ジュネーブ軍縮会議(読み)ジュネーブグンシュクカイギ

デジタル大辞泉 「ジュネーブ軍縮会議」の意味・読み・例文・類語

ジュネーブ‐ぐんしゅくかいぎ〔‐グンシユククワイギ〕【ジュネーブ軍縮会議】

1927年、主力艦の制限を決定したワシントン会議に続いて、巡洋艦以下の艦艇の制限を目的として開かれた国際会議。イタリアフランスの不参加、アメリカ・イギリス・日本の対立で失敗に終わった。
1932年、国際連盟の主催で軍備縮小・制限を目的として開かれた国際会議。六十数か国が参加したが、日本・ドイツ連盟脱退で成果のないまま流会した。
国際連合の枠外における軍縮交渉の場として設けられた常設機関。唯一の多数国間軍縮交渉機関で、事務局はジュネーブに置かれる。1960年に設立された10か国軍縮委員会を前身とし、加盟国の増加と名称変更を経て1984年から軍縮会議となる。日本は1969年に加盟。CD(Conference on Disarmament)。

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精選版 日本国語大辞典 「ジュネーブ軍縮会議」の意味・読み・例文・類語

ジュネーブ‐ぐんしゅくかいぎ‥グンシュククヮイギ【ジュネーブ軍縮会議】

  1. [ 一 ] 一九二七年、日本、アメリカ、イギリスが一万トン以下の補助艦制限を目的としてジュネーブで開いた軍縮会議。三国の調整ならず、不成立。ジュネーブ海軍軍縮会議
  2. [ 二 ] 一九三二年二月からジュネーブで国際連盟の主宰のもとに開かれた軍縮会議。国際連盟加盟国のほかアメリカ、ソ連など全部で六一か国が参加したが、ドイツとフランスの対立、ヒトラー政権の樹立(一九三三)、日本の国際連盟脱退一九三三)などにより、成果のないまま一九三四年五月閉会。

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改訂新版 世界大百科事典 「ジュネーブ軍縮会議」の意味・わかりやすい解説

ジュネーブ軍縮会議 (ジュネーブぐんしゅくかいぎ)

(1)1927年ジュネーブで開かれたアメリカ,イギリス,日本3国による海軍軍縮会議Naval Conference。アメリカ大統領クーリッジがワシントン軍縮会議で除外されていた補助艦(巡洋艦,駆逐艦潜水艦)の数・トン数を制限しようと提議した。しかし,フランス,イタリアが参加を拒絶したうえ,会議では英米間が対立したため,なんの効果もなく閉会した。日本からは斎藤実,石井菊次郎全権に任命された。
ロンドン軍縮会議
(2)国際連盟が規約第8条(軍備縮小)に基づいて1932年2月から34年末まで,59ヵ国の参加を得てジュネーブで開催した全般的軍備縮小に関する会議Disarmament Conference。連盟は1925年12月に軍縮会議準備委員会を設置した。30年12月になって同委員会で軍縮条約の概要(軍事予算の制限,兵役期間の制限,常設軍縮委員会の創設など)につき,条件つきながらいちおう合意が得られたため,連盟理事会が開催を決定した。この軍縮会議では,国際連盟警察軍(フランス),特定攻撃兵器全廃(イギリス),兵力一律削減(アメリカ)などの提案があったが,いずれも合意にいたらなかった。32年7月になって会議は,(a)一般民衆への空中からの爆撃禁止,航空機数の制限,(b)特定規模以上の重火器,戦車の制限,(c)化学的戦争手段の制限,を内容とする決議案を表決に付した。41ヵ国の賛成が得られたものの,これもソ連,ドイツの反対にあい,会議はゆきづまりを見せた。その後もイギリスがヨーロッパ軍縮案を提案し,フランスも2段階軍備制限案を作成したが話合いはつかなかった。もともと世界的な不況,東アジアにおける満州事変,ドイツにおけるナチス勢力の台頭などの難しい環境下での会議であったが,最大の障害となったのは,ベルサイユ条約の束縛を脱しようとするドイツと,ドイツの再軍備に反対し,それを認める前に確固たる国際安全保障体制を求めるフランスの対立であった。33年10月14日,ドイツが軍縮会議と国際連盟を脱退し,その後のイギリスの独仏調停も失敗したため,同会議は34年末以降再び開かれることがなかった。
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知恵蔵 「ジュネーブ軍縮会議」の解説

ジュネーブ軍縮会議

軍縮会議」のページをご覧ください。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ジュネーブ軍縮会議」の意味・わかりやすい解説

ジュネーブ軍縮会議
じゅねーぶぐんしゅくかいぎ

1932年に61か国が参加してジュネーブで開かれた軍縮会議。国際連盟理事会は1925年末に軍縮会議に向けて準備委員会を設置したが、30年12月同委員会は条件付きながら、イギリス・フランス案を中心とする軍縮条約案の概要につき合意に達した。そこで31年1月の連盟理事会の決定に基づき、32年2月から59か国(のち、ドミニカ、イラクが加わり61か国)が参加してこの会議が開催された。しかし、ベルサイユ条約による厳しい軍備制限から免れようとして均等軍備権を主張するドイツと、歴史的な経験からその前提として確固たる安全保障制度の構築を主張するフランスとの対立が障害となって話し合いは進展しなかった。イギリスは再三妥協案を提示したが、33年1月にドイツにヒトラー政権が誕生、同年日本、ドイツの国際連盟脱退と環境が悪化し、調停の努力は成功しなかった。軍縮会議は34年末以後再開されなかった。

[前田 寿・納家政嗣]

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世界大百科事典(旧版)内のジュネーブ軍縮会議の言及

【ロンドン軍縮会議】より

…ワシントン海軍軍備制限条約(1922)の有効期間満了が近づいたため,マクドナルド・イギリス首相の提唱で,イギリス,アメリカ,日本,フランス,イタリアの五大海軍国がロンドンで開催した会議(1930年1月21日~4月22日)。 1927年6~8月に開かれた5ヵ国によるジュネーブ軍縮会議は,長い海岸線防衛用に主力艦を重視するアメリカと,世界にまたがる帝国防衛のために小型巡洋艦に制限を加えまいとするイギリスの対立が鋭く,暗礁にのりあげていた。これを受けたロンドンの会議ではイギリス,アメリカがともにその要求を取り下げた。…

※「ジュネーブ軍縮会議」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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