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コンゴ動乱 コンゴどうらん

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

コンゴ動乱
コンゴどうらん

アフリカの旧ベルギー領コンゴの独立をめぐる 1960年7月~1965年の内乱と政変。1960~63年を第1次コンゴ動乱,1964~65年を第2次コンゴ動乱と呼ぶ。コンゴは,1960年6月共和国として独立したが,その頃からすでに中央政府には,中央集権主義を唱えるコンゴ国民運動 MNCの党首パトリス・E.ルムンバ首相と地方分権主義を主張するバコンゴ同盟 ABAKOの党首ジョゼフ・カサブブ大統領との間に,鋭い対立があった。1960年7月ベルギー軍進駐を契機に,カタンガ州のモイーズ・チョンベ首相は同州の独立を宣言,本格的な内戦状態になった。12月モブツ・セセ・セコ軍司令官が暫定政権を樹立,スタンレービルへ脱出しようとしたルムンバ首相を逮捕,1961年2月カタンガ州でのルムンバの死が報じられた。その後もカタンガ州は国連安全保障理事会の要請を拒否し,中央政府との話し合いに応じなかった。8月国連軍は州都エリザベートビルに進攻,外国人傭兵が指揮するカタンガ軍と全面衝突した。中央政府では,モブツ軍政の後任シリル・アドゥラが,挙国一致内閣を組織し,チョンベとの和解工作を試みたが失敗。しかし,1962年12月国連軍がエリザベートビルを制圧し(1964年6月撤退),チョンベは 1963年1月カタンガ分離を撤回し,第1次動乱は終わった。しかしコンゴの政情は安定せず,1963年10月にはルムンバ派の一員であったクリストフ・グベニエが民族解放委員会 CNLを組織して反政府的な姿勢を示し,1964年1月にはピエール・ミュレレの指導下にクイルー州で反政府ゲリラ攻撃が始まった。このゲリラ攻撃は東部州,カタンガ州,キブ州にも広がり,一時は国土の半分近くがゲリラに制圧されるにいたった。1964年6月アドゥラ内閣は総辞職し,代わってチョンベが首相に就任。アメリカ合衆国の軍事的支援,ベルギーの再度にわたる出兵を得て,グベニエ,ミュレレ,ガストン・スミアロらの反政府軍を徐々に圧倒し,1965年春までにほぼ勝利をつかんだ。これが第2次動乱である。なお,1961年コンゴ動乱の停戦交渉に出向いた当時の国連事務総長ダグ・ハマーショルドは,北ローデシア(→ザンビア)で飛行機事故にあい,死去した。

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百科事典マイペディアの解説

コンゴ動乱【コンゴどうらん】

コンゴ危機とも。コンゴ(現コンゴ民主共和国)で1960年7月から1963年1月に起こった紛争。1964年6月から1965年3月の紛争を含めていうこともある。コンゴは長くベルギーの父権主義的支配のもとに置かれ,住民が政治から隔離されていたため,ナショナリズム運動の発展が遅れたままで1960年に独立を迎えた。
→関連項目アフリカ国際警察軍国際連合コンゴ民主共和国ハマーショルドルブンバシ

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世界大百科事典 第2版の解説

コンゴどうらん【コンゴ動乱】

アフリカ中部のコンゴ(現,コンゴ民主共和国)で,1960年7月から63年1月にかけて起こった紛争。これにつづいて64年6月から65年3月にかけて起こった紛争まで含めてコンゴ動乱と呼ぶ場合もある。 コンゴは1885年にコンゴ自由国の名でベルギー国王レオポルド2世の私的植民地となり,1908年以降正式のベルギー領へと変更されたが,その父権主義的支配のもとでコンゴ人が政治から隔離されていたため,ナショナリズムの発展が著しく遅れたままの状態で,60年6月30日に独立を迎えることとなった。

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大辞林 第三版の解説

コンゴどうらん【コンゴ動乱】

1960年のコンゴ民主共和国の独立後生じた内乱。列強の介入を招き、国連平和維持軍が派遣された。61年、コンゴの統一が回復、64年に国連平和維持軍が撤収。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

