デジタル大辞泉
「サッチャー」の意味・読み・例文・類語
サッチャー(Margaret Thatcher)
[1925~2013]英国の政治家。1975年、保守党党首。1979年、英国史上初の女性首相となり、1990年まで在任。経済再編のためマネタリズムに基づく諸政策を実施。外交ではフォークランド紛争においてアルゼンチンを退け、ソ連(現ロシア)に対しては強硬路線を貫いた。その強い指導力と保守・強硬の政治姿勢から「鉄の女」と称された。1992年、男爵。→サッチャリズム →メージャー
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サッチャー
英国の政治家。中流家庭の出身。オックスフォード大学卒業。1959年下院に初当選,1975年女性で初めて保守党党首に選ばれ,1979年の総選挙で圧勝し,首相に就任。国民に自助努力を訴え,政策の主眼を福祉国家から自由主義経済国家への復帰におき,1982年にはフォークランド戦争に勝って1983年の総選挙に大勝し,第2次内閣を組閣。労働組合に攻撃を向け,〈小さな政府〉を目指して国有産業の民営化をはかった。1987年の総選挙にも勝って第3次組閣。ヨーロッパ統合の進展に対して国家主権の尊重を唱えて次第に孤立し,国内状況も悪化し,とりわけ〈コミュニティ・チャージ〉なる地方税の導入はかつての人頭税を思わせるものとして悪評を買う。1990年保守党党首選挙において過半数を確保したものの,再投票を余儀なくされて党首・首相を辞任し,10年に及ぶ〈サッチャーの時代〉に終わりを告げた。1992年政界を引退。〈鉄の女〉と呼ばれる強力なリーダーシップで,英国病とされた大きな政府による非効率の福祉国家を数々の規制を撤廃する構造改革によって小さな政府に作り替え,経済・金融・労働の活性化を実現し,成長社会に転換させた。その政策は,ブレアの労働党政権にも引き継がれ,90年代に世界的に進行する新自由主義とグローバリズムの先駆けとなった。しかし,サッチャーリズムは,英国の社会的安定を担保してきた伝統的な中産階層を解体する方向に働き,格差社会に道をひらいたとも指摘されている。また世界金融危機に端を発し,欧州債務問題に直結する世界的な信用バブルの崩壊についても,制御できないほど巨大化していく世界金融市場の暴走を予想できず,その引き金を引いてしまったとも批判されている。
→関連項目イギリス|キャラハン|新自由主義|小さな政府|独立行政法人|ヒース|ビッグバン(経済)|メージャー|ロンドン株式取引所
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サッチャー
さっちゃー
Margaret Thatcher
(1925―2013)
イギリスの政治家。食料雑貨店を営む両親のもとに生まれ、オックスフォード大学で化学を専攻、卒業後、法律を学んで弁護士資格をとった。1959年保守党下院議員となってから急速に頭角を現し、1960年代の労働党内閣時代には保守党の「影の内閣」の閣僚を歴任、1970年にヒース保守党内閣の教育・科学担当相に就任した。1975年ヒースを破って党首に選任され、1979年の選挙での勝利により首相となった。一貫して強固な保守主義を信念とし、国内的には労働運動と対決しつつ、大量の失業者を生み出しながらも、マネタリズム(貨幣主義)に基づく経済政策に固執、また対外的には対ソ強硬姿勢をとった。「人頭税」とよばれた地方税制度の導入が国民の強い批判を招くなかで、1990年に辞任した。1992年には貴族に列せられ、上院議員となり保守党右派に影響力を及ぼし続けた。2002年3月に事実上の政界引退を表明した。
[木畑洋一]
『石塚雅彦訳『サッチャー回顧録――ダウニング街の日々』上下(1993・日本経済新聞社)』▽『カトリーヌ・キュラン著、渡辺美紀子訳『マーガレット・サッチャー――「鉄の女」の生き方』(1993・彩流社)』▽『豊永郁子著『サッチャリズムの世紀――作用の政治学へ』(1998・創文社)』
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知恵蔵
「サッチャー」の解説
サッチャー
英国の政治家。保守党初の女性党首で、1979年から90年まで3期にわたり首相を務めた。女性の首相就任は欧州全体でも初。長らく低迷していた英国経済を、市場原理の導入で回復させ、「福祉国家」から「自立国家」へと移行させた。その豪腕や妥協を許さない外交姿勢から「鉄の女」と呼ばれる。
旧姓はマーガレット・ヒルダ・ロバーツ。25年、東部リンカンシャー州グランサムで雑貨店の次女として生まれた。オックスフォード大学卒業後、化学研究員として働きながら、弁護士資格を取得。その間、実業家のデニス・サッチャーと結婚し、3人の子をもうけている。59年、女性としては最年少の34歳で下院議員に初当選し、70年にはヒース政権下(~74年)で教育科学大臣となった。当時、「私が生きている間に女性の首相が誕生するとは思えない」と語ったが、75年保守党の党首になり、その4年後に首相となった。
