改訂新版 世界大百科事典 「イスラム学」の意味・わかりやすい解説
イスラム学 (イスラムがく)
第2次ウィーン包囲(1683)を最後に,オスマン帝国はヨーロッパにとって東方の脅威ではなくなった。18世紀のヨーロッパ,とくにイギリスとフランスでは,トルコ人やイスラム教徒に対する恐怖心や敵意は影をひそめ,代わって,異国情緒のロマン主義(オリエンタリズム)が支配的となった。パリやロンドンの目抜通りのコーヒー店,キオスクをしつらえた東洋風庭園,A.ガランの《千夜一夜物語》(1704-17),モンテスキューの《ペルシア人への手紙》(1722),ボルテールの《マホメット》(1741)などが18世紀ヨーロッパのオリエンタリズムを代表する。他方,ヨーロッパで聖書研究が飛躍的な発展をとげたのも18世紀で,その刺激をも受けて東方諸言語への文献学的関心が高まり,公正な解説とともに現在なお利用されているG.セールのコーラン英訳(1734)も著された。ナポレオンのエジプト遠征(1798-99)が,人々の中東への関心をいっそう高めたのはいうまでもなく,19世紀になるとアジア協会(パリ,1822),王立アジア協会(ロンドン,1823),アメリカ・オリエント協会(1842),ドイツ東洋協会(1847)などの学術団体が相次いで設立された。新しい学問としての,イスラム学誕生の機運は,十分に熟したといえよう。
イスラム学は,伝統的なイスラム教徒の学問とは本質的に異なり,またオリエンタリズムとも一線を画す。それは19世紀中ごろのヨーロッパで,そのころまでに古典学,聖書学,とりわけ歴史学の領域で確立された歴史的文献批判の方法論に基づき,初期イスラムの宗教と歴史を対象に始められた学問で,やがてイスラム教徒の宗教的・歴史的・文化的活動の所産全体に,その対象を広げていった。このような意味でイスラム学建設者の名にふさわしいのは,文献学から歴史学に進み,ユダヤ人としてヨーロッパの大学で初めて東洋学教授の地位を占めたワイルGustav Weil(1808-89)であった。《ムハンマド伝》(1843)に始まり,《コーランの歴史的・批判的序説》(1844)を経て,《カリフ史》3巻(1846-51),別冊2巻(1860,62)にいたる彼の一連の業績は,イスラム学誕生の産声となった。ワイルに続くネルデケの《コーランの歴史》は,後に徹底的な増補改訂が行われたが,その後のコーラン研究の方向を示し,《ムハンマド伝》(1863)は一般読者を対象としたものであるが,ムハンマドの生涯の時代区分の基本的構成を確立した。フォン・クレーマーの《イスラムの主要思想の歴史》は後の思想史の,《オリエント文化史》は社会経済史の先駆となった。とくに重要な地位を占めるのはゴルトツィーハーとウェルハウゼンの業績で,前者の《イスラム研究》のアラブ部族組織とハディースの批判的研究,後者の《アラブ帝国》で展開された初期イスラムの国家と社会についての古典理論は,部分的に修正された点はあるが,現在なお有効である。
優れた先駆者に恵まれたイスラム学は20世紀にいたって飛躍的な発展をみ,ネルデケの《コーランの歴史》は徹底的な増補改訂がなされ(3巻,1909-38),外来語彙,異文の研究のほか,章節の相対的ならびに絶対的年代の確定,用語の正確な意義,ユダヤ教・キリスト教の影響等の研究が進められた。ムハンマド伝に関しては,クロノロジーを含む細部をほぼ決定したブフルFrants Buhl(1850-1932)の《ムハンマド伝》(1903,ドイツ語版1930)に続き,社会学的分析を特徴とするW.M.ワットの二部作(1953,56),宗教心理学的視点からするT.アンドラエの《ムハンマド》(1930)等が著された。フォン・クレーマーの思想史研究は神学・哲学・政治思想の個別研究によって受け継がれ,とくにR.ニコルソンとマシニョンによるイスラム神秘主義の研究は,神学や法学の研究で知ることのできないイスラムの一側面を明らかにした。
アッバース朝最盛期の政治・経済・社会・文化の高度の分析と総合とをみごとに一致させたA.メッツの《イスラムのルネサンス》(1937),ほとんどすべてのハディースは後世の偽作であるとして学界に強い衝撃を与えたシャハトの《イスラム法学の起源》など,優れた個々の研究は枚挙にいとまないが,20世紀の30年代から一貫してイスラム学の指導的立場にあったのはギブである。征服史,政治史,制度史,政治思想,文学と,彼の研究対象になった分野は幅広いが,彼のイスラム理解の根底には,論文〈イスラムにおける宗教思想の構造〉(1938)に示されるように,アニミズムおよび神秘主義の衝撃によく耐えたスンナ派ウラマーへの一種の親近感がある。やがて彼はアメリカに移り,歴史学者のほかに政治学者,社会学者,経済学者をも組織した地域研究を指導することになり,欧米の中東政策にコミットするようになった。この二つの点から,最近ギブに代表されるイスラム学に対するイスラム教徒の学者の不信感も表明されている。しかしアメリカに中心を移したイスラム学は,そのあらゆる分野で量・質ともに発展の一途をたどり,他方A.A.ドゥーリー,S.A.アリーからM.A.シャーバーンにいたるまで,ヨーロッパで生まれ育ったイスラム学の方法論を身につけたアラブの優れた学者も輩出している。現在のイスラム学の盛況は,旧版《イスラム百科事典》4巻(1913-34),補遺(1938)に続き,1954年以来その新版の刊行が始められていることによく示されている。
19世紀の中ごろイスラム学を開拓したのは文献学者であったが,20世紀におけるイスラム学の発達を支えたのも文献学者である。このような意味で,F.ビュステンフェルト,M.J.ド・フーユ,E.ザハウらによるアラビア語テキストの刊行,ブロッケルマンらによる文献の記述・分類・解説の努力は高く評価されなければならないし,今後も継続されなければならない。
執筆者:嶋田 襄平
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報