公衆衛生とは、人間が健康に生活できるための組織的社会活動をいう。「厚生福祉」「福利厚生」は行政レベルで、「国際保健」は国際的レベルで、「地域保健」は地域レベルで、そして「職域保健」は職場レベルで公衆衛生の社会活動を組織的に展開する制度である。
[岡崎 勲]
古く紀元前2100年ころの古代エジプトおよびインドの遺跡から、浴室、排水管、都市における石煉瓦(れんが)の排水溝が発見され、ローマ時代紀元前6世紀に地下大排水溝が、紀元前3世紀ころに上水道、病院が建設されている。病院・大学・公衆衛生制度の基盤がつくられたのは17世紀ころである。1700年にはイタリアのラマッツィーニBernardino Ramazzini(1633―1714)による『働く人々の病気』が出版されているが、18世紀後半から19世紀にかけては産業革命とそれに伴う人口の都市への集中から、結核、腸チフス、くる病、職業病が多発し、イギリスでは工場法が制定された。
流行病(疫病)対策としての公衆衛生研究は、スノーJohn Snow(1813―1858)が、コレラは水系感染であることを細菌学の勃興(ぼっこう)以前である1854年に証明したことに始まる。1873年にジェンナーによって行われた種痘は、100年を要して世界に普及し、1980年には世界保健機関(WHO)が天然痘の撲滅を宣言している。
[岡崎 勲]
WHOは1945年に設立され、その憲章のなかで、健康とは「完全な肉体的、精神的及び社会的福祉の状態であり、常に疾病又は病弱の存在しないことではない」と定義している。WHOは世界三大感染症のエイズ(AIDS)、結核、マラリア対策に力を入れる一方、飢餓から子どもを救う、また戦争で住む場所を失った難民の生活および健康を守る活動を、各国政府機関および非政府組織(NGO)と連携して行っている。さらに開発途上国にとどまらず工業先進国など世界中の人々の健康問題を討議し、麻薬、タバコ、飲酒禍など国際間の問題を扱っている。WHOは1978年アルマ・アタにて「西暦2000年までにすべての人々に健康を(Health for All by 2000)」の宣言を採択した。2002年、重症急性呼吸器症候群(SARS)がベトナム、中国から全世界に波及する事態に、WHOは史上初めて世界に向けて警報(global alert)を発するに及んだ。警報の一つとして「渡航延期勧告」を出し、各国政府および研究機関と連携した結果、2003年7月に集団感染の封じ込めを宣言した。また、新型インフルエンザの発生と流行という国際的脅威に対しても、WHOを中心に対策がとられている。
[岡崎 勲]
公衆衛生の範疇(はんちゅう)に入る活動として、6世紀、聖徳太子が日本初の医療機関である療病院を四天王寺に設立した。江戸時代には玉川上水の設置(1654)、貝原益軒の『養生訓』(1713)の出版、神田お玉ヶ池の種痘所の設置(1855)などがみられる。明治政府となってからは、東京大学医学部の開設(1877)に続き、諸外国の衛生行政組織を参考としながら伝染病予防法、海港検疫法、汚物掃除法、下水法が整備され、さらに内務省衛生局が発足し、これらを統括した。明治時代末期から大正時代にかけて結核が猛威を振るい、結核予防法が制定された(1919)。昭和に至り、富国強兵の観点から保健所法(1937)が制定され、1938年(昭和13)には内務省から厚生省が独立した。それまで感染症対策などは警察行政の一環として考えられていた向きがあったが、保健行政として独立したことの意義は大きい。さらに、第二次世界大戦後におけるアメリカの占領政策は、日本の厚生行政を大きく転換するものであった。敗戦後の混乱期にもかかわらず徹底した感染症対策がとられ、地域における国民栄養の向上、結核対策が保健所を中心に行われた。このときに保健所が公衆衛生に果たした役割は大きい。戦後の混乱と貧困はその後の朝鮮動乱期の産業の勃興でさま変わりし、好調な経済発展を背景に、国民皆保険制度が発足した(1961)。日本の母子保健事業は進捗(しんちょく)し、出産に伴う母子の死亡率は世界でもっとも低くなった。また、日本は世界第1位の長寿国となったが、寝たきりなどのない、健康寿命を延命すべく国民運動として「健康日本21運動」が展開され、さらに健康増進法で個人の健康への責任が強調されてきた(2002)。飽食、運動不足などからメタボリック症候群や糖尿病の発症が国民の25%にみられるようになり、2008年(平成20)から厚生労働省は保険者に「特定健康診査・特定保健指導」を義務づけている。
[岡崎 勲]
