カンボジアの王族政治家。1941年国王に即位。1945年日本占領下で独立宣言、1949年フランス連合内の独立、1953年完全独立を達成。1955年父スラマリットNorodom Suramarit(1896―1960)に王位を譲り、自らは人民社会主義共同体を結成、事実上の一党支配体制を確立した。1960年父王の死去に伴い国家元首に就任、対内的には「仏教社会主義」、対外的には非同盟路線を推進した。1970年3月外遊中にロン・ノルLon Nol(1913―1985)首相ら右派勢力のクーデターで失脚。同年5月亡命先の北京(ペキン)で左派「クメール・ルージュ」を含むカンボジア王国民族連合政府を樹立、南ベトナム解放民族戦線、ラオス愛国戦線などインドシナ解放勢力とも連携するに至る。1975年4月のプノンペン解放をみて9月帰国。1976年4月「クメール・ルージュ」の独裁強化に伴い国家元首を辞し、事実上の幽閉生活に入る。1979年1月ベトナム軍のプノンペン制圧直前に北京へ脱出、中国・北朝鮮を拠点に反ベトナム・キャンペーンを展開した。1982年7月11日ASEAN(アセアン)諸国や中国の後援を得て、「クメール・ルージュ」を含む反ベトナム三派による民主カンボジア連合政府を樹立、大統領に就任。反ベトナム三派のなかでは軍事的には最小の勢力であったが、王族指導者としてのカリスマ的人気は根強かった。しかし、健康上の理由から平壌(ピョンヤン)や北京での滞在期間が長くなった。1993年、立憲君主制のもとで国王に就任。1997年7月の政変で子息のラナリットNorodom Ranariddh(1944―2021)前第一首相が失脚。6人の王妃との間に14人の子供をもうけたが、7人が死去、3人が国外追放(脱出)となり、王政の存続の危機もささやかれた。2004年、国王の座を子息のシハモニNorodom Sihamoniに譲り、退位。
[黒柳米司]
『友田錫・青山保訳『シアヌーク回想録――戦争……そして希望』(1980・中央公論社)』▽『ミルトン・オズボーン著、小倉貞男訳『シハヌーク 悲劇のカンボジア現代史』(1996・岩波書店)』
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【第1次インドシナ戦争】
19世紀末以来,上記3国はフランスの植民地下にあったが,第2次大戦中は日本軍が進駐していた。1945年3月,日本軍はクーデタによってフランス勢力を倒し,かわってベトナムのバオダイ帝,カンボジアのシアヌーク王,ラオスのシー・サワン・ウォン王を擁立して独立させた。同年8月日本軍が降伏するや,ベトナムでは反日抵抗組織ベトナム独立同盟会(ベトミン)が,インドシナ共産党の主導の下に各地でバオダイ政権からの奪権闘争を行い,9月2日ベトナム民主共和国を樹立した。…
…正称=カンボジア王国Kingdom of Cambodia 面積=18万1035km2人口(1996)=1027万人首都=プノンペンPhnom Penh(日本との時差=-2時間)主要言語=クメール語(カンボジア語)通貨=リエルRielインドシナ半島の南西隅に位置し,北海道の2倍強の面積をもつ国。カンボジアといえば,王国,敬虔な仏教徒,アンコール・ワットなどで知られていたが,1970年3月のシアヌーク元首の解任により,インドシナ戦争に大きく巻き込まれ,混乱と戦争が続き,鎖国,難民,首都プノンペンの無人化,虐殺という不可解な変事が続発した。93年,新生カンボジア王国が誕生した。…
※「シアヌーク」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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アデノウイルスの感染により、発熱、のどのはれと痛み、結膜炎の症状を呈する伝染性の病気。感染症予防法の5類感染症の一。学童がプールで感染して集団発生するのでプール熱ともいう。...
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