ロシア・ソ連の俳優、演出家、演劇理論家。本名はアレクセーエフАлексеев/Alekseev。芝居好きなモスクワの工場主の家に生まれ、3歳ですでに家庭芝居に出演、幼時から芸術、とくに演劇に関心を抱きながら育った。1877年に兄弟姉妹を中心にアマチュア家庭劇団を結成し、その舞台に立つとともに、演出家として実験を重ねた。この時期にオペレッタ『ミカド』の演出・出演のため、日本人軽業(かるわざ)師一行を家庭に招き、起居をともにしながら彼らの日常生活を細かく観察したが、ここにはリアリズム演劇の創造方法の萌芽(ほうが)がみられる。モスクワに芸術文学協会(1888~98)を設立、トルストイの『文明の果実』の初演や、ドストエフスキーの中編『スチェパンチコボ村とその住人』の脚色上演で演出家として認められた。当時流行していた紋切り型の芝居に反対して、真に革新的な民衆演劇を生み出すため、98年に劇作家で演出家のネミロビチ・ダンチェンコと共同でモスクワ芸術座を創立し、『かもめ』(1898)をはじめとする一連のチェーホフの作品や、ゴーリキーの『小市民』(1901)、『どん底』(1902)などを初演して輝かしい成功を収め、リアリスティックな手法で舞台を詩的象徴にまで高める独自の演出スタイルを確立し、社会的テーマも打ち出した。関心の振幅はきわめて大きく、一時、象徴主義に共鳴したり、クレイグに傾倒したりした。ロシア革命(1917)の直後には古臭いブルジョア演劇と非難されたが、1930年代に社会主義リアリズムとして再評価された。多数の優れた後進を育て、オペラにも関心を示し、死ぬまで革新的なものを追求する姿勢を保ち続けた。彼が樹立したスタニスラフスキー・システムは、世界の演劇に、とりわけ俳優教育に決定的な影響を与えている。主著に『俳優の仕事』全3巻(1938~48)、自伝『芸術におけるわが生涯』(1926)がある。
[中本信幸]
『蔵原惟人・江川卓訳『芸術におけるわが生涯』全2冊(1983・岩波書店)』▽『山田肇著『スタニスラフスキー』(1951・弘文堂)』
ロシア・ソビエトの俳優,演出家。モスクワの有名な実業家アレクセーエフ家の次男。14歳のとき家庭劇団を組織し,やがて芸名スタニスラフスキーを名のった。本格的俳優修業を志して著名な演出家や歌手を教師に招き,1888年芸文協会Obshchestvo iskusstva i literaturyを設立。その演劇活動はしだいに世評の的となり,とくに彼自身はすぐれた才能と容姿によって職業劇団から客演の誘いをうけ,またこの劇団に加入を望む者があいついだ。97年ネミロビチ・ダンチェンコと出会い,翌年秋彼とともにモスクワ芸術座を創立した。以来ロシア革命の激動期をはさんで,没年までの40年間に100編におよぶ内外の古典と新作の上演を指導し,芸術座を世界の近代劇運動の頂点に立つ演劇の殿堂たらしめた。
1932年の大患後は多年の関心事であった俳優の創造活動の解明とその教育の方法確立に心血をそそぎ,いわゆるスタニスラフスキー・システムと名付けられた俳優芸術の創造方法をあみだした。それは,観客を心から感動させる人間生活の真実を舞台に再現するためには,俳優は役を演じるのではなく,役を生きなければならない,つまり身体と心理の動きが不可分に結びつく劇行動をつくりださねばならない,というものであった。こうした前提から出発して彼は心理技術と身体行動の一元的訓練の方法を探求し,脚本の理念と登場人物の性格の解釈,これを形象化する過程を明らかにしようとした。それは俳優術に科学的根拠を与え,技芸の充実の指標を示すものとなったが,スタニスラフスキーはこれが教条的にうけとめられることを戒め,俳優と演出家の創造活動に広範な自由を与えている。
このようにして,彼の教えは《俳優修業》(1938)などにまとめられている。そして,それらはドラマだけでなく,オペラ,バレエを含む,あらゆる劇場芸術の演出,演技の基礎訓練の教程となり,リアリズムを志向する世界各国の劇場人必読の文献となっている。
執筆者:野崎 韶夫
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…俳優が演劇の第1次的要素であるという事実は,古今東西例外はない。その俳優の演技についての論は,演劇を論ずるとき最重要であるはずだが,西欧では,体系的演劇論としては戯曲論の方が先行して量的にも質的にも優先し,演技論が理論的体系的に扱われるのは,近代のモスクワ芸術座の創始者K.S.スタニスラフスキー以後である。 ところが日本の伝統演劇の世界では,この事情がまったく逆で,15世紀前半にすでに《花伝書》をはじめとする世阿弥の高度な演技論が成立していた。…
