コルドリエクラブ(その他表記)Club des Cordeliers

改訂新版 世界大百科事典 「コルドリエクラブ」の意味・わかりやすい解説

コルドリエ・クラブ
Club des Cordeliers

革命政治の監視と批判を目的に1790年春にパリで設立された民間のクラブ。正式名称は〈人間市民の諸権利の友の会Société des droits de l’homme et du citoyen〉であるが,最初セーヌ左岸のコルドリエ修道院に本部をおいたため,コルドリエ・クラブと呼ばれるようになった。このクラブは,革命において,全国のクラブのうち,ジャコバン・クラブに次いで重要な役割を演じた。しかし,指導者にはダントンマラなどの後の山岳派が多くみられ,会費も低額であったため,ジャコバン・クラブにくらべ民衆的で急進的な傾向を持っていた。とくに5万人の市民を動員した91年7月17日のシャン・ド・マルスの共和制請願運動は,このクラブの力によるところが大きかった。しかし93年3月クラブはエベール派に掌握され,ジャコバン独裁を批判し,国民公会に蜂起を宣言したために閉鎖され,ジャコバン・クラブに吸収合併された。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「コルドリエクラブ」の意味・わかりやすい解説

コルドリエ・クラブ
Club des Cordeliers

フランス革命期のパリの有力な民衆協会。 1790年旧コルドリエ修道院内に設立された。正式名称は「人間と市民の権利の友の会」 La Société des Amis des Droits de l'Homme et du Citoyen。 J.マラー,G.ダントン,C.デムーランらに指導され,サン=キュロットに強い影響力をもち 91年7月のシャン・ド・マルスの請願を企画実行した。のち山岳派に合流した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「コルドリエクラブ」の意味・わかりやすい解説

コルドリエ・クラブ
こるどりえくらぶ
Club des Cordeliers フランス語

フランス革命期の大衆的政治クラブ。1790年から91年にかけて結成された人民的結社の一つ。パリの閉鎖中のコルドリエ修道院を本部としたのでこの通称でよばれたが、正式の名称は「人権の友の会」。地区の住民のデムーラン、ファーブル、ダントン、マラー、エベールなども会員だが、創立者が牧師や印刷工であったことが示すように、サン・キュロットとよばれる小ブルジョアジーを主体とした。シャン・ド・マルスの大衆請願(1792.7)では失敗し弾圧されたが、以後92年8月10日、93年6月2日のパリ市民の蜂起(ほうき)の一翼を担い、恐怖政治の下ではアンラジェ(過激派)、エベール派の拠点となり、これと運命をともにした。

[樋口謹一]

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「コルドリエクラブ」の解説

コルドリエ・クラブ
Club des Cordeliers

フランス革命当時のパリの政治的結社。1790年に結成され,革命初期にはダントンマラーに指導されて最も早くから共和主義的傾向が強く,立法議会以後はしだいにジャコバン派と連合した。

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旺文社世界史事典 三訂版 「コルドリエクラブ」の解説

コルドリエ−クラブ
Club des Cordeliers

フランス革命における急進的な政治クラブ
1790年4月,パリのコルドリエ区の僧院を本部として結成。ダントン・マラーらも入会し,パリの大衆蜂起でつねに活躍。のちエベール派の本拠として弾圧された。

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