スターリングラードの戦い(読み)すたーりんぐらーどのたたかい

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

スターリングラードの戦い
すたーりんぐらーどのたたかい

第二次世界大戦中、1942年11月から翌年1月にかけてソ連軍が、ドイツ軍に突入されたスターリングラードСталинград/Stalingrad(現ボルゴグラード)を包囲奪回した戦いをいい、大戦の決定的な転換点の一つとされている。

 1942年夏、ヒトラーは独ソ戦線では南部に力を注ぎ、軍を二つに分け、一つをカフカス穀倉・油田地帯に、一つをスターリングラードに向けた。スターリングラードはボルガ川下流の工業都市で、戦略的要衝であっただけでなく、スターリンの名を冠したこの都市を奪うことで重大な心理的打撃を与えようとしたのである。それだけにソ連軍の抵抗も激しかった。1942年9月、ドイツ軍(パウルス将軍麾下(きか)の第6軍、33万)は市内に突入したが、市街戦は激しく、全市を制圧できなかった。この間ソ連軍は反攻計画をたて、同年11月19日、まず市の西約100キロメートルにあるドイツ側のルーマニア第3軍を攻撃し、南西に壊走させた。翌20日、市の南から西に向かって攻撃し、ルーマニア第2軍を壊走させ、23日にはドイツ第6軍を包囲するに至った。パウルスは第6軍の南西への撤退を要請するが、ヒトラーは拒否し、あらゆる援助を約束した。だが空輸による補給は要求の7分の1にも及ばず、マンシュタイン元帥による包囲突破作戦(12月)も失敗した。1943年1月、ソ連軍は包囲を狭め、市内に突入するとともに降伏を勧告した。パウルスの降伏許可要請を、ヒトラーは拒否し、元帥昇進で激励したにすぎない。同月31日パウルスは降伏し、24人の将軍、2500人の将校を含む9万1000人が捕虜となった。

 この戦いは、独ソ戦の転換点になった。以後、ソ連軍の士気はあがり全面的な反攻に転じたのに対し、ドイツ軍は衝撃を受け守勢にたたされた。連合軍でも、スターリングラードは反撃の合いことばとなった。

[吉田輝夫]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 の解説

スターリングラードの戦い
スターリングラードのたたかい
Battle of Stalingrad

第2次世界大戦中の 1942年8月から 1943年2月まで,ソ連のスターリングラード (現ボルゴグラード) をめぐってドイツ軍とソ連軍の間で行なわれた攻防戦。 1942年7月ドイツ軍は東部戦線夏季大攻勢を開始,F.パウルス大将 (のちに元帥) を司令官とする第6軍は,8月 23日スターリングラード郊外に進出し,市内に突入して市街戦となった。 10月 14日スターリングラードのソ連防衛軍は一時危機に瀕したが,頑強に抵抗し,11月 19日 G.ジューコフ元帥のもとで総反撃に転じた。 23日第6軍 25万人のドイツ将兵は完全に包囲されたが,ヒトラーはパウルスに,救援と空中補給を待ってスターリングラードを死守することを命じた。ドイツ軍の包囲環の外からの反攻も成功せず,パウルスは 1943年1月 31日生き残った9万 1000人のドイツ将兵とともに降伏,2月2日,戦闘は終結した。パウルスの抗戦は,カフカス方面のドイツ軍の後退を可能とする戦略的意義があったが,この戦いは,ドイツ軍の東進を阻止し,第2次世界大戦で枢軸側が敗れる転機となった。ソ連では「ボルゴグラードの戦い」と呼ばれた。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 の解説

スターリングラードの戦い(スターリングラードのたたかい)

ヴォルガ河畔の都市スターリングラード(現ヴォルゴグラード)において,第二次世界大戦中の1942年7月から翌年2月にかけて行われたナチス・ドイツとソ連の一大決戦。市の大部分を占領したドイツ第6軍に対して,11月下旬にソヴィエト軍は反撃を開始し,逆にドイツ軍を包囲した。ヒトラーは軍の撤退の要望を拒否し,ドイツ軍は9万の兵力を残したまま降伏した。この壊滅的打撃は第二次世界大戦全体にとって決定的な転換点となった。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 の解説

スターリングラードの戦い
スターリングラードのたたかい
Stalingrad

第二次世界大戦中の1942年8月から翌年2月に行われたドイツ・ソ連間の決戦
ウクライナ方面から侵入したドイツ軍をスターリングラード(現ボルゴグラード)に包囲して壊滅的打撃を与え,ソ連の全面反攻の口火となった。

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世界大百科事典(旧版)内のスターリングラードの戦いの言及

【ドキュメンタリー映画】より

…あらゆる映画は戦争遂行のためにのみつくられた〉(野田真吉《日本ドキュメンタリー映画全史》)。
[戦後のドキュメンタリー]
 戦中から戦後にかけての一つの特色ある映画現象は,〈ドキュメンタリー〉と〈劇映画〉が接近して交錯し,たとえばアメリカでは〈セミ・ドキュメンタリー(映画)〉と呼ばれる一群の作品が,また,ソビエトではマルク・ドンスコイ監督《戦火の大地》(1943)やレオ・アルンシタム監督《ゾーヤ》(1944)からフリードリヒ・エルムレル監督《大いなる転換》(1945)をへて,イーゴリ・サフチェンコ監督《第三の襲撃》(1948),ウラジーミル・ペトロフ監督《スターリングラードの戦い》(1949),ミハイル・チアウレリ監督《ベルリン陥落》(1950)に至って〈ドキュメンタリー・ドラマ映画〉と呼ばれた作品群が,また,イタリアでは〈ネオレアリズモ〉と呼ばれる傾向の作品がつくられたことである。このドキュメンタリーの手法による劇映画の傾向は,その後も各国で多様化しつつ進展し,ポーランドではアンジェイ・ムンク,イェジー・カワレロビッチ,アンジェイ・ワイダらの〈ポーランド派〉(ポーランド映画),イギリスではトニー・リチャードソン,カレル・ライス,リンゼー・アンダーソンらの〈フリー・シネマ〉,フランスではジャン・ルーシュ,クリス・マルケルらの〈シネマ・ベリテ〉,あるいはまたジャン・リュック・ゴダール,フランソワ・トリュフォーらの〈ヌーベル・バーグ〉,アメリカではライオネル・ロゴーシン,アルバート・メイスルズ,リチャード・リーコックらの〈ダイレクト・シネマ〉が生まれ,その後の各国の映画に大きな影響をあたえることとなった。…

※「スターリングラードの戦い」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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