翻訳|Saracen
ヨーロッパの,とくに中世において用いられたイスラム教徒(ムスリム)に対する呼称。古くは,ギリシア人やローマ人が,シリアやアラビア半島のアラブをさして呼んだギリシア語のサラケノイSarakēnoi,ラテン語のサラケニSaraceniなどの語に由来するが,その語源はアラビア語のシャルクsharq(〈東〉の意),サフラーṣaḥrā’(〈砂漠〉の意)など諸説があり,定説はない。2世紀のプトレマイオスはその地理書で,サラセンの語を用いてアラブに言及している。7世紀にアラブ・イスラム軍がビザンティン帝国を破り,西アジアから北アフリカ,イベリア半島までの地域を支配するようになると,サラセンは,イスラム教徒をさす呼称として用いられるようになり,同地域を支配したウマイヤ朝やアッバース朝は,しばしば〈サラセン帝国〉と呼ばれた。
イスラム教徒の地中海地域の征覇に脅威を感じた中世ヨーロッパのキリスト教徒にとって,サラセンは,キリスト教徒の〈敵〉としてのイメージがまとわりつくようになり,同時に,ゆがめられたサラセン人=イスラム教徒の像がつくりあげられた。《ローランの歌》をはじめとする中世の叙事詩において,サラセン人は預言者ムハンマドをあがめる偶像崇拝者として描かれ,しかもムハンマドは偽預言者であり,イスラムは性的放縦を容認する宗教であり,ムハンマドをはじめサラセン人はすべて堕落した人々とされた。またベーダ(8世紀)をはじめとする聖書解釈学において,サラセン人は荒野に追いやられたアブラハムの子イシマエルの子孫として,好戦的な牧民,イサクよりも劣った一族とみなされた。このようなヨーロッパのキリスト教徒の嫌悪と軽蔑にみちたサラセン認識は,十字軍を準備する土壌であったが,十字軍の敗北とこれを通じてのイスラム教徒との接触は,すぐれたイスラムの文化やサラディン(サラーフ・アッディーン)をはじめとするイスラムの〈騎士〉像をヨーロッパに伝えるところとなった。
15世紀以降,イベリア半島のイスラム教徒がレコンキスタ(国土回復戦争)によって駆逐されると,ヨーロッパのキリスト教徒の主要な敵はオスマン・トルコとなり,トルコTurkがサラセンにかわってイスラム教徒の代名詞となっていく。またアラブ地域への旅行者がふえるにつれてアラブという呼称が一般化し,とくに遊牧のベドウィンをさすようになった。このようにしてアラブやイスラム教徒をさす呼称としてのサラセンの語はしだいに用いられなくなった。19世紀以降本格化したイスラム学は,学問的・客観的なイスラム理解を目ざしたが,中世のキリスト教徒の間でつくりあげられたサラセン=イスラム観は,近代にいたるまで根強い偏見をヨーロッパ人の間にうえつづけ,東方問題や聖地問題,あるいはパレスティナ問題をひきおこす基盤となった。
執筆者:三浦 徹
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…アラブという語はその後一貫して,歴史史料においても文学作品においても遊牧民(ベドウィン)を意味し,現在でもアーンミーヤ(口語アラビア語)でアラブといえば遊牧民を意味する。十字軍の年代記類にあっても,アラブといえば遊牧民をさし,イスラム教徒の定住民はサラセンとよばれている。
[現代のアラブ]
中東のアラブ地域がトルコ人の支配に帰し,トルコ語が公用語となったオスマン帝国時代に,トルコ人がアラブ地域の住民をアラブとよんだこともあって,アラブ意識が徐々に芽生え始めたようである。…
※「サラセン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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