コンゴ動乱
こんごどうらん

コンゴ共和国(のちザイール共和国、現在のコンゴ民主共和国)で、1960年7月から1963年1月、1964年6月から1965年3月と、二度にわたって起こった紛争をいう。前者だけに限定していう場合もある。コンゴは、植民地時代にベルギーの父権主義的支配の下に置かれ、コンゴ人の政治的活動が認められていなかったため、ナショナリズム運動の発展が極度に遅れたままの状態で1960年6月30日の独立を迎えることとなった。そのうえコンゴ、ルバ、モンゴ、ルンダの四大部族その他多数の部族のモザイク社会ともいうべき同国は、著しく統一性を欠いており、独立国としての前途には大きな困難が横たわっていた。この困難に正面から対決するために、中央集権主義をとるか、それとも妥協して地方分権主義をとるかは、独立時の最大の争点となったが、結局コンゴ国民運動(MNC)の指導下にコンゴは中央集権的色彩の強い国家として独立した。しかしルムンバ首相(コンゴ国民運動)とは対照的に、カサブブ大統領(アバコ党)は地方分権派であったため、中央政府の足並みは当初から乱れていた。
 1960年7月6日首都で起こった軍隊の反乱が地方に拡大すると、これに乗じた地方分権派のチョンベは同月11日カタンガ州の分離独立を宣言し、9月にはカロンジも南カサイ州の分離独立を宣言して、コンゴの内乱は本格化した。またベルギーは同胞の保護を理由にカタンガに出兵し、国連はその撤兵を要求して、動乱は国際紛争に発展した。9月には中央政府内の対立が激化したのをみてモブツ軍司令官が実権を奪って委員制内閣を組織し、スタンリービル(現キサンガニ)へ脱出を図ったルムンバは1961年2月に虐殺され、この間ルムンバ派のギゼンガがスタンリービルで中央政府の樹立を宣言するなど、政情は混迷の度を強めたが、1961年8月に中道派のアドゥラを首班とする挙国一致内閣の発足によって、スタンリービル政権は自主的に解消し、南カサイも1962年9月に分離独立を撤回した。他方カタンガも、1962年末に始まる国連軍の総攻撃に屈し、1963年1月に分離の撤回、コンゴ共和国への復帰を宣言した。この間、東側諸国はルムンバ派を支持し、西側諸国はあいまいな態度に終始した。
 その後1964年6月に国連軍が撤退すると、ムレレ、グベニエなどのルムンバ派反政府勢力が武装闘争を強め、国土の半分を制圧したが、中央政府はアメリカ、ベルギーの軍事支援を得て、1965年3月までにこれを鎮圧し、動乱は終息した。[小田英郎]

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世界大百科事典内のコンゴ動乱の言及

【コンゴ民主共和国】より

…59年1月初旬のレオポルドビル(現,キンシャサ)暴動はベルギーにコンゴ独立の最終的決断を迫り,その結果60年1月下旬にはブリュッセルでMNC,アバコ党,コナカ党その他諸党派の代表を集めて独立のための円卓会議が開かれ,同年6月30日にコンゴは共和国として独立を達成した。 しかしナショナリズム運動が未熟であるうえに,独立のための準備期間が短すぎたこともあって,独立後1週間足らずの7月6日,軍隊の反乱を契機にコンゴは大動乱(コンゴ動乱)に突入した。カサブブ大統領とルムンバ首相の対立,チョンベによるカタンガ州(現,シャバ州)の分離独立宣言,ベルギーの軍事介入と国連軍の派遣,モブツ大佐の政治介入,ルムンバ首相の逮捕と虐殺,カサブブ派のレオポルドビル政権とルムンバ派のギゼンガを盟主とするスタンリービル(現,キサンガニ)政権の対立といった諸事件を織り込みながら,情勢は悪化の一途をたどった。…

【ユニオン・ミニエール[会社]】より

…コバルト,銅その他の鉱物資源の大規模開発を行ったばかりでなく,鉱業以外にもカタンガのほとんどの分野の企業の管理権を握り,コンゴ経済に支配的な影響力を及ぼした。コンゴが1960年に独立したのちもその影響力は保たれ,第1次コンゴ動乱(1960年7月~63年1月)では,背後にあってカタンガの分離独立を支持したともいわれている。その後67年にモブツ政権のもとで国有化され,ジェカミンGÉCAMINES(ジェネラール・デ・キャリエール・エ・デ・ミン・ドゥ・ザイールGénérale des Carrières et des Mines du Zaïre)という名称の国営企業へと改組された。…

※「コンゴ動乱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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