…1874年から90年にかけて彼の劇団マイニンゲン一座はヨーロッパ各地の都市を巡演したが,その集団的演技による群衆処理と写実的な演出は,各国の近代劇運動に大きな影響を与え,数多くの新しい演出者が登場してきた。戯曲の言葉を重視し,自然主義を徹底させた自由劇場Théâtre Libreを創設(1887)したフランスのA.アントアーヌ,V.I.ネミロビチ・ダンチェンコとともにモスクワ芸術座を結成(1898)してチェーホフ,ゴーリキーらの新しい戯曲をとりあげ,リアリスティックな俳優術を探究したK.S.スタニスラフスキーなどすぐれた演出家が生まれてきた。イギリスのE.H.G.クレーグは演出の概念を徹底化し,理論的考察を与えた最初の人である。…
…それは,演劇の〈始原〉を考えるうえでも,ある一定の意味をもつと思われるが,訓練された俳優が,役のタイプや大まかな筋書きを与えられ,その場に応じて演じる即興劇のようなものとしては,17世紀に隆盛をみるイタリアのコメディア・デラルテが,とくに有名である。また,近代的な俳優訓練のために,組織的に〈即興〉という手段を利用した最初の偉大な演劇人は,K.S.スタニスラフスキーであろう。彼は,俳優の想像力を刺激し,登場人物の内面的行動や劇の構造・リズムなどをより深く把握させるために,その修業の重要な手段として〈即興〉をとらえた。…
…具体的には,19世紀末のマイニンゲン一座やA.アントアーヌの〈自由劇場〉運動,リュニェ・ポーの〈制作座〉の仕事などをはじめとして,20世紀に入ってからは次のような人々の俳優術への寄与が目だつ。まず,モスクワ芸術座を率いたK.S.スタニスラフスキーは,19世紀にフランスのディドロが指摘・強調した演技の意識化,〈俳優の逆説〉論の系譜に立って,役の内面を行動で生きるのが身上という新しい演技術を唱え,システマティックにその開発を行った。また,イギリスのE.H.G.クレーグやスイス生れのA.アッピア,ドイツのM.ラインハルトらがそれぞれに唱えた演技論・俳優論は重要であるし,フランスではJ.コポーを筆頭にC.デュランやL.ジュベらによって詩的演技が提唱・実践された。…
…1913年ウィーンでのシオニスト会議の席上,ツェマッハNahum Zemach(1887‐1939)が,各国に分散するユダヤ人の心をパレスティナに結ぶ劇を創造することを思い立ち,4年後,ロシア革命の渦中のモスクワでわずか10名の芝居好きとともにこれを実行に移そうとした。スタニスラフスキーに援助を求めると,ワフタンゴフに指導をゆだね,後者の奔走で〈芸術座〉付属第4研究劇場が結成された。翌18年,ユダヤ作家の一幕物4本でデビューして注目を浴び,アン・スキ作《デュブク(怨霊物語)》の大成功で職業劇団として自立した。…
…ネブラスカ州オマハ生れ。陸軍士官学校から放校処分を受けたのち,ニューヨークの〈ドラマティック・ワークショップ〉に学び,女優であり演出家であったステラ・アドラーからスタニスラフスキーの演技論と技術を学ぶ。1944年,《ママの想い出》でブロードウェーにデビューし,47年エリア・カザンElia Kazan(1909‐ )演出の《欲望という名の電車》(1951年に同監督により映画化)で一躍スターとなり,〈スタニスラフスキー・メソッド〉とよばれる演技スタイルが流行するきっかけをつくり,〈アクターズ・スチュディオ〉のメンバーとなった。…
…頭文字をとってムハト(MKhAT)と略称される。1898年10月にスタニスラフスキーとネミロビチ・ダンチェンコによりモスクワに創立された。設立の動機は,低俗な出しもの,場当りと紋切型の芝居,粗雑な装置や背景,主演者中心の安易な興行など,当時の演劇界の通弊と因習を断ちきり,演劇本来の社会的使命をまっとうしようというものであり,一方また,おりから西欧を風靡(ふうび)した演劇革新の声に呼応して,ロシア演劇のリアリズムの伝統をふまえ,高度の理念と生活の真実につらぬかれた舞台を創造しようというものであった。…
※「スタニスラフスキー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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