国の経済開発の促進と生活水準の引上げの必要を認め、開発途上国の輸出所得を確保するため先進国は開発途上国に対し互恵主義を期待しないとした。これは無差別原則にたっていたガットにとって重大な姿勢の変化であり、先進国中心主義の緩和であったといえる。[村上 敦]

東京ラウンドとウルグアイ・ラウンド

ケネディ・ラウンド後もガットの場では東京ラウンド(1974~78年)、ウルグアイ・ラウンド(1986~93年)と2回にわたり包括的な貿易交渉が行われた。これらの交渉では貿易交渉という呼び名が示すように、単なる関税の引き下げにとどまらず、数量制限をはじめとする非関税障壁の軽減、撤廃やダンピング規制など多方面にわたる貿易問題が論じられ、対象分野も鉱工業製品から農産物、さらにはサービス貿易にまで及んでいる。日本にとってウルグアイ・ラウンドによって部分的とはいえコメの輸入が義務づけられたことの意義は大きい。[村上 敦]

ガットからWTO(世界貿易機関)へ

ガットが、これまで述べてきたように数々の限界を含みながらも、過去8回にわたるグローバルな貿易自由化交渉を通じて世界的な貿易の拡大に大きく貢献してきたことは論をまたない。1947年から1993年にかけて少なくとも先進国の鉱工業関税率は平均約40%から約3%へ引き下げられ、「物」の貿易は約14倍に増加した。とくに、敗戦の荒廃から輸出拡大を挺子(てこ)として経済大国にまで発展した日本は、世界的な貿易の自由化を推進してきたガット体制の最大の受益者であったといってよい。
 ところで、このガットは1995年1月から冷戦構造崩壊後の最初の本格的国際機関であるWTO(世界貿易機関)に引き継がれることとなった。もとより先進国から後発開発途上国まで多くの加盟国をもつWTOで各国の利害を調整することはきわめて困難であるし、取り上げるべき分野も投資、環境、労働条件にまで拡散している。WTOのあげるグローバリズムに対し、ナショナリズムやリージョナリズム(地域主義)からの反発も少なくない。今後WTOの動きがまさに注目されるところである。[村上 敦]
『藤井茂著『貿易政策』(1967・千倉書房) ▽小倉和夫著『ゆれる国際貿易体制』(1972・サイマル出版会) ▽ロバート・E・ヒュデック著、小森光夫編『ガットと途上国』(1992・信山社出版) ▽高瀬保編著、赤阪清隆ほか著『ガットとウルグアイ・ラウンド――WTOの発足』増補版(1995・東洋経済新報社) ▽T・E・ジョスリン、S・タンガマン、T・K・ワーレイ著、塩飽二郎訳『ガット農業交渉50年史――起源からウルグアイ・ラウンドまで』(1998・農山漁村文化協会) ▽松下満雄ほか編『ケースブック ガット・WTO法』(2000・有斐閣) ▽西田勝喜著『GATT/WTO体制研究序説――アメリカ資本主義の論理と対外展開』(2002・文真堂) ▽池田美智子著『ガットからWTOへ――貿易摩擦の現代史』(ちくま新書) ▽高瀬保著『ガット二九年の現場から――国際交渉を通してみた日本』(中公新書) ▽小松勇五郎著『ガットの知識』(日経文庫)』

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