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聖ベネディクトゥスの会則による、ローマ・カトリックのベネディクト会原始会則派のもっとも重要な一派。清貧、質素な隠修士的生活のなかで、祈りと労働によって神に仕え、たたえることを目的とする。1098年モレムの聖ロベルトゥスにより、ブルゴーニュのシトーCîteauxに開かれた修道院に始まるが、12世紀のクレルボーのベルナルドゥスの力によって大いに隆盛をみた。近世に入って衰え、フランス革命で大打撃を受けたが、革命後ラ・トラップの修道院を中心に、より禁欲的で荘厳な典礼や修道士の労働を重視する、いわゆるトラピストがおこり、厳律シトー会として独立した。日本にはこのトラピストが1896年(明治29)に早くも渡来し、現在、函館(はこだて)をはじめ二つの男子修道院、四つの女子修道院をもつ。
[鶴岡賀雄 2017年8月21日]
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…とくに東方キリスト教社会(ビザンティン社会)では,8~9世紀に激しい聖像論争が行われ流血の惨をさえ見,多くの図像芸術が破壊された。西ヨーロッパでは比較的順調にキリスト教美術が発展したが,それとても偶像崇拝あるいは過度の感覚的美術に対する警戒心は失われず,とくに12世紀のクレルボーのベルナールおよび彼の指導下にあったシトー会は,修道院建築から感覚的な装飾(およびぜいたくな素材を用いた宗教美術)を一掃すべきことを強く主張した。それによって独自の簡潔な性格をもつ宗教芸術がシトー会を中心として12~13世紀のヨーロッパに栄えた。…
…〈崇高壮大な美は,神の栄光の地上的象徴であり,その感覚的歓びの享受を通して魂は神の栄光へと導かれる〉という,後にサン・ドニ修道院長シュジェール(スゲリウス)によって表明されることになる芸術理念が,ここに結晶化された。ロマネスク芸術の一方の範例たるクリュニー修道院の芸術は,清貧の美を求める他方のシトー会やカルトゥジア会の禁欲的芸術理念と対立し,激しい批判を浴びた。中世のもっとも完ぺきな建築とされた第3聖堂は,フランス革命期に売却解体され(1798‐1819),今日では大翼廊南袖廊と内陣柱頭彫刻などをわずかに残すのみで,その全貌は測りがたい。…
…労働時間は1日6~8時間で農耕,植物栽培のような戸外作業だけでなく,製粉,パン焼き,台所作業,筆耕,掃除,病人看護などもあった。
[シトー会とフランシスコ会による革新]
〈ベネディクトゥス会則〉はカロリング時代には広く普及したが,当時の修道院は西欧最初の文化創造運動であるカロリング・ルネサンスにも促進的役割を果たした。9世紀から10世紀にノルマン人(バイキング),マジャール人,イスラム教徒の攻撃で荒廃した修道院は,クリュニー修道院やロートリンゲン地方の修道院改革によって再び活性化し,11世紀後半のグレゴリウス改革にも貢献したが,12世紀以降は修道形態そのものを革新する。…
…カトリック教会の一観想修道会。正式には1899年以来改革シトー会Ordo Cisterciensium Reformatorum,1902年以来厳律シトー会Ordo Cisterciensium Strictioris Observantiaeと称される。トラピストはフランス,ノルマンディーのオルヌ県にあるその改革修道院ラ・トラップLa Trappeから出た親称。…
…フランス中部,コート・ドール県の村。シトー会の総帥クレルボーのベルナールにより1119年に創設された,クレルボー修道院の支院(娘修道院)がある。同院は16世紀まで300人以上の修道士を数えたが以後衰退し,フランス革命後製紙工場と化す。…
※「シトー会」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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