日本大百科全書(ニッポニカ) 「スピノラ」の意味・わかりやすい解説
スピノラ(Carlo Spinora)
すぴのら
Carlo Spinola
(1564―1622)
イタリア人宣教師、福者殉教者。イエズス会士として日本伝道に従事し、1602年(慶長7)長崎に上陸、有馬(ありま)に布教する。1605年京都に上り、司牧慈善活動に専心する一方、南蛮寺に数学・天文学のアカデミアを設立した。彼はドイツの天文学者で、グレゴリオ暦の提案者クラビウスの指導を受け、マテオ・リッチと同門であった。1612年長崎に帰来し、日本で初めて月食の科学的観測を行った。彼はキリシタン迫害下にあってよく異教徒に伝道し、洗礼を授けたが、1618年(元和4)に捕らえられ、1622年(元和(げんな)8)9月10日、神父、信徒25名とともに長崎立山(たてやま)における大殉教(元和大殉教)で火刑に処せられた。
[磯見辰典 2018年2月16日]
スピノラ(António Sebastião Ribeiro de Spínola)
すぴのら
António Sebastião Ribeiro de Spínola
(1910―1996)
ポルトガルの軍人、政治家。当時、植民地であったギニア・ビサウの総督兼駐留軍司令官(1968~1973)として軍事と行政の両面で名をあげ、1973年国軍参謀次長に任命されるが、1974年『ポルトガルとその将来』を著して政府の軍事偏重の植民地統治策を批判し解任された。こうして若手将校たちの希望の星となった彼は、1974年4月の軍事クーデターの成功により5月に大統領となるが、ゴンサルベス内閣の左翼急進主義と衝突して9月に辞任した。翌1975年3月の反政府クーデターに失敗し、ブラジルに亡命したが、軍急進派の失脚後の1976年に帰国した。
[平瀬徹也]
『金七紀男訳『ポルトガルとその将来――国家の状況分析』(1975・時事通信社)』
スピノラ(Christoph Roias de Spinola)
すぴのら
Christoph Roias de Spinola
(1626ころ―1695)
プロテスタントとの合同を唱えたスペインのカトリック神学者。オランダで生まれ、フランシスコ会に入会し、修道者となった。オーストリアのウィーナー・ノイシュタットの司教となる。皇帝レオポルト1世に外交使節をゆだねられ、カトリックとプロテスタントの一致のために努力した。プロテスタント神学者モラヌスGerhard Wolter Molanus(1633―1722)や哲学者ライプニッツとの忍耐強い交渉は有名。またドイツ諸侯と折衝を重ね、ローマを三度訪ねて、教会一致の公会議を開こうと努力したが、フランスの反対にあって不成功に終わった。
[門脇佳吉 2017年11月17日]