フランスで19世紀末,1880年代前半から90年代にかけて,まずスーラ,ついでシニャックを中心に展開された絵画運動。〈新印象主義〉という呼称は,象徴主義的美術批評家フェネオンFélix Fénéonによる。光を色彩に還元しようとした印象派の画家たちは,明るい細かな筆触を並置させることでいままでにない生気に富んだ画面を生みだしたが,その反面で事物の形態は不明確に,構図はしまりのないものになった。スーラはその主要な原因を印象派における色彩並置がいまだ経験的,本能的な段階にとどまっている点に求め,1880年ごろから,ドラクロアの色彩観,シュブルール(1839),ヘルムホルツ(1878),ルッド(1881)の色彩理論を採用しながら,印象主義そのものを科学的に体系化しようとした。その基本となったのが,〈視覚混合le mélange optique〉であり〈色彩の同時的対比(コントラスト)〉である。前者によれば,色彩は網膜上で混合され--たとえば青と黄は網膜上で結びつき,緑として知覚される--,後者によれば,隣接する色彩は影響しあい,とくに補色どうしは互いの輝きを高めあう(これと関連して,ある色彩の周辺部はその補色のかげりを帯びる)。こうして,画面が最高度の輝きを得るために,色彩は当然原色ないし純色に分割されねばならず(ディビジヨニスム),そのもっとも効果的な技法として,純色の小斑点を画面に無数に並べていく点描主義が生みだされた(これによれば,たとえば日のあたる牧草地は,次のような3系統の点描によって複雑に構成される。緑--草の固有色,オレンジおよびオレンジイェロー--日光とその反映,緑黄色--草に吸収された日光,隣接部分の紫の補色)。こうした秩序感覚は構図にもむけられ,黄金比をはじめとする,古典的で厳格な幾何学的構図が用いられた。スーラの《グランド・ジャット島の日曜日の午後》(1886)はこうした新印象主義の記念碑的な作品である。しかし,彼はこれにあきたらず,画面における線の方向と感情を関係づけようとするアンリCharles Henry(1859-1926)の象徴主義的な美学--たとえば,右方向に上ってゆく線は見る者に快感を与える--に共鳴し,それを実制作に取り入れることで新印象主義をより完全なものにしようとしたが,早世した。あとを引き継いだシニャックは99年,理論書として《ウージェーヌ・ドラクロアから新印象主義まで》をまとめたが,この運動そのものはすでに終わっていた。
新印象主義はフランス国内でクロス,アングラン,デュボア・ピエ,一時的だったがC.ピサロ,国外では,バン・リッセルベルゲ(ベルギー),セガンティーニ,プレビアーティ(ともにイタリア)といった同調者を得たが,しだいに点描主義という単なるスタイルに変質していった。しかし,この変質によってはじめて色彩は対象から自由になり,独自の表現の可能性を与えられ,それはやがてマティスをはじめとするフォービスムの画家たちが画面に原色を爆発させる直接の契機となるのである。
→印象主義
執筆者:本江 邦夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
※「新印象主義」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新