改訂新版 世界大百科事典 「シュレジエン戦争」の意味・わかりやすい解説
シュレジエン戦争 (シュレジエンせんそう)
3次にわたるプロイセンとオーストリアの戦争で,同時に長期にわたるイギリスとフランスとの植民地戦争と重なり,ドイツにおけるプロイセンの,また世界におけるイギリスの優位をもたらした。
(1)第1次(1740-42) マリア・テレジアのオーストリア相続を認めていたプロイセン王フリードリヒ2世(大王)は,代償にシュレジエンを求めて占領し,オーストリア継承戦争の口火を切った。反オーストリアのブルボン連合に支援されてバイエルン公カール・アルブレヒトの皇帝即位(カール7世)が実現すると,プロイセンはイギリスの調停により,ブレスラウ(現,ブロツワフ)に和を結び,シュレジエンを確保する。
(2)第2次(1744-45) オーストリアがイギリスと結んでボヘミアを回復し,優勢になると,フリードリヒ2世は皇帝カール7世を支持してプラハを占領する。しかし反撃を受けボヘミアから撤退させられるが,プロイセンはカールの死を機会にイギリスを介して,マリア・テレジアの夫フランツ1世の皇帝選立とシュレジエン領有を条件に,ドレスデンに和を結ぶ。
(3)第3次(1756-63) シュレジエンの回復をめざすマリア・テレジアは対仏接近に転じ,1746年ロシアとも同盟し,プロイセンの孤立化を図るが,54年再発したイギリス・フランス植民地戦争のなかでプロイセンも56年1月イギリスと協約を結ぶ。オーストリアも5月フランスとの同盟に成功すると,フリードリヒ2世は七年戦争に踏み切る。プロイセンは,クンネルスドルフの敗戦やベルリン占領など苦境に立つが,62年ロシアの政変に救われ,63年フベルトゥスブルクHubertusburgの和を結び,シュレジエンを確保し,その後の発展を決定的にした。
執筆者:進藤 牧郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報