セーチェニ(英語表記)Széchenyi István

改訂新版 世界大百科事典 「セーチェニ」の意味・わかりやすい解説

セーチェニ
Széchenyi István
生没年:1791-1860

ハンガリー政治家。大土地所有貴族の出。開明的なセーチェニ・フェレンツSzéchenyi Ferencの息子。ナポレオン戦争に出征したあと1815年から25年にかけてイギリス,フランス,イタリアなどを訪れ,とくにイギリスの政治に強く引かれた。25年に政界入りし,産業と文化の発展に基づく穏健な社会改革をめざし,30年代の〈改革時代〉を指導。著書信用》(1830),《光》(1831),《状況》(1833)で,支配階級の自主的な社会改革(信用取引の近代化,貴族特権の放棄農奴解放,検閲の廃止)を求めるとともに,近代産業の育成に尽力した。40年代に入って〈改革時代〉の指導権がより急進的なコッシュートに移ると,《東方の民》(1841)などでその急進的改革を批判。コッシュートと比べ,ハプスブルク家との結合や上層貴族の指導性を重視し,農奴解放などで不徹底な面があった。一方,民族政策では強引なハンガリー化に反対した。48年3月の革命に際して,初代ハンガリー内閣バッチャーニュ内閣)の交通相となったが,オーストリアとの関係が悪化すると,同年9月に精神障害を起こし,ウィーン郊外のデブリングの病院入院,その後政界から遠のく。しだいにオーストリアへの幻滅を強め,59年にひそかにロンドンでオーストリアの内政・外政批判の小冊子を出版するが,その責任を問われて病院内で自殺。その評価は1950年代までに比べ,しだいに高まってきている。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「セーチェニ」の意味・わかりやすい解説

セーチェニ
Széchenyi István

[生]1791.9.21. ウィーン
[没]1860.4.8. ウィーン近郊デーブリンク
ハンガリーの政治家。大貴族の出身。反ナポレオン戦争に参加。その後フランス,イギリスを旅行してハンガリーの後進性を痛感。西ヨーロッパ文明の導入によるハンガリーの近代化を主張。私財を投じて「ハンガリー科学アカデミー」を創設し (1825) ,マジャール語の改革に貢献。またドナウ川航路の改良事業を行い,蒸気船を導入した (30) 。多くのパンフレットを著わして経済近代化を説き,大貴族の浪費癖を批判。しかしハプスブルク家への忠誠と漸進的改革に固執したため,1840年代には青年層の支持を失い,コシュートと対立した。 1848年革命に際してはバチャーニュ内閣に入閣したが,オーストリアの干渉が開始されると発狂し,ウィーン近郊の病院に収容された。 59年オーストリアの専制政治を批判する文書を発表し,治安妨害容疑に問われて,翌年4月自殺。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「セーチェニ」の解説

セーチェニ
Széchenyi István

1791~1860

ハンガリーの政治家,大貴族。封建的ハンガリーの穏健な改革をめざし,1830年代を中心に,近代的信用の確立,農奴制の改革,検閲の廃止に努力。科学アカデミーやセーチェニ橋の建設に貢献。48年のハンガリー初の内閣では交通相となるが,精神障害を起こして引退。

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