かつての、急性感染症の蔓延(まんえん)から多数の死亡者が出た時代から、がん、心臓病、脳血管障害、糖尿病などの生活習慣病による慢性疾患対策の時代へと変化した。それら疾病の予防、個人の健康増進を目的とする地域、職域、学校などでの組織的活動はもちろん、環境問題、国際的テロに対する危機管理、国際的な災害救助活動、世界的な人的交流の活発化を背景にしたHIV・AIDS、高病原性鳥インフルエンザ、結核、マラリアなどの感染症の対策、超高齢化社会における高齢者の健康・生活などの介護・支援、医療の高度化による人的・物的・経済的資源の不足、国民皆保険制度の実質的破産の状態、貧富の格差拡大による新たな社会的弱者の増加など、人々の生活と健康を守るための公衆衛生の課題は広がり、山積している。日本だけで解決できることもあれば、地球温暖化対策や、HIV・AIDS、デング熱、エボラ出血熱、西ナイル脳炎、高病原性鳥インフルエンザなどの輸入感染症対策など、国際的に協調して解決すべき問題も多い。開発途上国で高い有病率の結核は、日本でも2005年の罹患率22.2(人口10万人)と、アメリカ4.7、イギリス13.7、フランス8.1などの欧米先進国より有病率、発生率が高く、過去の病気ではない(『国民衛生の動向』2007年、2008年 厚生統計協会)。
いまや公衆衛生の問題は社会、政治、経済を抜きにしては論議できない。医療についてみてみると、精神科外来受診者数は、「傷病分類別にみた受療率」の表(『国民衛生の動向』2008年 厚生統計協会)で20項目中12位となっており、その数は年々増加する傾向にある。精神的苦痛が自殺者やうつ病の増加をもたらし、それに対して医師を含めた医療従事者のサービスは追いつかない状況にある。社会問題のしわよせが医療需要を押し上げることとなっている。
女性の社会進出、自立および人々の価値観の多様化から晩婚化や少子化がみられ、社会構造だけでなく医療にも大きな変化がみられる。高齢出産はより多くの人的・物的・経済的資源を必要とし、数少ない子どもの養育も、核家族で孤立した母親に過剰な精神的負担を強い、思いもかけない児童虐待などの増加をきたしている側面もある。日中共働きする核家族では、夜間に小児救急外来を受診する事例が多い。また、人工妊娠、移植、遺伝子治療、再生医学の進歩などから高度医療はますます社会のニーズに対応して発展している。一方、どこまでが公衆衛生の問題で、どこからが個人にゆだねられるべきかの線引きもむずかしく、公衆衛生の倫理的問題が重視されてきている。日本国憲法25条は「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」として国民の生存権、および国民の権利としての健康を謳(うた)っており、公衆衛生が国民の生存権に必須の要件であることを宣言している。翻って、国民皆保険制度のなかで保険証をもっていない人が少なくとも500万人以上いるという現状がある。また、世界第1位の長寿国となったが、超高齢者の生活と健康をどう支え介護していくのか、国民の負担とあわせて議論されるなど、尊厳ある人間としての生命の質を見直す時期に来ている。こうした問題の解決と実践が公衆衛生の課題である。
[岡崎 勲]
『岡崎勲・豊嶋英明・小林廉毅(編)『標準公衆衛生・社会医学』(2008・医学書院)』▽『厚生統計協会編・刊『国民衛生の動向2008』』▽『P. Basch :Textbook of International Health(1999, Oxford University Press)』
公衆衛生の定義としてはアメリカのウィンスローC.Winslowのものが世界保健機関(WHO)によって認められ広く通用している。それによれば,公衆衛生とは〈環境衛生の改善,伝染病の予防,個人衛生の原理にもとづく衛生教育,疾病の早期診断と予防的治療のための医療および看護業務の組織化,さらに地域社会のすべての住民が健康を保持するにたる生活水準を保障するような社会機構の発展を目指して行われる地域社会の努力を通じて,疾病を予防し,生命を延長し,健康と人間的能率の増進をはかる科学であり,技術である〉と定義される。すなわち〈公衆衛生とは,地域社会において組織化された社会的努力を通じて疾病を予防し,生命を延長し,住民すべての健康を維持し高めるための技術と科学である〉といえる。この意味で公衆衛生学とも呼ばれる。しかし,公衆衛生が社会的なひろがりのなかで,その地域住民の疾病の予防と健康の維持を目的としている点で,個々人の健康と疾病の予防を目的とする衛生学とは異なっている。公衆衛生でいう健康とは,単に身体的,精神的な病気をもたない状態としてではなく,さらに広く社会的にも安寧な状態をも含む広い概念として用いられている。第2次大戦後,世界的にも日本においても,〈公衆衛生〉の語は医学教育の分野のみならず,社会一般にも広く用いられるようになり,そのことは日本国憲法25条に〈すべての国民は,健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国はすべての生活部面について社会福祉,社会保障および公衆衛生の向上および増進に努めなければならない〉と書かれていることからも知られる。
