フランスの画家。フランス革命で活躍し,政府高官を務めたシャルルを父に,著名な家具師エーベンŒbenの娘ビクトアールを母にもったが,本当の父親はタレーランだとする説が今日では有力である。若くして両親を失ったが,リセ・アンペリアルで古典の基礎を身につけ,1815年ゲランGuérinのアトリエにはいり,年長のグロやジェリコーと知り合う。翌年エコール・デ・ボザール(国立美術学校)に入学するが,師の教えよりもルーブルでの模写から多くを学び,ルーベンス,ベネチア派の躍動感と色彩の純粋さを賛美する。22年のサロンのデビュー作《ダンテの小舟》でティエールらからロマン主義の画家としての評価を得,国家に買い上げられた。24年にはギリシアの独立戦争という同時代の事件に題材をとった《キオス島の虐殺》を,27年には新しい英雄像《サルダナパロス王の死》を,31年には前年の七月革命を賛美する《民衆を導く自由の女神》を,それぞれサロンに送り,ジェリコーの後継者,ロマン主義の領袖とみなされた。
この間,1825年にイギリスに3ヵ月ほど滞在し,コンスタブルやボニントンの自然主義的作風と混色の少ない明るい色彩の影響を受けた。32年にはモルネー伯爵の外交使節団に加わってモロッコを訪問する。この旅でイスラム文化圏のエキゾティックな風俗と強い光の下の鮮やかな色彩に強い感銘を受け,帰国後の作品はロマン主義の一支流をなすオリエンタリズムの形成に大きな役割を果たすことになる。その中でも代表的なものは,《アルジェの女たち》(1834),《モロッコのユダヤの結婚式》(1841)など。これらの制作と並行して,ドラクロアは政府から多くの建築物の装飾の注文を受けた。ブルボン宮殿の国王の間および図書室(1833-47),リュクサンブール宮殿図書室(1840-46),ルーブル宮殿アポロンの間(1850),パリ市庁舎の平和の間(1852-54。71年焼失),サン・シュルピス教会の天使礼拝堂(1853-61)である。これらにおいて彼は,古典や宗教に対する深い理解と,大画面装飾の才を示し,名実ともに巨匠としての地位を確立した。55年の万国博覧会ではアングルと並んで特別室を与えられ,42点を出品,62年には200点にものぼる油彩画の展覧会を開いた。しかしアカデミーにはなかなか入れられず,数度の落選ののち1857年に正会員となった。63年にフュルスタンベール街のアトリエで亡くなり,今日それはドラクロア美術館となっている。
ドラクロアは,古典の伝統をすぐれて受け継ぎながら,同時代のできごとにも深い関心を払い,また文学,とくにシェークスピアやバイロンらの英文学を多く題材にとる一方,宗教画もよくした。このように主題のうえではきわめて多岐にわたる。技法においては,色彩の補色の利用や,筆跡の残る大きなタッチを有効に用いるなど,印象派はもとより,後期印象派やフォービスムに影響を与えた。また1822年から亡くなるまで書き続けられた〈日記〉は,すぐれた批評の書である。
執筆者:馬渕 明子
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…また裸体画や歴史画なども多く試み,ラファエロ研究の集大成である宗教画《ルイ13世の誓い》を仕上げて,24年パリのサロンに出品,この年帰国する。このサロンは,弱冠26歳のドラクロアの《キオス島の虐殺》が賛否両論の渦に巻きこまれた年であり,折から帰国のアングルと対抗する形になり,以後両者はよきにつけあしきにつけロマン主義対新古典主義の両旗手として,画壇を二つに割るほどのライバルと見なされるようになった。間もなくレジオン・ドヌール勲章を受け,美術アカデミー会員に選ばれ,アトリエを開く。…
…バランシエンヌPierre‐Henri de Valenciennes(1750‐1815)はその著《実用遠近法入門》(1800)で,戸外の自然のあらゆる季節,時間,光の状態を分析したのみならず,自ら雲や,山を覆う霧などをごく短時間にとらえた油彩スケッチを残した。このようにスケッチの段階ではかなり早くから明るい戸外の光を見えるままに描き出す努力がなされていたが,それを実際の完成作品に,部分的ではあるが応用したのがドラクロアである。彼はベネチア派の研究を通じて明るい色彩を追求し,色彩を特に明るく見せるために補色を色斑で並べる工夫を行った(一説にはコンスタブルの影響を受けたためといわれる)。…
…音楽では,モーツァルトの《後宮よりの誘拐》(1782)のトルコ趣味が早い例で,後にはベルディの《アイーダ》(1871初演)のような,エジプト風俗に関してかなり歴史的考証を経たものも見られる。美術の分野では,ロマン主義の代表者ドラクロアの《アルジェの女たち》(1834),《ミソロンギの廃墟に立つギリシア》(1826)などが東方への熱い思いを伝えるが,アングルのような新古典主義の画家による《グランド・オダリスク》(1814)など,ロマン主義に限らず幅広い層の関心をあつめた。後の世代のシャセリオー,フロマンタン,ジェロームなどへと,時代が下ってゆくにつれ,単なるエロティシズムや浅薄な好奇心を満たすだけに終わり,しだいに新鮮さと力を失っていった。…
…多くの音楽家もまたそれぞれ重要なファウストをテーマとする作品によってこの伝説を一般化するのに貢献した。絵画ではドラクロア(1825)がファウストの最も情熱的な解釈者として有名である。 マーローのファウスト劇は,民衆本の茶番的要素が多く含まれているが,権力への意志と容赦なき罰との間の悲劇となっている(《フォースタス博士》)。…
… しかしながら,これらの画家たちは,主題の扱い方においては新しいロマン主義的傾向を強く見せているが,表現様式においては,なお多くの点で,古典主義の伝統を受け継いだ新古典主義の枠内にあった。上に挙げた画家たちのうち,ゴヤは晩年の〈黒い絵〉シリーズにおいて,ターナーは後半生の輝くような色彩表現において新しい方向に向かっていくが,新古典主義とはまったく別のロマン主義の表現様式を確立したのは,フランスのドラクロアである。ドラクロアは,先輩のジェリコーが劇的な内容の《メデューズ号の筏》(1817)において人びとに強い衝撃を与えたその後を受けて,《ダンテの小舟》(1822),《キオス島の虐殺》(1824),《サルダナパロス王の死》(1827‐28)等によって,1820年代にはっきりとロマン主義絵画の旗手となった。…
※「ドラクロア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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