フランスの画家。富裕な馬具商の息子としてパリに生まれる。生涯経済的に困ることはなかったが、思想的には筋金入りのアナーキストであった。1882年の数か月間エミール・バンÉmile-J-B-P. Bin(1825―1897)のアトリエで学んだほかは正式な絵画教育を受けなかった。初期の作品は、モネ、さらにはギヨーマンの強い影響を示している。1884年、アンデパンダン芸術家協会創設の際スーラと親交を結んでからは、光と色彩の科学的法則に目を開かされ、以来二人は互いに欠を補い合いながら新しい絵画理論の構築と実践に邁進(まいしん)し、新印象主義発展の牽引(けんいん)車となった。2年後の1886年、印象派最後の展覧会にともにその成果を発表、新印象主義の誕生を告げた。当時の代表作に『フェリクス・フェネオンの肖像』(1890)がある。シニャックにとって1891年のスーラの急逝は大きな痛手となり、新印象主義の一時的な衰退を招いたりもしたが、この運動のスポークスマンを自ら任ずる彼は、やがてふたたび精力的にその普及活動に乗り出す。同時に、科学的に正確に統御された小さな色斑(しきはん)によるスーラの点描法から、比較的大きなモザイク状の描法に転じ、より純粋な色彩画家としての側面を鮮明にするようにもなった。アンデパンダン協会の会長を務めたり、自ら発見したと称する南フランスのサン・トロペに芸術家を招いてそのホスト役を務めたりするなど、数々の交友によって新印象主義の画法を次代の画家たちに伝えるうえで大きな役割を果たした。また文筆活動も盛んで、その明晰(めいせき)な著作『ウージェーヌ・ドラクロワから新印象主義まで』(1899)は色彩理論の基本的なテキストとなった。パリで没。
[大森達次]
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…フランスで19世紀末,1880年代前半から90年代にかけて,まずスーラ,ついでシニャックを中心に展開された絵画運動。〈新印象主義〉という呼称は,象徴主義的美術批評家フェネオンFélix Fénéonによる。…
…82‐83年,対象を輪郭のぼんやりとした影のように表現するデッサンによって明暗のコントラストを探究し,83年,油彩による最初の大作《アニエールの水浴》に着手する(1884完成)。スーラの本質ともいうべき,冷ややかな静けさに満たされたこの作品は,84年,彼自身創立メンバーの一人だったアンデパンダン展(第1回)に出品され,シニャックの共感を得る。以後,二人はともに,純色を点描によって並置することで輝かしい視覚混合を生み出す(点描主義)一方で,画面全体を幾何学的な秩序感覚で統合する,いわゆる新印象主義を基礎づけていく。…
※「シニャック」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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