ジョミニ(英語表記)Jomini, Antoine Henri, Baron de

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ジョミニ」の意味・わかりやすい解説

ジョミニ
Jomini, Antoine Henri, Baron de

[生]1779.3.6. ボー,ペイエルヌ
[没]1869.3.24. パリ
スイス出身の軍人,軍事研究家,歴史家。初めパリで銀行に勤めたが,軍務につくことを望み,1800年スイス人傭兵大隊の少佐に就任。 1801年軍務を辞し,パリへ戻り,そこでフリードリヒ2世 (大王)の作戦を研究,『大戦術論』 Traité de grande tactique (のち『大作戦論』と改題) を著述した。その著述をフランス軍司令官であったミシェル・ネー将軍に認められ,1804年フランス軍に勤務。 1805年にはナポレオン1世に認められ参謀大佐に任命され,ネーの幕僚となった。その後,ナポレオン軍の参謀総長ルイ・アレクサンドル・ベルティエと対立,フランスの軍務から退くことを決意し,1813年フランス軍陣地を脱出して,ロシア軍に投降。ロシアでは中将に任じられ,アレクサンドル1世の幕僚に就任。 1826年大将に昇進,ニコライ1世の軍事顧問となり,1828年トルコ戦を指揮,1830年にはロシア軍事アカデミーを組織した。また皇太子アレクサンドル (2世) を教育し,クリミア戦争 (1853~56) に際しても,ニコライを助けた。晩年はもっぱらパリで過ごし,ナポレオン3世のイタリア遠征に際してはその顧問となった。戦術家としても早くから注目された。主著『戦略原論』 Principes de la stratégie (3巻,1818) ,『革命戦争史』 Histoire critique et militaire des guerres de la Révolution (15巻,1820~24) ,『ナポレオン伝』 Vie politique et militaire de Napoléon (4巻,1827) ,『用兵術詳解』 Précis de l'art de la guerre (1838) など。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ジョミニ」の意味・わかりやすい解説

ジョミニ
じょみに
Antoine Henri Jomini
(1779―1869)

フランス語圏スイス生まれの軍人、軍事思想家。ナポレオン軍に従軍したのち、1813年から晩年までをロシア軍に仕えた。彼はクラウゼウィッツとともに19世紀兵学を代表する思想家で、戦勝のための不変の原理探究に努め、また内戦作戦を重視した。彼の兵学思想にはフリードリヒ2世の影響が濃いが、ナポレオン作戦の解説者として各国の軍人によって賞賛された。アメリカの海軍戦略家マハンら、ジョミニの思想から出発した軍事思想家は多い。著作は『大作戦論』全8巻(1804~1816)をはじめ数多いが、『戦争術概観』(1838)がもっともよく知られている。

山崎 馨]

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改訂新版 世界大百科事典 「ジョミニ」の意味・わかりやすい解説

ジョミニ
Antoine Henri Jomini
生没年:1779-1869

兵術理論の大家。スイス系フランス人で,ロシア陸軍大将。若くしてフランス軍のスイス連隊に入り,1798年スイス軍に転勤し民兵部隊の編成に貢献した。1804年ふたたびフランス軍に転入し,ネー将軍の幕僚としてナポレオン戦争に参加した。06年男爵の位を受けた。ナポレオンのロシア遠征に従軍したあとロシア軍に転じ,アレクサンドル1世の幕僚として優遇され,第4次露土戦争に参戦し,また皇太子(のちのアレクサンドル2世)の軍事教育を担当した。1856年パリ郊外にもどり余生を送った。彼は,同時代のドイツのクラウゼウィツと並び称せられるナポレオン戦争の研究家である。彼の研究は科学的,数理的に戦略・戦術を分析した点が特色で,幾何学的すぎるとの批判もあった。彼は戦略を〈国家防衛のため戦地において軍隊を運用する術〉と規定した。彼の戦術思想は,明治初期フランス教師を通じて日本陸海軍にも強い影響を与えた。おもな著書に《戦略諸原則》(1804-16),《戦争概論》(1831)等がある。
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