公衆衛生の方法としては,おもに集団を対象として取り扱う方向からの接近がなされ,健康事象およびそれに影響を与える種々の要因についての資料,情報を収集し,処理を行い,健康水準の評価から,それぞれの問題についての管理基準を設けたり,対策を立てたりする。
公衆衛生の具体的な内容としては,すべてが明確に区分されてはいないが,大別して環境保健,対人保健および社会の公私の組織活動の3分野がある。
(1)環境保健 主として地域社会の物理・化学・生物学的環境を扱うもので,伝染病対策と環境改善による健康の維持向上をはかるものである。伝染病対策には検疫,疫学的情報サービス,媒介動物駆除,伝染源追跡などがあり,環境衛生改善には上下水道,食品衛生,住居衛生,大気汚染,騒音問題などの公害対策,都市計画などが含まれる。
(2)対人保健 衛生学の原理を個人に適用することによって集団の健康水準を向上させようとするもので,狭義の予防医学,社会衛生,狭義の社会医学などに大別される。予防医学の分野には予防接種,予防のための試験検査,衛生教育,成人病予防,栄養管理,疫学的研究,社会調査,衛生統計などが含まれる。
社会衛生には,乳幼児保健,成人保健,母子衛生,児童保護,老人保護,精神衛生,性病対策など,社会医学には,病院や診療所が扱う衛生,リハビリテーションなどが含まれる。
(3)社会の公私の組織活動 衛生行政,保健所,地方自治体の保健活動,公衆衛生研究機関の活動,医療社会事業,医師会など保健専門職団体,住民団体などの諸活動がある。WHOは1957年,病院は保健のあらゆる面で共同生活体に奉仕できるような態勢を整えるべきであり,業務を治療面に限定すべきでないとしている。このことは1920年ドーソン報告での一般開業医も〈個人の診療と同時に社会の診療活動も行うべきである〉という指摘や,48年日本の医師法の1条に〈医師は医療および保健指導を掌ることによって公衆衛生の向上および増進に寄与し,もって国民の健康な生活を確保するものとする〉と書かれていることにもあらためて注意しておく必要がある。
住民の健康に影響を与える要因は歴史とともに変遷している。古代から人口の都市集中と生活廃棄物処理は幾多の衛生問題を人類に課題として与えてきたし,労働の変遷もまた同様であった。ルネサンスと産業革命が近代的な公衆衛生に関する理念を育てた。とくに19世紀以降は近代科学の全般的進歩が公衆衛生の展開に大きな影響を与えた。ヨーロッパでは環境改善,衛生統計,衛生行政組織の整備が著しく進められた。日本では1870年代に長与専斎によって近代的な公衆衛生がはじめて導入され医制の法案が作られ,中央,地方の衛生行政組織ができ,医学教育も整備されはじめたが,ヨーロッパとは逆に伝染病対策に施策は集中し,環境整備に公衆衛生が向かうのはむしろ第2次大戦後といっても過言ではないほどであった。近年日本では,産業廃棄物や排ガス,発癌物質などの環境汚染問題がエネルギー問題,人口問題,南北問題などとともに大きな問題となり解決を迫られている。世界に例をみないほど急激な老齢人口の増加に伴う公衆衛生の課題も,より強力な成人病予防対策,老人福祉事業の展開だけにとどまらず,老齢者の生きがい,家族,社会とのかかわり方をも含んだ多面的なものとなり,種々の専門領域間の協力のもとでの検討と活動,施策が必要とされている。他の課題も同様に多面的,複雑なからみ合いのなかで生じてくる。
また長い間,中央集権的,伝染病予防指向的,行政の一方通行的であった活動が,近年地域の特性(地理的条件,年齢,職業別の人口構成,産業,経済,文化,社会,交通,疾病の種類・量など)の重視,環境改善,予防,治療,社会復帰,さらには健康増進まで含めた広義の予防,地域住民の自主的・主体的参加の諸原則をふまえた公衆衛生活動へと意識的に展開されていくことが必要とされている。
なお健康事象はあらゆる日常の生活の場と密接な関係をもっており,人の日常の生活の観点からみれば,まず家庭や地域生活の場における保健があげられ,教育と生産の場で共通の機能集団として生活が営まれていることから,学校保健,産業保健があげられる。それぞれ行政的にも地域保健,学校保健,産業保健の3分野にそれぞれ対応した行政体系が組まれていて,国民の健康の保持と増進を目ざすための公の活動が展開されている。また国際的な交流の広がりとともに公衆衛生の国際的協力機関としてのWHOの活動も天然痘の地球上からの絶滅や衛生統計の整備などで具体的な成果を上げている。ほかにも国際がん研究機関(IARC),国際労働機関(ILO),国際連合食糧農業機関(FAO),国連環境計画(UNEP)などが公衆衛生関連の機関として全世界的な場で活動している。
→衛生学
執筆者:溝口 勲
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