ドイツの物理学者。東プロイセンのケーニヒスベルク(現、ロシア領カリーニングラード)に生まれ、同地の大学でF・E・ノイマンに学んだ。ベルリン大学私講師(1848)、ブレスラウ大学員外教授(1850)を経て、1854年ブンゼンの招きでハイデルベルク大学教授に就任、この間、実験的研究に身を投じた。後年健康を害して実験から身を引き、ベルリン大学理論物理学教授(1875)になり、死去するまでその地位にあった。
キルヒホッフの生きた時代のドイツは、イギリス、フランスに続いて産業革命期を迎え、科学や技術に大きな期待が寄せられていた。電信機の発達のなかで、物理学の分野では複雑な電気回路での抵抗や電流の問題が論議された。こうしたなかでキルヒホッフの興味は媒質中の電流分布に向けられ、1848年オームの法則を一般化したキルヒホッフの法則を導いた。さらに電信線における電気振動の問題に取り組み、電気振動が光速と同じ速度で伝わること、回路中の起電力が静電ポテンシャルと同等であることを指摘し、静電気学と電気力学の統一に力を注いだ。1882年には波動方程式を解いて、ホイヘンスの原理に理論的根拠を与えた。
一方、当時ヘルムホルツの指導のもとに科学の先頭にたっていたハイデルベルク大学では、ブンゼンとともに有名なスペクトル分析の研究(1859~1860)を行った。プリズムを使った分光器を考案した彼らは、ナトリウムの黄色線とフラウンホーファーのD線とが一致するのを確かめ、スペクトルの反転を発見した。これを説明するためにキルヒホッフは、黒体概念を導入し熱力学的考察を行った。1859年には「放射能と吸収能の比は、同一温度のもとではすべての物体に対して同一である」という、彼の名でよばれる熱放射の法則を導いた。これは後のボルツマン、ウィーン、プランクらによる熱放射論の展開の契機になるものであった。また分光器の登場が化学分析の新たな手段となり、新元素セシウム、ルビジウムの発見(1861)を彼らにもたらした。
1876年、『力学講義』を著し、自然法則は自然事象の簡単で斉一な記述にほかならないと主張するなど、記述的実証主義の立場にあったことがうかがえる。この本は古典物理学の標準的教科書として広く使われ、マッハなど後の実証主義に影響を与えた。
[高橋智子]
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