デジタル大辞泉 「クレムリン」の意味・読み・例文・類語
クレムリン(Kreml'/Кремль/〈英〉Kremlin)
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都市の
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ロシア語ではクレムリКремль/Kreml'(城の意)。一般にはモスクワのクレムリンのこと。ここにソ連最高会議(国会)とソ連閣僚会議(政府)があったので、ソ連の最高指導部を意味したこともあり、ソ連崩壊後もロシア連邦の大統領府がある。1156年にユーリー・ドルゴルーキーYurii Dolgorukii(?―1157)がモスクワ川の左岸の小高い丘に砦(とりで)を築いたのがクレムリンの始まりといわれる。1367年、ドミトリー・ドンスコイがモンゴル軍の襲来に備えて白い石で壁と塔を建てた。さらに、1480年にモンゴルからの独立を達成したイワン3世が、1485年から1495年にかけて壁と塔をれんが造にかえ、ウスペンスキー寺院(1475~1479)、ブラゴベシチェンスキー寺院(1484~1489)、グラナビータヤ宮殿(1487~1491)、アルハンゲリスキー寺院(1505~1508)、イワン大帝鐘楼(しょうろう)(1505~1508)などの建設を始め、この時代に今日のクレムリンの景観がほぼできあがった。18世紀初めにピョートル大帝がペテルブルグ(ソ連時代のレニングラード)をつくり、首都を同地に移したので、皇居としての機能はなくなったが、歴代皇帝の戴冠(たいかん)式はウスペンスキー寺院で行われた。遷都後も元老院の建物(1776~1787)、クレムリン大宮殿(1839~1849)、武器庫(1844~1851)などが建てられた。
1917年11月(露暦では10月)の革命後、モスクワがふたたび首都となり、クレムリンがソ連政治の中心となった。旧元老院の建物に人民委員会議が置かれ、レーニンがそこに住みながら同議長として活躍した。1959年から1961年にかけて大会宮殿が建設され、劇、バレエ、音楽会などの会場として利用されている。赤の広場に面する壁には、革命の功労者の遺骨が納められ、その前には、スターリン、ブレジネフ、アンドロポフ、チェルネンコなどの墓やレーニン廟(びょう)がある。赤の広場では、11月7日の革命記念祝賀パレードや5月1日のメーデー行進が行われた。ソ連崩壊後はレーニン廟前の衛兵もいなくなり、訪問者も少なくなった。かわって赤の広場に面したショッピングセンターは華やかさを増した。なお、クレムリンは1990年に赤の広場とともに世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。
[中西 治]
ロシア中世都市の中心部に位置する城塞。多くは川や湖に面する丘の上に存する。古来からの聖俗の権力・行政機関の所在地。多くの都市(ニジニ・ノブゴロド,カザン,アストラハン,コロムナ,ノブゴロド,プスコフ等)で,16~17世紀に遡る城壁や教会などが今日に至るまで保存されているが,その代表はモスクワである。モスクワのクレムリンは1156年ユーリー・ドルゴルーキー公の命により,モスクワ川とネグリンナヤ川との合流点に木造の要塞が築かれたのをもって始めとする。今日その領域は28ha,城壁は全長2.25km,高さは5~19m,厚さ3.5~6.5m,20の城門と塔をもつ。クレムリンが今日見られるような形になったのは,15世紀末から16世紀にかけてのことである。ロシア教会の総本山にあたるウスペンスキー聖堂,歴代大公および後のツァーリらの柩をおさめるアルハンゲリスキー聖堂,大公家の私有教会であるブラゴベシチェンスキー聖堂,外国の使者を接見し,祝宴を催すルネサンス風建築グラノビータヤ宮殿,〈大イワン(イワン・ベリーキー)〉と呼ばれる鐘楼もこの時期に建てられた。ツァーリ一家の居館(テレム宮殿)や総主教館は17世紀,武器庫(アルセナール)や元老院は18世紀,700の部屋をもつ大クレムリン宮殿は19世紀に建てられた。モスクワのクレムリンの,聖俗の支配の拠点としての機能は,18世紀初頭のペテルブルグ遷都とともに失われるが,十月革命後の1918年3月12日,ソビエト政権がペトログラードからモスクワに遷都し,クレムリンは再び国政の中心となった。その後ソビエト政府の多くの機関はクレムリンの外部に移ったが,ソ連邦最高会議幹部会とソ連邦閣僚会議はここで活動し,共産党大会その他の重要な会議がここで開催されてきた。
→モスクワ
執筆者:栗生沢 猛夫
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ロシア語ではクレムリともいう。広くはロシア中世都市の塔と柵とに囲まれた中心部をいうが,ふつうはモスクワのものをさす。モスクワに現在のこる20の塔,城壁は15世紀末建設された。18世紀初めまでツァーリの宮殿が置かれたが,1918年よりソ連政権の主要機関が置かれるに至った。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…日本との時差は6時間である。
[市街,行政]
モスクワは,他の多くのロシアの古い都市と同様に,クレムリンからはじまったという歴史的条件を反映して,クレムリンならびに赤の広場Krasnaya ploshchad’をはさんでクレムリンと向かい合う旧商工業区キタイ・ゴロドKitai‐gorodを中心とする環状道路が樹木の年輪のように幾重にも都心部を取り巻いている。その最も外側のモスクワ環状自動車道路(総延長109km)が1960年以来,市の境界の役割を果たしている。…
…外国との公式の接触はイワン3世の代からふえ,継続的な外交関係も始まっていた。イタリア人専門家が招かれてクレムリンの城壁と教会堂の建設に当たったのもイワン3世のときであった。これはイタリア・ルネサンスがロシアに残した記念碑であるが,中世末のモスクワ文化自体,キエフ・ロシアの文化への強い関心という点も含め前期ルネサンス的性格をもっていた。…
…
[西欧化政策のもとで]
ロシア美術が一つの頂点に達したのは,タタールから解放され国家的統一がすすんだ15世紀末である。コンスタンティノープルが陥落し,モスクワが〈第三のローマ〉としての意識をもったことも手伝って,イタリアから建築家が招かれて,モスクワ・クレムリン内に石造の教会堂や宮殿が次々と建てられた。ロシア美術史における大きな転換は18世紀に起こる。…
※「クレムリン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」