ゼノン(読み)ぜのん(英語表記)Zēnōn ho Eleatēs

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ゼノン」の意味・わかりやすい解説

ゼノン(エレアのゼノン)
ぜのん
Zēnōn ho Eleatēs
(前490/485ころ―前430ころ)

古代ギリシアエレア学派哲学者。最初ピタゴラス学派に属したとも、政治活動に従事したとも伝えられる。エレア学派の祖パルメニデスの弟子にして親しい友人であった。パルメニデスを弁護する作品を書いたが、プラトンはその『パルメニデス』のなかで、それが若気の至りであったとゼノンに告白させている。また『パイドロス』のなかで、ゼノンについて、同じものが似ており似ていない、一であり多である、静止しており運動している、と聞く者に思わせる技術の持ち主と紹介している。そこからアリストテレスは、ゼノンを、前提から矛盾した結論を引き出す弁証論の発見者とよんだと伝えられている。不変不動の一つなる「有るもの」を思索した師パルメニデスを弁護するために、弁証論を駆使した「ゼノンの逆説」を提出した。多くのものが存在することを否定する論とアリストテレスが報告している運動否定論(「多否定論」「二分法」「アキレスと亀(かめ)」「飛矢」「競技場」)である。その精緻(せいち)な論理によって無限、連続、空間、時間、一多の問題を再検討するよう強いた影響は大きかった。現代でもベルクソンをはじめ多くの人々がその「逆説」を分析解釈する努力を傾けている。しかしゼノンでは、論理は独走し、哲学は師の思索を弁護することにすり替わっていた。既述のようにプラトンはゼノンの若さを強調し、その論がパルメニデスと異なって「見えるもの」の位相限局されていることを『パルメニデス』のなかで適確に指摘している。

山本 巍 2015年1月20日]


ゼノン(キプロスのゼノン)
ぜのん
Zēnōn ho Kyprios
(前335ころ―前263ころ)

古代ギリシアの哲学者。ストア学派の開祖。キプロス島キティオンの生まれ。フェニキア人血筋と推定される。30歳ごろアテネに上り、さまざまの学派に属する師に学んだのち、独自の学派を開いて、アゴラの「彩色柱廊」(ヘー・ポイキレー・ストアー)とよばれる公共の会堂で哲学を説いた。その哲学は節欲と堅忍を教えるものであり、人が自分の力で生き、他の何人(なんぴと)にも、何事にも奪われない幸福を獲(え)る力を与える哲学であった。「自然と一致した生」がその目標である。伝統の諸哲学説を混じて説いたために折衷のそしりがあるが、その説の根本には、東方の要素があると信じられ、この独自性のゆえに生粋(きっすい)のギリシア人以外の弟子たちを多く集め、新しいヘレニズムの時代を代表する哲学となった。死去の模様は次のように伝えられている。外出して転んだとき、地を打っていった、「いま行くよ、どうして私を呼ぶのだ」と。そして自分で息を詰めて死んだという。著作は散逸して残らない。

[加藤信朗 2015年1月20日]


ゼノン(ビザンティン皇帝)
ぜのん
Zenon ギリシア語
Zeno ラテン語
(426―491)

ビザンティン皇帝(在位474~491)。イサウリア貴族の出身で名をタラシコディッサTarasicodissaといった。軍人として活躍し、レオ1世の娘と結婚、改名した。レオ1世の死後帝位につき、一時反乱で退位させられたが、すぐ復位し、ゴート王テオドリックと交渉して、これにイタリアのオドアケルを討たせることに成功した。このころカトリックと異端のキリスト単性論者との間の論争が深刻化していたが、ゼノンは両者の調停を企図し、「一致令」(ヘノティコン)を発して単性説に譲歩した。しかし、ローマ教会はこれを認めず、起草者のコンスタンティノープル総主教アカキオスを非難し、ここに東西教会は484年から519年まで断絶関係に陥った(アカキオスの離教)。

[松本宣郎]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ゼノン」の意味・わかりやすい解説

ゼノン[エレア]
Zēnōn; Zeno of Elea

[生]前495頃
[没]前430頃
南イタリア,エレア出身の古代ギリシアの哲学者。パルメニデスの弟子でパルメニデスの独創的な存在論を継承,唯一,単純,不変の存在を説く学説を直接的に立証するかわりに,「多も運動も存在しない,なぜならこれら諸概念は矛盾した結果に導くから」という仕方で弁証し,一者の概念を最も純粋に徹底させた。この独自の方法のゆえにゼノンはアリストテレスによって弁証法の創始者と呼ばれており,プラトンにも大きな影響を与えた。ゼノンの徹底した思索はクセノファネスが開きパルメニデスが体系化したエレア派の原理の仕上げであったが,同時に同派の原理の内在的矛盾を最も鋭く露呈したといえる(→ゼノンのパラドックス)。晩年故郷の市を僭主制から解放するための政治的闘争に参加,企てが露見し拷問のうちに死んだ。

ゼノン[ストア]
Zēnōn; Zeno the Stoic

[生]前334頃.キプロス,キティオン
[没]前262/前261. アテネ
ギリシアの哲学者,ストア派の祖。キプロスのゼノン,キティオンのゼノンともいわれる。若いときアテネを訪れクセノフォンの『ソクラテスの思い出』プラトンの『ソクラテスの弁明』を読む機会を得てソクラテスの人格に深く影響された。キュニコス派のクラテス,メガラ派のスティルポン,アカデメイアのクセノクラテス,ポレモンに師事したのちストア・ポイキレ (彩られた柱堂) に学校を開く (前 300頃) 。その節欲が諺として語られるほど彼の態度は厳格であり,質素で忍耐強い生活は有名であった。彼は哲学を論理学,自然学,倫理学の三つに分け,認識の真理性の基準を示す概念としてカタレプシス的表象,シュンカタテシスなどの新概念をつくった。倫理学が中心であり,人生の目標とすべき幸福は宇宙を支配する神の理性 (ロゴス) に従うことであり,もって不動心の境地にいたることであると説いた。論理学,自然学,倫理学,修辞学について多くの論文を書いたが現在は引用による断片が知られるのみである。

ゼノン[シドン]
Zēnōn; Zeno of Sidon

[生]前150頃
[没]前79/前78
ギリシアのエピクロス派の哲学者。アテネのアポロドロスの弟子。キケロは彼の聴講者の一人。

ゼノン[タルソス]
Zēnōn; Zeno of Tarsus

ギリシアのストア派の哲学者。クリュシッポス (前 281~208) の後継者。

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