首相在任中は、「小さな政府」を志向する新自由主義経済政策(サッチャリズム)を打ち出し、国営企業の民営化や大胆な規制緩和で、国内経済を活性化させた。一方、収益の上がらない炭鉱や鉄鋼工場を閉鎖し、反発する労働組合には大なたを振るった。こうした急進的な改革は「英国病」の克服に成果を挙げたが、負の遺産も残すこととなった。自助努力を前提にした諸政策は弱者を切り捨て、貧富の差を拡大させたといわれる。
安全保障でも譲歩せず、82年、実効支配していた南大西洋フォークランド諸島にアルゼンチン軍が侵攻すると、即座に艦隊を派遣して撃退した。西側では、経済統合を目指す欧州連合(EU)とは距離を置き、対米関係を重視。米レーガン大統領と盟友関係を築くとともに、ペレストロイカを進めるソ連ゴルバチョフ書記長を支援し、冷戦終結にも大きな役割を果たした。
90年、コミュニティ・チャージ(人頭税)の導入が党内外から反発を受け、退陣。2年後、政界からの引退を表明した。2008年には、認知症が進んでいることを家族が公表。13年4月8日脳卒中で死去した。英国での評価は、死後も「救世主か、破壊者か」(ガーディアン紙)と大きく二分される。
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サッチャー
Thatcher, Margaret
[生]1925.10.13. グランサム
[没]2013.4.8. ロンドン
イギリスの政治家。首相(在任 1979~90)。イギリス初の女性首相。フルネーム Margaret Hilda Thatcher, Baroness Thatcher of Kesteven。父はグランサム市長。オックスフォード大学在学中から保守党連盟の指導者を務めた。1947年同大学を卒業後,化学研究員として働くかたわら法律と税制を学んだ。1959年下院議員。1961~64年年金・国民保険省政務次官。1970~74年教育・科学大臣。1975年2月の党大会で対立候補のエドワード・ヒースを破って保守党初の女性党首に就任。1979年5月の選挙で保守党が労働党に勝ち,首相に就任した。1982年アルゼンチンとのフォークランド戦争に勝利し,翌 1983年6月再選を果たす。内政・外交で手腕を発揮し,炭鉱労働者のストライキ,アイルランド共和軍のテロにも妥協せず,冷戦時代にはアメリカ合衆国のロナルド・W.レーガン大統領と強固に連携した。1987年6月の選挙で 376議席を獲得して大勝,イギリス近代政治史上初めて首相 3選を果たした。しかしサッチャリズムと称される国有企業の民営化,政府規制の緩和,労働組合活動の規制などの施策は「イギリス病」を克服したものの 1989年以降の景気後退に直面して行きづまる一方,党内からも強権支配への批判が高まり,1990年11月に辞任した。その強固な意志に基づく指導力を評して,「鉄の女」と呼ばれた。
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サッチャー
Margaret Hilda Thatcher
1925~
イギリスの首相(在任1979~90)。中流階級の出身でオクスフォード大学に学び,1959年下院に初当選。75年女性で初めて保守党党首に選ばれ,79年の総選挙に勝って組閣。戦後の福祉国家体制を批判して自由主義経済政策への転換に政策の重点を置き,82年フォークランド戦争に勝って,翌年の総選挙に大勝し,第2次内閣をつくる。国民に自助努力を訴えて,労働組合に激しい攻撃を加え,「小さな政府」を目標にして,国有産業の民営化を進め,ロンドン株式市場を変革(ビッグ・バン)した。87年の総選挙にも勝って,第3次内閣を組閣したが,ヨーロッパ統合に懐疑的な立場をとり,またすべての住民に対する均等課税を企てたため,しだいに孤立し,90年の党首選挙で十分な支持が得られずに辞任した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
サッチャー
Rt. Hon. Margaret Hilda Thatcher
1925〜
イギリスの政治家。初の女性首相
1975年に保守党の党首となり,首相就任後は一貫して福祉切り下げや国営企業の民営化などによる経済の再建を進め,対外的にも82年のフォークランド戦争に代表されるような強硬路線をとった。「鉄の女」の異名をとって3期にわたる長期政権を維持したが,人頭税の導入が弱者切り捨てとの批判を浴び,ヨーロッパ連合推進への消極的態度からヨーロッパ共同体(EC)内で孤立し,1990年に退陣した。
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報