クラウゼウィッツ(読み)くらうぜうぃっつ(その他表記)Karl von Clausewitz

日本大百科全書(ニッポニカ) 「クラウゼウィッツ」の意味・わかりやすい解説

クラウゼウィッツ
くらうぜうぃっつ
Karl von Clausewitz
(1780―1831)

プロイセン軍人、軍制改革者、軍事理論家。プロイセン軍の少年兵としてフランス革命への干渉戦に参加したのち、ベルリン士官学校に進む。ここで校長であったシャルンホルストから決定的影響を受け、プロイセン改革に際してはその片腕として軍制改革を推進した。1812年プロイセンのナポレオンとの軍事同盟締結に反対してロシアへ脱出し、1814年プロイセン軍復帰を許可されるまでロシア軍人として解放戦争を戦った。帰国後、士官学校長などを経てポーランド反乱監視軍の参謀長となったが、コレラがもとで没した。死後、戦争理論の古典的名著『戦争論』が出版(1832)された。

[岡崎勝世]

『郷田豊著『クラウゼウィッツの生涯』(1982・日本工業新聞社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「クラウゼウィッツ」の意味・わかりやすい解説

クラウゼウィッツ
Clausewitz, Carl von

[生]1780.6.1. マクデブルク,ブルク
[没]1831.11.16. ブレスラウ(現ポーランド,ウロツワフ)
ドイツ,プロシアの陸軍軍人,戦史家。中産階級の家に生れ,1792年にプロシア軍に入り,93~94年のライン作戦中に士官に任官。 1801年ベルリンの士官養成学校に入学。アウグスト公の副官としてナポレオン軍とのイェナの戦い (1806) に参加し,捕虜となったが,08年に釈放された。 10年士官学校の教官となり,恩師 G.シャルンホルストのもとで,プロシア軍制改革を推進。 12年にナポレオン1世がロシアに進攻すると,フランスと結んだ軍から退き,ロシア軍に加わり,幕僚となった。帰国後,プロシア軍に復帰,ワーテルローの会戦ではプロシアの軍団参謀長として戦った。 18年少将,士官学校校長となり,在職 12年の閑暇を利用して,戦史の著作に没頭,主著『戦争論』 Vom Kriegeを著わしたが,この草稿の完成前に砲兵監としてブレスラウに転勤となった。 30年のポーランド革命に際し,第4東方軍団参謀長に任じられたが,コレラにかかり,31年に帰国して死んだ。遺稿は妻によって整理され,32~37年にかけて刊行された。著作集 10巻のうち最初の3巻が有名な『戦争論』である。「戦争 (武力闘争) とは,他の手段による政策の延長である」という言葉は特に知られている。地上戦については近代第一流の理論家とされる。

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