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スターリングラードの戦い スターリングラードのたたかいBattle of Stalingrad

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

スターリングラードの戦い
スターリングラードのたたかい
Battle of Stalingrad

第2次世界大戦中の 1942年8月から 1943年2月まで,ソ連のスターリングラード (現ボルゴグラード) をめぐってドイツ軍とソ連軍の間で行なわれた攻防戦。 1942年7月ドイツ軍は東部戦線夏季大攻勢を開始,F.パウルス大将 (のちに元帥) を司令官とする第6軍は,8月 23日スターリングラード郊外に進出し,市内に突入して市街戦となった。 10月 14日スターリングラードのソ連防衛軍は一時危機に瀕したが,頑強に抵抗し,11月 19日 G.ジューコフ元帥のもとで総反撃に転じた。 23日第6軍 25万人のドイツ将兵は完全に包囲されたが,ヒトラーはパウルスに,救援と空中補給を待ってスターリングラードを死守することを命じた。ドイツ軍の包囲環の外からの反攻も成功せず,パウルスは 1943年1月 31日生き残った9万 1000人のドイツ将兵とともに降伏,2月2日,戦闘は終結した。パウルスの抗戦は,カフカス方面のドイツ軍の後退を可能とする戦略的意義があったが,この戦いは,ドイツ軍の東進を阻止し,第2次世界大戦で枢軸側が敗れる転機となった。ソ連では「ボルゴグラードの戦い」と呼ばれた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

スターリングラードの戦い
すたーりんぐらーどのたたかい

第二次世界大戦中、1942年11月から翌年1月にかけてソ連軍が、ドイツ軍に突入されたスターリングラードСталинград/Stalingrad(現ボルゴグラード)を包囲奪回した戦いをいい、大戦の決定的な転換点の一つとされている。
 1942年夏、ヒトラーは独ソ戦線では南部に力を注ぎ、軍を二つに分け、一つをカフカスの穀倉・油田地帯に、一つをスターリングラードに向けた。スターリングラードはボルガ川下流の工業都市で、戦略的要衝であっただけでなく、スターリンの名を冠したこの都市を奪うことで重大な心理的打撃を与えようとしたのである。それだけにソ連軍の抵抗も激しかった。1942年9月、ドイツ軍(パウルス将軍麾下(きか)の第6軍、33万)は市内に突入したが、市街戦は激しく、全市を制圧できなかった。この間ソ連軍は反攻計画をたて、同年11月19日、まず市の西約100キロメートルにあるドイツ側のルーマニア第3軍を攻撃し、南西に壊走させた。翌20日、市の南から西に向かって攻撃し、ルーマニア第2軍を壊走させ、23日にはドイツ第6軍を包囲するに至った。パウルスは第6軍の南西への撤退を要請するが、ヒトラーは拒否し、あらゆる援助を約束した。だが空輸による補給は要求の7分の1にも及ばず、マンシュタイン元帥による包囲突破作戦(12月)も失敗した。1943年1月、ソ連軍は包囲を狭め、市内に突入するとともに降伏を勧告した。パウルスの降伏許可要請を、ヒトラーは拒否し、元帥昇進で激励したにすぎない。同月31日パウルスは降伏し、24人の将軍、2500人の将校を含む9万1000人が捕虜となった。
 この戦いは、独ソ戦の転換点になった。以後、ソ連軍の士気はあがり全面的な反攻に転じたのに対し、ドイツ軍は衝撃を受け守勢にたたされた。連合軍でも、スターリングラードは反撃の合いことばとなった。[吉田輝夫]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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