フランスの劇作家。巧妙な筋立てとしゃれた対話により,スクリーブやデュマ(子)と並んで,19世紀後半のパリ劇界を風靡した。まず医学を志したが,やがて文学に転向,1854年に最初の戯曲《学生酒場》を上演したが完全な失敗に終わり,数年間劇作の筆を絶つ。58年に女優ブレクールと結婚してから再び劇作に意欲を燃やし,《フィガロの最初の武器》(1859)と《金釘流》(1860)がたてつづけに成功を収めて,新進劇作家としての名声を確立した。以後,約40編の喜劇を書き,その大半は筋の運びを主とする風俗劇で,《ブノアトン一家》(1865),《離婚しよう》(1880),《心霊術》(1897)などが秀作である。また歴史に取材した正劇(ドラム)の分野でも《祖国よ》(1869)や《憎悪》など力作を発表,とりわけ《トスカ》(1887)や《無遠慮夫人》(1893)は著名である。心理分析が甘いという批判はあるが,観客の笑いと感動を誘うその手法は鮮やかであるというほかはない。
執筆者:大久保 輝臣
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フランスの劇作家。初めミュッセの影響を受けたが不評で、スクリーブ流の「よく作られた脚本」に倣い『金釘(かなくぎ)流』(1860)で成功した。以後『別れよう』(1880)のような社会劇、ついで『フェドラ』(1882)、『トスカ』(1887)などのメロドラマは大女優サラ・ベルナールの当り芝居となり、晩年は『サン・ジェーヌ夫人』(1893)などの史劇に集中し、演劇のあらゆるジャンルにわたって書きまくった。内容には乏しいながら舞台をおもしろくする目的は達し、ロマン主義演劇が崩壊して、写実主義演劇が樹立されるまでをつなぐ役目を果たした。
[本庄桂輔]
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